1話 その名を、春に閉じ込めて
「30歳になっても誰とも結婚してなかったら、俺と結婚してよ。」
――15年前、俺がお前にした約束。
あと少しだね。
◇
開け放した扉から、春の柔らかな風が入り込んでいた。
店先に並べた花が、陽だまりの中で小さく揺れている。
新大久保と新宿の間。
大通りから少し外れた路地に、その花屋はある。
白い壁に、深い緑色の屋根。
入口の横には、季節の鉢植えを並べた木製の棚。
一階は花屋で、二階が私の住まいになっている。
両親から受け継いだ、私の大切な店だ。
鉢植えの向きを整えてから、扉を閉める。
店の奥へ戻りかけたところで、背後のベルが、からん、と鳴った。
「いらっしゃいませ。」
振り返ると、見慣れた女性が顔を覗かせていた。
両親が店に立っていた頃から、通ってくださっているお客様だ。
「おはよう、美秋ちゃん。今日は暖かいわね。」
「おはようございます。やっと春らしくなりましたね。」
女性は入口近くの花を眺めながら、ゆっくりと店内へ入ってきた。
「今日は、食卓に飾るお花を少し。明るい色がいいかしら。」
「それなら、この黄色のフリージアはいかがですか。香りもいいんですよ。」
一本手に取って差し出すと、女性はそっと顔を寄せ、目元を和らげた。
「いいわね。これを見ると、お母さんを思い出すわ。」
「母ですか?」
「春になると、よく勧めてくれたの。私がどれにしようか迷っていると、『私、この香りが好きなんです』って。」
母らしい言葉に、思わず笑みがこぼれた。
「好きでした。家にもよく飾っていましたから。」
花瓶のそばを通るたびに、少しだけ足を止める。
そんな母の姿が、ふと目に浮かんだ。
「お父さんは、お花を選んでいる間に、いつもいろんな話をしてくれてね。つい長居してしまったわ。」
「父、おしゃべりでしたもんね。」
女性が笑う。
私も笑って、手元の花へ視線を落とした。
「美秋ちゃんが継いでから、もう何年になるの?」
茎に添えていた指を、そっと持ち直す。
「……もうすぐ、七年ですね。」
「そう。もうそんなになるのね。」
七年。
口にすると短いのに、その間に、店の花は何度も入れ替わった。
父が使っていた鋏にも、母がつけていた帳面にも、今は私の手の跡が重なっている。
それでも、ときどき。
店の奥から、私を呼ぶ声がしそうな気がする。
「今年も、きれいに咲いているわね。」
女性の声に顔を上げる。
その視線の先で、黄色い花が朝の光を受けていた。
「……ありがとうございます。」
私はフリージアをもう一本、手に取った。
◇
それからも、ぽつり、ぽつりとお客様が訪れた。
講義へ向かう途中の学生。
買い物袋を提げた主婦。
スーツを着た会社員が、腕時計を気にしながら花束を頼んでいくこともあった。
平日の午前中は、そんなふうにゆっくりと過ぎていく。
昼を過ぎると、客足はいったん落ち着いた。
夕方になれば、学校や仕事帰りのお客様が増える。その前に、私もお昼を済ませておこう。
壁の時計を見ると、針はもう午後二時を回っていた。
店の奥にある小さなテーブルに、朝作っておいたお弁当を広げる。
ここなら、入口のベルが鳴ればすぐに分かる。
箸を取ったところで、勝手口が控えめに鳴った。
トントン、と二回。
少し間を置いて、もう一度。
聞き慣れたその間合いに、顔を上げる。
扉の向こうを確かめなくても、誰が来たのか分かった。
五つ年下の幼馴染、琉生。
彼はいつも、こんなふうにドアをノックする。
「開いてるよ。」
声をかけると、ドアノブが回り、琉生が顔を覗かせた。
「みあ。」
小さい頃から、私をそう呼ぶのは琉生と両親だけだった。
今、その呼び名を口にするのは、琉生しかいない。
「出勤前に、ちょっと遊びに来た。」
そう言って笑うと、ミルクティー色の髪が頬にさらりとかかった。
白い肌に、すっと通った鼻筋。柔らかな輪郭には、昔の面影が残っている。
中性的な顔立ちはそのままに、背丈だけはいつの間にか私を追い越していた。
琉生は後ろ手にドアを閉めると、テーブルへ視線を落とした。
「今、お昼?」
「うん。気づいたら二時になってた。」
向かいの椅子を引く琉生に、箸を持ったまま尋ねる。
「今日はよく眠れた?」
「うん、眠れたよ。」
「そっか。ならよかった。」
琉生は、夜の仕事をしている。
私が店を開ける頃に眠り、午後になって顔を見せることも珍しくない。
ちゃんと眠れたか、ご飯は食べたか。
会うとつい聞いてしまうのは、小さい頃からの癖だった。
「食べてていいよ。」
琉生に促されて、止めていた箸を動かす。
「琉生は、ご飯食べた?」
「食べたよ。みあは俺の心配ばっかりだね。」
「だって、ちゃんと食べてるのか気になるんだもん。」
琉生は小さく笑って、テーブルに頬杖をついた。
「今日、店から花の注文入ってる?」
「うん。お祝い用のアレンジメント。夕方に届ける予定。」
「じゃあ、俺も運ぶ。」
「出勤前なのに、いいの?」
「どうせ行く場所、一緒でしょ。」
確かにそうだけれど、仕事へ向かう前に手伝わせるのは少し申し訳ない。
迷っていると、琉生は店のほうへ目を向けた。
「もうできてる?」
「あと、リボンをつけたら終わり。」
「見てきていい?」
「もちろん。」
椅子を立った琉生が、店へ続く出入口をくぐる。
その背中を見送り、私はしばらく食事に戻った。
「これ?」
ほどなくして声がする。
「そう。カウンターの横のやつ。」
お弁当の蓋を閉じて店へ戻ると、琉生は淡い色の花を覗き込んでいた。
花びらには触れず、少し身をかがめて眺めている。
「きれいだね。」
「ありがとう。お祝いだから、もう少し華やかなリボンにしようかと思って。」
棚から二本取り出して、花のそばへ添える。
琉生は隣に立ったまま、私の手元を見ていた。
「ねえ、みあ。」
「ん?」
リボンの色を見比べながら返事をする。
「さっき、ドアのノック、誰かも確認せずに開いてるって言ったでしょ。」
「ノックで分かったから。琉生、いつも同じ叩き方するんだもん。」
隣で、琉生が黙った。
不思議に思って顔を上げると、目が合った。
「……そっか。」
その声が少し嬉しそうで、私も笑った。
「でも、誰にでも開けちゃ駄目だよ。」
「分かってるよ。子供じゃないんだから。」
琉生は答えず、棚に置いたリボンの端を指先で揃えた。
「それと。」
「まだあるの?」
冗談めかして尋ねると、彼も笑った。
「ほかの人には、みあって呼ばせないでね。」
リボンを持つ手が止まる。
「……どうして?」
琉生は、私を見ていた。
さっきと同じ、柔らかな顔で。
「それは、俺が呼ぶ名前だから。」




