八話 10年前
雨の日だった。
テレビの向こうで、黄色い規制線が揺れている。
中野正司は缶コーヒーを片手に、そのニュース映像をぼんやり眺めていた。
『市内高校で女子生徒転落——』
よくある事故報道。
刑事だった頃から、何度も見てきた光景だ。高校生の転落事故だって珍しくはない。
だが。
——ピコン。
スマホが震える。
画面には、元同僚の名前が表示されていた。
『中野、お前には伝えとく』
短いメッセージ。
続けて、もう一件届く。
『今回の事故を調べる過程で、榎本清人の名前が浮上してきた』
中野の眉がわずかに動く。
『学校周辺で何度か目撃されてるらしい』
中野は無言で画面を見つめる。
さらにメッセージが続く。
『佐野さくらって生徒を迎えに来てたって話も出てる』
その瞬間。
中野の表情が止まった。
「……佐野?」
小さく呟く。
榎本清人。
佐野さくら。
その二つの名前を聞いた瞬間、十年前の記憶が一気に繋がる。
——あの日も、雨だった。
古い橋。
赤色灯。
規制線。
川を覗き込む野次馬たち。
落ちたのは、七歳の女の子だった。
そして現場には、一人の少年がいた。
榎本清人。
当時十二歳。
「……俺じゃない」
震えた声を、中野は今でも覚えている。
「俺、突き落としてない……本当に知らないんだ」
顔を真っ青にしたまま、何度も繰り返していた。
だが周囲は信じなかった。
最後に一緒にいた。
現場にいた。
それだけで十分だった。
結局、事件は事故として処理された。
証拠不十分。
目撃者なし。
真相不明。
それでも噂だけは残った。
——“榎本清人が突き落とした”。
そして。
佐野。
あの事故現場にいた、もう一つの名字。
「……まさか」
中野は低く呟き、煙草へ火をつける。
ゆっくり煙を吐き出しながら、再びスマホを見る。
『四階の白い女って噂、知ってるか?』
同僚からの追加メッセージだった。
『今、生徒たちの間で騒ぎになってる』
「くだらねぇ……」
中野は低く吐き捨てた。
怪異なんて信じていない。
人が噂を作り、人が騒ぎ、そして人が死ぬ。
ただそれだけだ。
だが。
榎本清人と佐野さくら。
その二人の名前が、この事件へ繋がっている。
それだけは無視できなかった。
『榎本、また話聞くか?』
中野はしばらく画面を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
『……いや』
短く打ち込む。
『あいつじゃない』
送信。
榎本清人は、何かを隠している。
それは間違いない。
だが、“犯人”ではない。
「……だったら誰だ」
中野は低く呟き、テレビ画面へ目を向ける。
雨の高校。
黄色い規制線。
灰色の空。
その景色が、十年前の橋と重なって見えた。




