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 朝仕事に行くときに、駐輪場の少し離れた草むらに黒い猫がいるのが見えた。

 目が黄色い、全身真っ黒の猫。子猫ではないが大人にもなりきっていない中間くらいの大きさの猫。昨日鳴いていたのはこの猫だろうし、菜月ちゃんと遊んだのもこの猫だろう。

 首輪はしていない。このコーポを住処にしている野良猫だろうか。それとも大家さんが飼っていて野放しにしているのだろうか。

 猫は私の方を真っすぐに見て、一回だけ「にゃああああ」と鳴くと小走りに、敷地の奥にある、大家さんの奥さんの菜園の方へ駆けて行って見えなくなった。


 遠くない、そして近すぎもしないところで学校のチャイムが鳴った。

 一旦それまでの時間をあっさりと切るような、ほんの少しの寂しさを含めたような明るい音。菜月ちゃんの小学校のチャイムだろう。今度散歩のときに通ってみようと思った。

 駅まで自転車を漕ぎ、駅の駐輪場に自転車を停めて、バス乗り場から郊外にあるショッピングモール行きのバスに乗る。そのショッピングモールの二階に私の職場の書店があるのだ。

 バスの窓から、新興住宅地と畑や田んぼが中途半端に混ざった外の景色を見ながらスマホを取り出し、それでも朝の黒猫の走って行った様子を思い出してスマホはリュックに直し、またぼんやりと流れる景色を見ながら夕べ見た夢のことを考えた。

 死んだ母がコーポに訪ねてくる夢だった。

 母が亡くなったのは三か月前だ。石崎さんが離婚したのと同じくらいだなと考える。

 「こんなとこにいたの?」夢の中の暗い顔の母は私を睨んで言った。「勝手に私を置いて家を出て行ったかと思ったら、こんな変な色のアパート借りてるなんて」

 夢の中で私は母が死んでいることを把握していた。この世にいないはずの母が、まだ片付いていない段ボールと段ボールの間に立っていることが怖くて、私は何も言い返せもせずドアを開けて外に出ようとする。足は思うように動かない。やっとのことでドアにたどり着くがなかなか開かない。ドアが尋常じゃなく重たいのだ。「こんなところに住むのは止めなさい」と後ろから聞こえる母の声。「うちに帰って来なさい」

 聴きたくなくて、なんとか力を振り絞ってドアを開けやっと外に出ると、コーポの敷地は全部水浸しの田んぼで、その端の方に石崎さん親子が腰を下ろし、仲良さそうにおにぎりを食べていた。

 そこで目を覚ましたのだ。目覚めのぼんやりした頭に、段ボールの間に立つ死んだ母を思い出して気が滅入った。


 書店に働き始めたのは三週間前だ。越してくる前は実家からバスと電車を乗り継いで、また駅からバスに乗り換えてショッピングモールまで来ていた。

 実家と言っても名義が亡くなった祖父のままだったので、母が亡くなった後、親戚がその家を処分することになった。ありがたいことに、私がここに引っ越しが終わるまでは処分を待ってくれたが、もう私が帰れる実家はない。

 だから夢の中の母が私をなじるように「帰って来い」とは言ったが、私にはこのやまぶき荘の自分の部屋以外帰れるところはないのだ。

 引っ越す前にまず仕事を見つけられた自分を褒めたいが、正社員ではなくアルバイトだ。時給も最低賃金ギリギリ。やまぶき荘の安い家賃はとてもありがたかった。


 ショッピングモールの開店一時間前までに出勤し、開店までに入荷した新刊を仕分けてそれぞれのジャンルに新刊を分ける。それが終わると、自分の担当している学生参考書の新刊を棚に入れ、担当している棚全体の乱れを直していく。高校生用のテキストの棚をチェックしていると、「あれ?木本ちゃん?」と声をかけられた。

 急に声を掛けられたこともだが、それが水本だったので驚いて、「ふぇ?」と変な声を出してしまい、水本に笑われた。

 店内の明るい電気の下で改めて見る水本は夕べよりもイケメンさんだ。自分の地味さと差があり過ぎて少し気後れしてしまうし、近隣の町ではいちばん大きいショッピングモールなので、コーポの住人がここに買い物に来ることを想定していなかったのもおかしいが、働き始めてから三週間、知り合いに会うことが一回もなかったから油断していた。

 「こんにちは木本ちゃん。ここで働いてたの?僕よくここ買いに来るんだけど今まで見たことなかった気がする」

「最近なんです、ここ」

「へーー。最近て言うと?」

「…三週間くらい…ですかね…」

「今夜歓迎会あるの聞いた?」

「…はい」

「時間とかもちゃんと聞いた?」

「…はい」

「一人で来れる?」


 水本は今日も気安い。

 石崎さんが誘いに来てくれることは、それを教えたら石崎さんが嫌がるだろうから言わないでいる。目の前の気安く私を気遣ってくれている見た目の良い水本を見ると、石崎さんは水本を嫌がり過ぎのような気もしてくる。年下の外見の良い男の人が気安く下の名前で呼んで来たり、ご飯行きましょうとか言ってきたりしたら、喜ぶ年上の女の人のほうが実際多いと思うのに、石崎さんはなぜあんなにまで気持ち悪がるのだろうか。

「なんか大家のおじさんが木本ちゃんに話に行ってるのうっすら聞こえて来てたんだけど…」

うっすら聞こえるのってなんか嫌だな。あまり新しくない建物だから仕方ないけれど、石崎さんが夕べ私のところへメモを持って来てくれたとき、静かにするように伝えてきたのも納得がいく。

 「一緒に行く?」水本が聞いた。

「え⁉」

「いや、そんなびっくりしなくても。歓迎会、木本ちゃん、人見知りそうだからなかなか一人だと大家さんちにも最初入りにくいかと思って。やっぱり行くの止めよーとか思ってそうだから。でもバックレる勇気まではなさそうだし」

 もう私の性格がバレてしまっている。そして、この人なんて優しいんだろう、こんなに恰好良いのに、と思ってしまっている。

 夕べの石崎さんの話を聞いていなかったら、二日目の今日でもう好きになってしまったかもしれない。

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

「遠慮しなくていいよ!隣なんだし」

「いえ本当に」

「なんで?もしかしてバックレる勇気あった感じ?」

「いえ石崎さんが…」つい言ってしまった。

明らかに水本の顔がぱっと明るくなった。

「石崎さん?」

「…石崎さんが迎えに来てくれることになってるんで」

「え、なんで?もしかして石崎さんと元々の知り合い?」

「違います。大家さんの奥さん伝いで石崎さん頼まれたらしくて」

「おばちゃんかぁ!あっ、もしかして夕べ大家のおじさんの後に誰か来てたっぽいのって石崎さん?そっかそっか僕も一緒に行きたいな。何時集合?」

 水本は普通に、すごく石崎さんのことが好きなんじゃないだろうか。会ってまだ二週間だとしても。私には聞かなかった連絡先を石崎さんにはすぐ聞いたのは、純粋に一目で石崎さんを気に入ったからじゃないだろうか。

 それでも私は石崎さんが迎えに来てくれるのをばらしてしまったことをすぐに後悔し始めた。突然部屋を訪ねたほぼ初見の私にいろいろ話をしてくれて、帰りにはリンゴまでくれたのに。

「ねえ、何時何時?何時集合?いつ石崎さん来る?」

水本の食いつきがすごい。石崎さんが気持ち悪いと思うのもわかるような気もしてきた。石崎さんのためにうまくごまかさなければいけない。

「いや、行く前にちょっと声かけてくれるだけです。…集合とかしないですよ。同じコーポ内でそんな。水本さんちなんて大家さんちすぐ隣じゃないですか…」

あやふやに返事をする私をじっと水本が見て来るので、我慢できずに目を反らしてしまった。

「木本ちゃん、なんか僕のこと警戒してない?」

「いえ別に警戒しているわけではなくて」と私は言い訳をした。「人見知りなんです、すみません」

「いや、謝ることないけど」

水本がじっと見つめてくるのでまた目を反らしてしまった。この人は人との距離が近過ぎる。

「木本ちゃんよく目をそらすけどさ」と水本。「目を反らしたら負けだから」

「…負け?」

「そう。負けだから」

「…何にですか?」

「ありとあらゆることにだよ」

「ありとあらゆること?…」水本の大げさとも思える言葉を繰り返す。

「そう。大家のおじさんもそう言ってたから」


 大家のおじさん、と言われて私は、大家さんに似ている高校の時の担任にも同じようなことを言われたのを思い出した。

 先生は人見知りでもいいと言ってくれた。でも初対面の相手には人見知りだとバレないように、頑張って目を見てはっきりと話せ、と教えてくれた。だんだん親しくなった人にだけ人見知りはわかってもらえたらいい。意志が弱そうだと判断されると、とたんに利用しようとしてくる人間も出て来るからと。

 先生、私は今でもなかなか先生の言うようには出来ません。

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