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「今日も実はね」石崎さんは水本の話をする。「夕方ここに来て菜月に勉強教えようかって言って来て」
何か教えましょうかは勉強教えましょうかって事だったのか。
「もしかして聞こえてた?」と石崎さんが聞く。「水本がその後木本さんに何か話しかけてんのはうっすら聞こえて来てたけど」
「いえ」と反射的にウソをつく私だ。聞こえていたと言ったら、どこまで聞いていたとか、何が聞こえたかとか聞かれたら面倒だと思ったのだ。
「そっか。でもさ、」石崎さんは眉をひそめて聞く。「菜月に勉強教えるとか気持ち悪くない?気持ち悪いでしょ?気持ち悪いよね?ほんと気持ち悪い!」
畳みかけるようにそう聞かれて、「そうですね…」としか答えられない私に、「もう本当に気持ち悪いと思って!」と重ねて語気強めに断定する石崎さんだ。
だから私にメモを渡してくれた時に隣の水本の部屋を気にしていたのか。
「私も言われたよ」
ふいに口を挟んだ菜月ちゃんに、石崎さんが驚いたのと気持ち悪がっているのと合わせた声で「嫌だ…」と絶句したが、石崎さんはすぐ持ち直して今度は菜月ちゃんに畳みかける。
「いつ?ねえ!それいつの話?なんで黙ってたの?なんて答えたの?水本何て言って近付いてきたの?気持ち悪っ!!」
私は子どもに対するその急激な畳みかけに驚いたが、菜月ちゃんは全く動じていない。
石崎さんが低い声を出して改めて聞いた。「それいつ?」
「昨日」
「昨日?!昨日って!!」ひと際驚いて見せる石崎さんだ。「なんで昨日言わないの?」
「水本さんだけじゃないよ。大家さんのおばちゃんいたし。学校から帰ったら大家さんのおばちゃんが畑にいて、猫もそばにいたから猫見てて、おばちゃんと話してたら水本さん仕事行く前だって出てきて、それで今度勉強教えてあげようかって言われただけ」
「キモっ!!何て答えたの?」
「お母さん声大きいよ。木本さんびっくりしちゃうよ」
菜月ちゃんに言われて、石崎さんは私を見て、「ごめんごめん。ごめんね」と言ったが、すぐに菜月ちゃんにもう一度、「何て答えたの?」と聞いた。
「私が答える前に大家さんのおばちゃんが、『そんな感じで菜月ちゃんに言ったらお母さんに変な感じで伝わったりしたらいけないから止めなさい』って言って、水本さんが『ごめんごめん今度菜月ちゃんママに言ってみるわーー』って言ってた」
「きっしょ!」石崎さんは吐き捨てるように言った。「菜月ちゃんママとかもマジで呼ばないで欲しい」
菜月ちゃんは石崎さんを『お母さん』と呼んでいる。小学生だと今はママと呼ぶ子の方が多いんじゃないだろうか、と私はぼんやりと考える。
「なんで菜月はその話を昨日のうちにちゃんと私にしないの?」石崎さんはまた低い声で聞いた。
「なんか…水本さんがまた話すって言ってたし、ただ言われただけでそんだけだし、そんだけなのに私が言ったら、お母さんいろいろ聞いて来てめんどくさいから?」
「なんで語尾あげて疑問形にしてんのよ」
「お母さん、きしょいとか私が使ったら止めなさいって言うくせに自分では今思い切り言ってたよね?」
石崎さんちは親子でこんな風に話をするんだな…。
ムッとしている石崎さんとは反対に、菜月ちゃんが可愛く笑って言った。「猫すごい可愛かったよ!」
夕方鳴いていた猫だろうか。やっぱり猫がいるんだな。
「めんどくさいから、とかじゃないのよ。ちゃんと教えてくんないと」
石崎さんは真剣に菜月ちゃんをたしなめた。「新しいとこに引っ越して来たんだし、集合住宅なんだからそういう住んでる人の情報は家族で共有しないと」
小三の子に結構難しい言い方をしてるんじゃないかとも私は思う。
「木本さんごめんね。話の途中だったのに」
石崎さんは一旦私にそう言ってくれたものの、菜月ちゃんに尋問を続けた。「それで?他になんか言われた?」
「ううん。そんだけって言ったじゃん。水本さん、おばちゃんとは話してたけど。水道がなんか水が漏れてるとかって言ってたよ」
「勉強教えるって言ってたのは、あの人が働いてる塾でってこと?」
「水本さんは小学生が行くような塾で働いてるんじゃないよ。大学に行く人の先生だって言ってたよ。おばちゃんが言ってた」
水本は予備校の先生なのか。
「わかった」と一応納得したらしい石崎さん。「まあいいけど。次から『勉強はお母さんがちゃんと教えてくれてます』って言って。それであんまり知らない人と話さないようにね。おばちゃんがいるときはいいけど」
「えー、水本さんは知ってる人じゃん、ここに住んでる」
「あの人はまだほぼほぼ知らない人なの!挨拶はちゃんとした方が良いけどマジであんま話しちゃダメ。自分のこととかも聞かれても喋っちゃダメ。私のこともよ?適当にごまかして」
そう言えば私、水本に誕生月まで聞かれたな…弟が同じ名前で水本のテンションちょっと上がって…あれ?…私の下の名前は聞かれたのに水本の下の名前を聞いていない。
菜月ちゃんがにこにこしながら言った。
「でも猫と遊ぶのすごいうまいよ、水本さん」
「そんなの関係ないの。動物に優しい人が人間にとって良い人だとは限らないんだよ」
立て続けの尋問の後にすごいことを子どもに言うんだなと思った。水本はただのフレンドリーで子ども好きな人かもしれないのに。
「なんか良いようなことを言われて、ちょっと部屋においでとか言われたら速攻逃げるんだよ」
石崎さんがしっかりと真面目に菜月ちゃんに注意する。
「良いようなことって、遊ぼうとか?」
「それとかおやつあげようとか。なんか珍しいもの見せてあげようかとか」
そうか…。そういう子どもを狙った事件も多いから身近なところでも気を付けるように注意するのは親としては当然なのだろう。
「そっか。でも珍しいものだと見たくなっちゃうね」
悪びれずに菜月ちゃんが言うと、石崎さんの顔がより険しくなった。
「冗談とか、大げさとかじゃなくて、本当によ?水本だけじゃなくて他の人もよ、男の人でも女の人でも、若い人でも年を取った人でも。今のところ大丈夫なのは大家さんのおばさんと木本さんだけだと思っておいて」
えっ?と声を出しそうになった。昨日初めて会ったのに、石崎さんに信用されてるのは嬉しいが、なぜ信用してくれたんだろう。
「大家さんのおじさんは?」
菜月ちゃんが聞いた。
「おばさんがいる時はいいけど…」と石崎さんは言った。「子どもっておじいさんが一人で面倒みてるときって結構事故率高いんだよね。あの世代って自分の子どもの面倒も見たことない人が多いから」
そういう理由か。
「とにかくよ?」石崎さんが仕切りなおしたようにきっぱりと言った。「このコーポに住んでる人でも、まだちゃんといろんな事わかんないんだから、気を付けないといけないってこと!」
納得いかない感じで菜月ちゃんは「わかった」と言った。
「とにかく水本は距離感がおかしいっていうか」と、また石崎さんは私に話し始める。「引越しの挨拶をしに行ったときに連絡先交換しようって言い出すし、まだここに来て二週間なのに、それで私より軽く十歳くらいは年下そうなのに、普通に下の名前でちゃん付け呼びしようとするし。もちろん断ったけど。それで断ってんのに、その後もまた普通に名前呼びしてきてびっくりしたし。良かったら今度ご飯でもってマッチングアプリの誘い文句みたいに言ってくるし。それももちろん断ったけど。菜月も一緒に映画観に行こうとか…。シングルマザーだと思って舐めてんだと思うんだよね。シングルマザーなら軽くナンパできるって思ってる感じ。子どもにまで慣れ慣れしいのはほんと許せん」
そこまで聞くと水本は度を越していると私も思った。私と話したときも軽い感じだったし、見た目の良さに自信があってチャラい人なんだろうな。菜月ちゃんに話しかけたり、勉強を教えようとか言っているのも石崎さんが目当てなのだろう。
…でもあれだけ格好良かったら、普通に若くて綺麗な女の人をたくさん誘えると思うのに…。いや、もちろん石崎さんは素敵な人だと思うけど。
「ぃあっっ!!」
石崎さんが急に大きくて変な声を出したので、私も菜月ちゃんもビクっとした。
「もしかして、これって軽くナンパじゃなくてママ活⁉」
石崎さんは私に聞いてきたが、返事が出来ずにいると続けた。
「それだとしたらすごい失礼だと思わない!?すごい年寄り扱いされた気分!」
「…よくわからないんですけどママ活は違うんじゃないですかねえ…」
「シングルマザーでさ、こんなコーポに住んでんだよ?お金ないのわかるよね?」
「…まあ…ですよね」
ですよね、と答えたのが良くなかったかとすぐ思ったが、他に何とも答えられなかった。
菜月ちゃんが聞いた。「マッチングアプリって何、お母さん。何のアプリ?お母さんスマホに入れてるの?」
「入れてない。マッチングアプリは大人の人が恋人を見つけたいときに使うアプリ」
「へー」
「友だちには言わないようにね。友だちがその友だちのお母さんとかに喋って、私がマッチングアプリやってるとか思われたら嫌だから。そうなったら菜月までお友達から変なこと言われちゃうよ」
「そうなの?わかった。女子ってすぐなんでも喋っちゃうもんね」
親子でこんな会話が出来るのはすごく良いことだと思うし羨ましい。うちの母親とだったら絶対成り立たなかった会話だ。私にはいつも過干渉だったのに、私からの質問には大抵、「あんたは知らなくていい」みたいな答えしか返してくれなかった私の母とは。
「あと、ママ活ってなに?」菜月ちゃんからの次の質問だ。
「…う~ん、どう言ったらうまく説明できるかな?ねえ?木本さん」
私ですか⁉と素直に驚いて、小三の子にも伝わるようなうまい説明をスマホで調べようかと思ったが、石崎さんの部屋を訪ねるという行為だけで頭がいっぱいで、部屋の鍵しか持って来ていなかった。
「説明難しいですね」とだけ言ってお茶を濁そうとする私だ。「パパ活の反対ですよね」
つまらないことを言ってしまった。
う~んと唸っていた石崎さんが菜月ちゃんに答えた。「若い男の人が、好きでもないおばちゃんとデートしてお金をもらう活動」




