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甘い蜜に溺れる花は夜に染まる  作者: アル


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2/15

2話 夜が、あなたの名を呼ぶ

夕方、店先に差し込む光が傾き始めた頃。

私は、結び終えたリボンの形を指先で整えた。


淡い花々の間に、深い紫を少し。

昼の光の下では控えめに見えるその色も、届け先の照明の中では、また違う表情になる。


「これ、もう運んでいい?」


琉生が、カウンターの横で袖をまくった。


「うん。下から持ってくれる? 少し重いから。」


「大丈夫。」


器の底へ両手を差し入れ、琉生が花を持ち上げる。

花びらがかすかに揺れて、すぐに静まった。


私は先に裏手へ回り、配達用の車の荷室を開けた。

琉生がそっと下ろした器の周りに、緩衝材を詰めていく。


「いつも、これ一人でやってるの?」


「うん。台車もあるし、慣れちゃえば平気だよ。」


「俺がいるときは、俺にやらせて。」


「じゃあ、今日はよろしくお願いします。」


そう言って笑うと、琉生も笑った。


小さい頃は、水の入っていない花桶を一つ運んだだけで、得意そうな顔をしていた。

今では、私が持つと少し腰にくるような器も、難なく運んでくれる。


頼もしくなったものだと思いながら、私は荷物が動かないことを確かめた。


店の戸締まりをして、入口に配達中の札を掛ける。

戻る予定の時刻を書き添え、車へ戻った。


助手席では、琉生が少し窮屈そうに脚を折り曲げていた。


「狭かったら、座席下げていいよ。」


「平気。」


「忘れ物は?」


「みあ、俺いくつだと思ってるの。」


笑いながら言われて、私も笑った。


「だって、昔はよく取りに戻ってたでしょ。」


「昔の話ね。」


「そうでした。」


シートベルトを締めて、エンジンをかける。

隣で、琉生が私の鞄を指さした。


「伝票、持った?」


「持ったよ。」


念のため中を確かめると、それを見ていた琉生が笑った。



◇



路地を抜けると、夕方の街がフロントガラスいっぱいに広がった。


横断歩道を渡る学生。

買い物袋を提げ、駅へ向かう人。

傾いた日差しが、建物の窓を薄い金色に染めている。


曲がり角の手前で、ゆっくり速度を落とした。

荷室の花を気にしてバックミラーを見ると、琉生も後ろを振り返った。


「大丈夫。動いてないよ。」


「ありがとう。」


一人のときは、物音がするたびに少し気になる。

見てくれる人が隣にいるだけで、今日は随分と気が楽だった。


「送ってもらえて、助かった。」


「花を届けるついでだから。」


「俺は、みあと一緒に行けるから嬉しいけど。」


「じゃあ、帰りの荷物もお願いしようかな。前に届けた器、引き取る予定なの。」


「いいよ。何でも持つ。」


「頼りにしてます。」


琉生は笑って、座席に背を預けた。


昔から、私が買い出しに行こうとすると、よく一緒についてきた。

荷物を持つと言いながら、帰りには眠くなって、私の服の裾を掴んでいたこともある。


今は、その手に重たい花を任せられる。

長い付き合いの中で変わったことはたくさんあるけれど、一緒に出かけるときの気安さは、あの頃とあまり変わらなかった。


「今日は忙しくなりそう?」


赤信号で停まってから尋ねると、琉生が頷いた。


「イベントだからね。」


「ご飯、食べる時間ある?」


「あるよ。」


「忙しいからって、抜かないようにね。」


「……うん。」


返事をしたあと、琉生は何かおかしそうに口元を緩めた。


「何?」


「みあらしいなと思って。」


「食べるのは大事でしょ。」


信号が青に変わる。

私は前を向き、ゆっくりと車を走らせた。



◇



駐車場から店までは、琉生が花を運んでくれた。


私は伝票と荷物を持ち、その隣を歩く。

空にはまだ明るさが残っていたけれど、通りの看板には、もう灯りがともり始めていた。


エレベーターを降りると、黒い扉の脇に銀色の文字が浮かんでいた。


CLUB NOCTURNE。


夜想曲という意味なのだと、以前、琉生が教えてくれた。


扉を開けると、低い音楽が耳に届いた。


黒を基調とした店内。

壁際の間接照明が、ソファの輪郭を柔らかく照らしている。

磨かれたテーブルにも、棚に並ぶグラスにも、細い光が宿っていた。


まだお客様のいない店は静かで、準備をする人たちの声と、食器の触れ合う音がよく聞こえた。


「キョウヤさん、おはようございます。」


テーブルを整えていた男性が顔を上げる。


「おはよう。花、どこに置く?」


「奥の席の横でお願いします。今、空けますね。」


琉生は頷き、迷いなく店の奥へ進んだ。

私はその後ろについて歩いた。


ここでは、琉生は「キョウヤ」と呼ばれている。


歌舞伎町のホストクラブ、CLUB NOCTURNE。

売上も指名も、この店で一番なのだと、以前、スタッフの方から聞いた。


私には、琉生の仕事の詳しいことは分からない。

それでも、こうして店へ来ると、周りから頼りにされているのは伝わってくる。


花を運ぶ途中にも声を掛けられ、琉生は足を止めて短く答えていた。

助手席に座っていたときより、口数は少ない。

その受け答えには、仕事に慣れた人の落ち着きがあった。


「秋野さん、いつもありがとうございます。」


声を掛けられ、私も頭を下げた。


「こちらこそ、ありがとうございます。お花、こちらでよろしいですか?」


指定された台に、琉生が器を下ろす。


私は少し離れて全体を眺めてから、花の向きを調整した。

荷物の中から鋏を出し、飛び出して見える葉を一枚だけ切る。


淡い花びらは照明を受けて、店で見たときより明るく浮かび上がった。

その間に添えた深い紫が、花全体を落ち着かせている。


「わあ、きれいですね。」


スタッフの声に、私は顔を上げた。


「こちらの照明に合えばと思ったんですが、よかったです。」


「すごく合っています。主役の方にも喜んでもらえそう。」


ほっとして、最後にリボンの形を直す。


挿絵(By みてみん)


「みあ。こっちからも見て。」


琉生に呼ばれて、隣へ移動した。


お客様が座る位置から見ると、奥に添えた小さな花まで、きちんと見えた。

これなら、席についてからも楽しんでもらえる。


「うん。大丈夫そう。」


「きれいだね。」


「ありがとう。運んでくれたおかげで、崩れずに済んだよ。」


琉生が何か言いかけたところで、スタッフの方が伝票を持って戻ってきた。


私は内容を確認し、控えを鞄へしまった。



◇



前回届けた器を引き取り、持参した袋に収める。

その持ち手を、横から琉生が取った。


「駐車場まで持つ。」


「これ、もう空だから軽いよ。ここまでで大丈夫。」


「でも。」


「お仕事の準備、あるでしょ。」


私が手を差し出すと、琉生は一度袋を見てから、しぶしぶ持ち手を渡してくれた。


「じゃあ、エレベーターまで。」


「うん。今日はありがとうね。」


店を出る前に振り返る。

黒い室内の奥で、届けた花が静かに明るんでいた。


今夜、あの席に誰が座るのか、私は知らない。

ただ、お祝いの時間に少しでも花を添えられたらいいと思った。


廊下へ出ると、店内の音楽が遠くなる。


下りのボタンを押した琉生の手に、小さな葉の切れ端が付いていた。


「琉生、手。」


「ん?」


指先から葉を取って見せる。


「付いてた。」


「ああ。」


「花屋を手伝ったの、ばれちゃうね。」


「別にいいよ。」


笑う琉生の前で、私は葉を紙に包んで鞄へしまった。


エレベーターの扉が開く。

乗り込んで振り返ると、琉生はまだその場に立っていた。


「帰ったら、連絡して。」


「お店に?」


「うん。着いたら。」


「分かった。器を片づけてからでもいい?」


「いいよ。忘れないでね。」


「はいはい。」


昔は私が、家に着いたら電話をしてね、と言っていた。

いつの間にか反対になったものだと思う。


「じゃあ、お仕事頑張ってね。」


「みあ、気をつけて。」


閉まり始めた扉の向こうで、誰かが彼を呼んだ。


「キョウヤさん。」


琉生が振り返る。

私は小さく手を振って、その背中を見送った。


一階へ下り、建物の外へ出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。

駐車場まで歩きながら、店に戻ってからの仕事を頭の中で並べていく。


器を洗って、花桶の水を確かめて。

それから、琉生に連絡をしなくては。


車に荷物を積み、運転席へ座る。

助手席には、持ち帰った伝票の入った鞄を置いた。


行きと同じ道を、今度は一人で戻っていく。


背後では、少しずつ夜の灯りが増えていた。

店で留守番をしている花々には、まだ西日が届いているはずだった。


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