第五章 六:苦く、青く
一月蒼士は苦い食べ物や飲み物が大嫌いだ。いや、正確に言えば龍の血脈が、苦い食べ物や飲み物が苦手なのである。
人間以上に感じる苦味、口に入れた瞬間にいますぐ胃がひっくり返りそうな吐き気。痺れる口内と麻痺した嗅覚はまるで毒を食べたかのよう。
だが、蒼士は訓練をしていた。いつどこで不意打ちを喰らうのか分からない。今日食卓に苦いものが並んでもいいように、食べられるようにしておかなければならなかったのだ。
今日は神野七莉の家に招待されている。神野という苗字を考えれば、霧雨幹部の神野草剣と同じ。もしかしたら彼女は娘であり、霧雨に入隊しており、自分と同じ任務についているのかもしれない。
蒼士は、七莉の家に向かう途中の地下鉄の中で吊り革につかまり、窓に貼られた広告を見つめながら思考を張り巡らせていた。
「どうしたの? そんなに考え込んで」
「え……あ……すみません。ちょっとそこの広告が面白いなって」
「そこの? 窓に貼られてるやつ? 普通のコーヒーの広告だと思うけど……」
「加糖ブラックって、一体なんだろうって思って」
「砂糖の入ったブラックコーヒーという意味よ」
「砂糖が入っていないのにブラックコーヒーになるんですか」
「そう。一般的なイメージとしては、はミルクも砂糖も何も入っていないのがブラックだけど、本来はミルクが入っていなければ砂糖が入っていてもブラックコーヒーと呼べる。 ただ、法律で砂糖を入れたことは表示しないといけないから加糖ブラックという表現になるみたい」
「でも、それって需要があるのか不思議です。ブラックを求めている人ってミルクも砂糖もいらないような気がします」
「ミルクを入れたくないけど甘みは欲しいという人もいるんじゃない?」
コーヒーにミルクを入れても砂糖を入れても、苦味は完全になくならなかった。人間からしたら甘いのかもしれないが、苦味の成分に対してより敏感な龍の血脈の舌にはどうしたってコーヒーが適合しないのだ。
そうこう話しているうちに七莉の家の最寄駅に到着し、地下鉄から降りると七莉の家に向かった。
七莉はアパートで一人暮らしをしている。その部屋は殺風景で、普通の感覚で言えば何の面白みがない部屋である。 ただ、神野七莉は雰囲気からして普通じゃない。もしかしたら霧雨、あるいは龍の血脈かもしれない。
そしてお昼になると七莉はおもてなしだと言い、チンジャオロースを作った。チンジャオロースにはもちろん、ピーマンが入っている。これで彼女が龍の血脈だという可能性は限りなくゼロに近くなる。
偶然か故意か。もし故意なら彼女は霧雨であり、自分を龍の血脈だと疑っているかもしれない。その苗字は霧雨の幹部の神野草剣と同じ。草剣の娘の可能性がある。
何としてでも食べなければいけない。ここで食べなければ全てが終わってしまう可能性がある。蒼士はそう思い、チンジャオロースに箸をつけた。
ピーマンの苦味が一気に舌から全身に駆け巡る。吐き気は抑えたが、やはり一口目はむせてしまった。幸いにも他の具材と合わさっているため多少苦味も和らいで、訓練の甲斐もあってなんとか食べ切ることができた。
その後、洗い物と片付けの最中に部屋の中を詳しく観察してみた蒼士だったが、特に変わったものはない。ただ、全くといって高校生らしさが感じられない。
それでも年齢を偽っているわけではなさそうだ。本当に中身のない人間なのか、何かを隠しているのか。霧雨だとしてなぜ自分を家に招いた? やはり自分は龍の血脈だと疑われていて、苦味のある食事をさせるのが目的だったのか。
蒼士にとって、これほどまで掴みどころのない人は初めてだった。
そして、七莉との会話の中で彼女がみせた笑顔。蒼士はその屈託のない笑みに、これが演技なのだとしたら恐ろしい女だと思うとともに、少し気を引かれてしまった。
蒼士は、七莉の家から自宅までの帰り道でも七莉のことを考えていた。
同時に心の姫君である山田リーコのことも思い浮かぶ。「いや、そうだ、まずは山田リーコだ」と自分に言い聞かせる。
それでもやはり、思い浮かんでくる。そのあとだ。そのあとはどうするというんだ? 七莉が霧雨なら戦うのか、殺す必要があるのか。いや、利用した方が上手くことが運びそうだ。
そうやってあれこれ考えているうちに、蒼士はあっという間に自宅に到着した。それからすぐ用を足そうとトイレに入った瞬間、七莉の家で食べたチンジャオロースの味を思い出す。
人間以上に感じる苦味、口に入れた瞬間にいますぐ胃がひっくり返りそうな吐き気。痺れる口内と麻痺した嗅覚はまるで毒を食べたかのよう。
蒼士は思い出しただけでも吐き気を催し、そのまま便器に向かってチンジャオロースを吐いてしまった。そしてそのとき、心臓が一回、ドクンと強く脈打つのを感じた。
嫌な予感のした蒼士はそのまま急いで台所に向かい、ペティナイフを取り出して薬指を少し切った。すると、青い血が滲んだ。ペティナイフは蒼士の手から落ち、カランとシンクに転がった。
久しぶりの青い血、薬は一日一回しか飲めない。いや、青い血だから何だというのだ。しかし、手が震え始める。これは薬が切れた副作用などではない。
いま何かあったらまずい。霧雨に緊急招集されようものなら、自分が龍の血脈だとバレる可能性すらある。いや、いつも通りに振る舞えば何も怪しまれることはない。しかし、翠銀刀が蒼士の頭をよぎり、さらに息切れも。
これでは翠銀刀が置いてある自分の部屋にすら入れない。なぜこんなにも怖いんだ。一体何が怖い。ずっと血が青い時だってあったじゃないか。なぜ青い血に戻るのがこんなにも怖いんだ。
蒼士は再び少しばかりの吐き気を覚え、シンクに向かって咳き込んでしまった。
すると母親の一月里緒奈がキッチンにやってきた。そして、「大丈夫?」と蒼士の背中を優しくさすった。
「大丈夫……」
蒼士は咳を落ち着かせ、息を整えた。
「どうしたの?」
「何でもない。勢いよく水を飲みすぎてむせただけ」
蒼士はいまだに込み上げて来そうなものを抑えるために、キッチンと一体になっているリビングのソファに座った。七莉の屈託のない笑みが思い浮かぶ。
キッチンにいる里緒奈は、シンクに転がっていた青い血のついたペティナイフを手に取った。水が飲まれた様子のコップはどこにも置かれていない。
「これ」
蒼士はペティナイフを手にキッチンに立つ里緒奈の方を向いた。
「あ……」
「戻ったの?」
「うん……」
「薬が効かなくなった?」
「ううん、そうじゃない。でも、致命的な弱点を見つけた」
「そうなの。どんな?」
「それは言えない。誰であっても言えない。お父さんにも言えない」
「そう……。さすが蒼士ね。もう明日の朝まで家から出てはダメよ」
「そうする」
里緒奈はナイフをシンクに置き、蒼士の隣に座った。
「明日は学校に行くの?」
「行かなきゃ」
「夏休みなのに。一日くらい委員会活動を休んでも平気なんじゃない?」
「明日は絶対に休めない。行かないと。委員長に会わないと」
「そうなの。きっと素敵な人なのね。私もいつか会ってみたいくらい」
しばらく母親の里緒奈と会話をして恐怖心の和らいだ蒼士は、部屋に戻った。そして、テーブルの上に置いてあった一本の翠銀刀を手に取り、壁に向かって勢いよく投げつけた。
翠銀刀は壁に叩きつけられると、キィンと綺麗で高い金属音を立て、そのまま床に転がった。蒼士はただ、床に転がった翠銀刀を見つめている。
たったこれだけのものが自分たちの行く末を脅かしている。誰の手にも持たれなければこれほどまで無力なのに。いつか自分の手で始末せざるを得なかった男のように、このナイフを前に冷静でいられるものなのか。
蒼士は翠銀刀を転がしたまま本棚の前に行き、一冊の本を取り出した。
本は夏目漱石の夢十夜。
蒼士は問題や困難に直面した時、なぜだかこの小説を必ず読む。夢の世界へ誘ってくれる一冊。心の支えとして縋るための一冊。
椅子に座り、数ページ読んだところで蒼士は気づく。一番初めの章の、第一夜に登場する女性と七莉を知らないうちに重ねていたのだと。
再び蒼士の頭に、七莉の屈託のない笑みが思い浮かぶ。今まで会った中で一番つかみどころのない女性。これほどまでに考えさせる女性。自分に毒を盛る女性。白い花びらの百合に、暁の星。
これではまるで、七莉が心の支えになってしまう可能性がある。何とかしないといけない。そう思って蒼士は、夢十夜を閉じるのであった。




