三話 四階
最初は、ただの冗談だった。
四階の窓に立つ白い女。夜の校舎を歩く足音。誰もいない教室から聞こえる呼吸音。
そんな噂、どうせ誰かの悪ふざけだと思っていた。
少なくとも、昨日までは。
「……はぁ」
田中麗奈は小さくため息を吐きながら、雨の歩道を歩いていた。
空は朝からずっと曇ったままで、夕方になった今はもう夜みたいに薄暗い。街灯が濡れたアスファルトへぼんやり反射し、降り続く雨が白く煙って見えた。
「貸し出し用あってほんと助かった……」
手にしたビニール傘を見ながらぼやくと、隣を歩く遥香が呆れたように笑う。
「だから言ったじゃん。傘持ってこいって」
「朝降ってなかったじゃん」
「天気予報では降るって言ってた」
「見てませんでしたー」
「でしょうね」
二人は並んで駅へ向かっていた。
雨はさっきより少し強くなっている。
その時だった。
「……あ」
突然立ち止まった麗奈に、遥香が振り返る。
「どうしたの?」
「スマホ」
「え?」
「教室に置いてきた」
遥香が露骨に嫌そうな顔をした。
「うそでしょ」
「机の中入れっぱだ」
「今から?」
「スマホないと普通に詰むんだけど」
遥香は深くため息を吐く。
「……じゃあ私も」
「いや、すぐ戻るだけだから大丈夫」
「でも——」
「ほら、まだ校門見えてるし」
そう言って笑うと、遥香は少し迷ったあと、諦めたように肩を落とした。
「じゃ、戻ったら連絡して」
「りょーかい」
「絶対だからね」
軽く手を振り、麗奈は一人で学校へ戻り始めた。
◇
校門をくぐろうとした、その時だった。
ふと視線が上へ向く。
四階。
東側の端の教室。
誰も使っていないはずの空き教室に、ぼんやり白いものが見えた気がした。
「……え?」
窓ガラスからこちらを見ているような女の姿
長い髪みたいなものが揺れた気がする。
けれど次の瞬間には、もう何も見えなかった。
「……見間違い、だよね」
苦笑しながら校舎へ入る。
校舎の中は、不気味なくらい静かだった。
雨音だけが響いている。
夕方のはずなのに廊下は薄暗く、曇った空のせいで窓の外も灰色に沈んで見えた。
「空気こわ……」
思わず漏れた声が、やけに廊下へ響く。
昼間なら何とも思わない場所なのに、今は別の校舎みたいだった。階段を上がる足音までやけに大きく聞こえる。
カツン。
カツン。
「こういう時に限って誰か出てきそうなんだよね……」
半分冗談みたいに呟きながら教室へ向かう。
すると、教室の扉が少しだけ開いていた。
「あれ……?」
一瞬、足が止まる。
誰かいる?
そう思ったが、中は暗い。
麗奈は恐る恐る扉を開けた。
誰もいなかった。
「びっくりした……」
机の中を探ると、スマホはすぐに見つかった。
「よかったー……」
麗奈は安堵したように息を吐く。
静かな教室だった。
窓を叩く雨音だけが響いている。
その時だった。
——ピコン。
突然、スマホが震えた。
「っ!?」
肩が跳ねる。
画面を見る。
知らない番号だった。
そこに表示されていたメッセージを見て、麗奈は眉をひそめる。
『どうしてわらったの?』
「……なにこれ」
意味が分からない。
誰かの悪ふざけ?
そう思った瞬間。
——ガタン。
上の階から、大きな音が響いた。
麗奈の表情が固まる。
「……四階?」
噂の空き教室がある場所だった。
静まり返った校舎に、雨音だけが響いている。
その空気が、やけに気味悪かった。
——カツン。
階段の方から音が聞こえる。
麗奈はゆっくり廊下へ出た。
四階へ続く踊り場。
誰もいない。
けれど。
一瞬だけ、女みたいな人影が見えた気がした。
「っ……」
長い髪。
白い服。
俯いた顔。
だが次の瞬間には、もう消えている。
「……は?」
その場に残っていたのは、濡れた足跡だけだった。
雨で濡れたみたいに、点々と四階へ続いている。
背筋が冷える。
けれど同時に、別の感情も湧いてきた。
「……いや、絶対イタズラでしょ」
そうだ。
怪異なんているわけがない。
どうせ誰かがふざけているだけだ。
「めっちゃ腹立つんだけど」
怖がってると思われるのも癪だった。
誰がやってるのか知らないけど、見つけたら絶対文句を言ってやる。
「……首謀者、捕まえてやる」
強がるように呟きながら、麗奈は四階への階段を上がった。
カツン。
カツン。
自分の足音だけが静かな校舎へ響く。
四階へ辿り着く。
東側の廊下は、他よりさらに暗かった。
灰色の光だけが窓から差し込み、雨音が遠くで鳴り続けている。
その時だった。
廊下の奥。
東端の空き教室へ、人影が入っていくのが見えた。
「……っ!」
女。
そう思った。
長い髪が揺れた気がした。
「待って!」
麗奈は反射的に駆け出す。
空き教室の扉は、少しだけ開いていた。
中は暗い。
けれど。
窓に、白い布みたいなものが掛かっていた。
空き教室だからだろうか。
その白い布へ、ぼんやり女の姿が映っている。
「っ……」
長い髪。
青白い顔。
俯いた女。
雨で滲んだみたいに揺れていた。
「……なに、これ」
麗奈の喉がひゅっと鳴る。
けれど、その姿はどこか不自然だった。
輪郭が曖昧で、現実感がない。
その時だった。
ふっと、女が消える。
「……え?」
そこには白い布だけが残っていた。
麗奈は眉をひそめる。
「……なんだったの」
気づけば、窓へ近づいていた。
開きかけた窓から、冷たい風が吹き込んでいる。
誰かいるのか確認しようとして、麗奈は窓へ手をかけた。
ガラリ、と窓が開く。
その瞬間だった。
強い光が、視界いっぱいに広がる。
「っ——」
一瞬、世界が真っ白に染まった。
◇
——ドシャ!!
雨音に混ざって、何かが地面へ叩きつけられる音が響いた。




