十話 お別れしませんか?
雨が降っていた。
放課後の校舎は静かだった。
教育実習が中止になったことで、高橋由奈は今日で学校を離れることになったらしい。
若菜は教室の窓から、昇降口へ向かう由奈の姿を見つめていた。
少し小さく見える背中。
何度も教師へ頭を下げている。
本当に真面目な人なんだと思う。
だからきっと。
話せば分かってくれる。
若菜はそう信じていた。
◇
「由奈先生」
昇降口へ向かおうとしていた由奈が振り返る。
「あ、木下さん」
由奈は少し驚いたように笑った。
「どうしたの?」
若菜は少しだけ迷うように視線を落とす。
「その……短い間だったけど、お世話になったので」
「うん?」
「お別れ、しませんか?」
一瞬だけ、由奈がきょとんとした顔をする。
けれどすぐに、小さく笑った。
「ふふっ、何それ」
「あ……すみません。変ですよね」
「いや、なんか木下さんらしい」
由奈は優しく笑う。
「ありがとう」
その笑顔を見た瞬間、若菜は少しだけ安心した。
やっぱり。
悪い人じゃない。
「少しだけなら大丈夫だよ」
「……本当ですか?」
「うん」
若菜は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、四階の空き教室でもいいですか?」
「四階?」
「静かなので……」
由奈は少し迷ったあと、小さく頷く。
「分かった」
◇
四階は静かだった。
雨音だけが、校舎の外から響いている。
空き教室の窓には、まだ白いシーツが掛かったままだった。
麗奈が死んだ、あの日から。
撤去する人もいないらしい。
「……まだそのままなんだ」
由奈が小さく呟く。
若菜は黙ったまま、教室の中央へ立っていた。
「先生」
「ん?」
「先生って、清人さんのこと好きですよね」
由奈は少し驚いたように目を丸くする。
「え、う、うん……まぁ」
困ったように笑う。
「急にどうしたの?」
若菜は由奈を真っ直ぐ見つめていた。
「先生、昨日さくらに聞いてましたよね」
由奈の表情が止まる。
「……聞いてたの?」
「少しだけ」
若菜は静かに続ける。
「やましいことじゃないよねって」
由奈は気まずそうに目を逸らした。
「……ごめんね。あの時は、ちょっと不安で」
「どうして不安になるんですか?」
「え……?」
「清人さんのこと、信じてるんですよね?」
由奈は言葉に詰まる。
若菜は一歩だけ近づいた。
「さくら、傷ついてました」
「……え?」
「噂って、広がるんです」
雨音が強くなる。
「先生も分かりますよね」
若菜は小さく笑った。
「人って、勝手に怪異を作るから」
由奈の顔色が変わっていく。
何かがおかしい。
ようやく、そう気づいたみたいだった。
「……木下さん?」
「さくらは優しいから、何も言わないんです」
若菜はゆっくり由奈へ近づいていく。
「でも、そのせいで傷つくんです」
「待って」
由奈が一歩下がる。
だが、その背中は窓際だった。
「木下さん、落ち着いて——」
「先生」
若菜は静かに首を傾げる。
「白い女って、“悪い人”の前に出るんですよね?」
その瞬間。
由奈の表情が凍りつく。
「……っ!」
逃げようとした拍子に、足がもつれる。
若菜が反射的に手を伸ばす。
掴もうとしたのか。
押したのか。
若菜自身にも、もう分からなかった。
由奈の体が、ゆっくり後ろへ傾く。
「……え?」
掠れた声。
次の瞬間。
ドン。
鈍い音が、雨の向こうで響いた。
若菜は動かなかった。
ただ。
窓の外を見下ろしていた。
雨の中。
人影が集まり始める。
悲鳴が聞こえる。
誰かが叫んでいる。
騒がしいはずなのに、若菜には遠く感じた。
若菜はゆっくりスマホを握りしめる。
どうして。
どうしてみんな、さくらを不安にさせるんだろう。
どうして傷つけるんだろう。
さくらは優しいのに。
だから。
——私が守らなきゃ。
若菜は静かに笑う。
さくらの不安の種は。
全部、取り除かなくちゃ。




