第五章 三:自慢話
6月の初め頃、一月蒼士はそろそろかと感じていた。
それもそのはず。5月の下旬ごろから誰かにつけられていることに気づいた。
何が目的かと言ったら、山田リーコがまた仕掛けてきているのだろう。
蒼士が何者かにつけられていると気づいた日から数日後、駅ですれ違った男とぶつかった時に鞄の外のポケットにごく小さなGPS機器を入れられた。
「すみません」という声色は大人の男性。ぶつかった時の感触は、服で隠された筋肉が力強く硬かった。
蒼士はすぐにGPSに気づいたが、あえてそのままにしておいた。位置を探ってどうするのか。家に襲撃に来るのか、どこかで襲ってくるのか。
このまま男を泳がせておけば、何にせよ向こうから接触してくるに違いない。
そして6月の初めごろ、蒼士はそろそろかと感じ、高校が休みの日曜日に隙をみせてみようということにしたのである。
時刻は夕方の少し前、蒼士は一人で家を出た。
自宅から最寄りの藤が丘駅に行き、リニモに乗った。そして、そこから二駅目の杁ヶ池公園駅で降り、少し歩いたところにある杁ヶ池公園に到着するとランニングを始めた。
蒼士は、たまにここでランニングを行う。ここは普段から人が少なく、トレーニング終わりという体力を消耗して無防備な状態であれば接触もしやすくなる。
ランニングは体力作りのために行っているのだが、龍の血脈の体力は人間がランニングを行う程度では少しも削られることはない。
そもそも身体能力も人間より圧倒的に優っているのに、なぜ蒼士がさらに身体能力の向上を目指しているかといえば、霧雨や他の龍の血脈よりも強い存在でなければならないからである。
必死に龍の血脈に追いつこうとする霧雨、人間よりも圧倒的であるというところに優越感を見出している龍の血脈。その両方を上から見下ろさなければならない。
蒼士は気づいていた。能力を発動する際、一瞬極度まで高まる集中状態が自分たちにとって一番体力を消費する時だと。
だからその極度の集中状態を意図的に維持することができれば、体力を消費することができる。そこにランニングを組み合わせれば体力作りができる。
ただ今日は、集中状態を作り出さずにただ走るだけ。今日はトレーニングではなく、撒き餌として走るだけ。
「ふぅ……」
蒼士は一呼吸を置いてみた。そして、近くにあったベンチに疲れたふりをして腰掛けた。するとすぐに蒼士の隣に、スウェットのパーカーを着た男が座ってきた。
男は下を向いたまま「俺に着いてこい」と言った。
駅でぶつかった男と同じ声だ。
蒼士は聞こえないふりをして、男を無視してみた。
するともう一度、男は蒼士に向かって話しかけてきた。
「おい、一月蒼士。このまま俺に着いてこい」
「え……僕ですか?」
男は目線をパーカーのポケットに落とした。
男の手が入れられたそのポケットには、他にゴツゴツとした何かが入っていた。
蒼士はそれが拳銃だと一瞬で理解した。
「急になんですか!?」
「騒ぐんじゃない。いいから着いてこい。逃げようとしても無駄だ。俺は離れたところからでもお前を殺せるものを持っている」
そう言うと男は立ち上がり、蒼士にも立ち上がるよう促した。
蒼士は男に従い立ち上がると、杁ヶ池公園の駐車場に停められた車まで連れられた。
そして車に乗せられると目隠しをされ、口にもタオルを巻かれた。
それからすぐに車は発進した。
車内には、クーラーの風に乗って少しばかり芳香剤の妖艶な匂いが漂っている。
男はしばらく車を走らせると、くっくっと笑いながら口を開いた。
「どうだ? 良い香りだろ?」
蒼士はタオルで口を塞がれているため話すことはできない。当然、男もそれは承知で一人で話しているだけなのである。
「これは最近仕入れた香りで、俺のお気に入りだから車にも置いてある。ムスクって知ってるか? 世の中に出てるホワイトムスクだとかの紛い物ではなく、本物のムスクのことだ」
蒼士にとっては心底興味のない話。
しかし、男は続ける。
「ムスクという香りは、もともとジャコウジカという鹿のメスから採取される香りなんだ。植物とか人工物じゃなくな。その昔ワシントン条約ができて、ジャコウジカからムスクを取ることが禁止された。その結果、いま人々がムスクだと思ってるのは紛い物というわけだ」
男は一人、饒舌に楽しげに話している。
車は信号待ちで止まった。
本来なら、蒼士は簡単にこの状況から抜け出すことはできる。しかし、リーコのことが何か分かるかもしれないと思うと、退屈な自慢話に付き合うこともまた一興だった。
「で、俺は手に入れた。本物のムスクを。値は貼ったが、正真正銘本物のジャコウジカから採れた代物だ。普通の人じゃあ手に入らねえ」
男は、時折バックミラーを見ながら蒼士の様子を確認しているが、蒼士がどんな様子であろうが男には関係のないことだった。
「よかったな。俺に狙われたおかげでお前も、普通の人ではできない体験ができて」
蒼士は、車に乗せられる時の様子を思い出した。
車は黒のハリアー。ナンバーはレンタカーのものではなく、この車はこの男自身のものだろう。
窓も車体も綺麗で、車の中にもほとんど物は置かれていない。シートには目立った埃も汚れもなく、香りは男の自慢の芳香剤。
きっとこの男には友達がいない。だから、わざわざ応えるはずもない誘拐の相手に向かって自慢話をしている。
男はまだ何やら話しているようだったが、蒼士にとっては車の走行音や時折聞こえる周りの環境音の方がまだ心地よかった。
そして車が出発してから二、三十分が経ったころ、今度は車のエンジンも止まり、完全に停車した。




