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 月が私のことも照らしてくれる。

 この場にいるやまぶき荘の人たちと同じように。そしてここではない別の場所で夜空を見上げている人たちと同じように、私のことも照らしてくれる。

 そんな気持ちにしてくれるお花見会だ。もう少しで満月になるほんの少し欠けた月が、薄蒼い優しい光を私にも静かに落としてくれている。

 

 コーポと駐車場の間の、芝生がうっすら生えているところに大家さんが出してくれた敷物をみんなで広げた。雲もなく、真ん丸に近い月が、深い紺色の空から落ちてきそうな程瑞々しく浮かんでいる。その下に一本の、遅咲きの満開の桜。

 何てきれいなんだろう。桜もだが、こんなに月をじっくり見たのは何年ぶりだろう。月のその瑞々しい静かな光は、満開の桜を辺りの暗がりから浮かび上がらせ、コーポの周りの家々の屋根をしっとりと濡れているように光らせていた。

 敷物の上には重箱に入れられた美味しい食べ物がたくさん。それでも今回は田代オレンジ姉妹の参加がないようで、みなゆっくりと食事を楽しんでいるが少し寂しい気がする。そしてその食事もだが、月明かりの下で桜をじっくりと見ることも楽しんでいる。日々挨拶などで顔が慣れてきたのもあるが、人見知りの私が、みんなと割と近い距離で一緒の敷物に腰を下ろしているのにあまりそわそわもしない。私もその場の雰囲気を確実に楽しんでいるのだ。もちろん石崎さん親子が一緒だからというのがあるからだけれど。

 そうやってみんなが月夜の桜に心を奪われて気が抜けているときに水本がふいに口にした。

「美月ちゃんの名前のようにきれいな月ですね」

瞬間、バッと石崎さんを劇見してしまった。このゆったりとした雰囲気の中、水本に辛辣な言葉を返すのではないかと反射的に心配したのだ。石崎さんが悪いわけではないのに、石崎さんが場の雰囲気を壊したような感じになったらいけない。水本め、石崎さんと二人きりのときに言えばいいのに。

 ところが、石崎さんは、割と大きめのはっきりした口調で答えたのだ。

「ありがとうございますっ!ほんっとに綺麗ですよねっ!今夜の月と桜。ご飯もお酒もすごく美味しいし!」

強い肯定から見える、もう言うなの意志。

 だからそれで終わればいいのに水本は続けた。

「せっかくなんで美月ちゃんと呼んでもいいですよね?」

もう今は止めておいたらいいのに。そしてなぜ他の人は何も反応しないのだろう。

「…なんでですか?」

ほら、と思う。せっかく石崎さんが大人の対応をしたのに、声のトーンが低くなった。

「んんと…」と水本が言う。「菜月ちゃんのことも菜月ちゃんて呼んでるんで」

なんじゃそりゃ、と心の中で突っ込む私。そして、「…意味わかんないですけど」と石崎さんはより低くて冷たい声を出した。

「でも美月って綺麗な名前ですよね!ぴったんこ過ぎて怖くなるっていうか…」

石崎さんの冷たさに動じずニコニコと言う水本。ハートが強いな。

「…この間、下の名前では呼ばないでくださいって言いましたよね私」

誰か止めて欲しい。高森姉弟は常から、他人は他人、みたいな雰囲気を醸し出している感じもあるけれど、大家さん夫妻もなぜ口を挟まないんだろう。せっかくいい雰囲気で花見をしているのに、これでお開きになったりしたら嫌だ。

「いや、」と水本。「あの時よりはなんか近付いた感じするし、日も立ったし。もうさすがに嫌がられないかなと思ったんですけど。なんか、みんながいる前で言ったら断りづらいだろうなっていうのもあって」

「いえ、全然私断りますけど。それでもう一回言いますけど、下の名前とかでは、これからも、絶対に、二度と呼ばないでください。これからもずっとです」

言い切った石崎さんに水本が驚いた、それでも嬉しそうな顔で石崎さんの言葉を繰り返した。

「これからもずっと!これからもずっとだって、木本ちゃん」

何で急に私に振って来た?そして何が嬉しいんだろう。石崎さんがあんまりきっぱり言い過ぎたのを面白いと思ったのだろうか。

そして水本は続けた。「僕は呼びたいけどなあ~~。菜月ちゃん、どう思う?木本ちゃんもどう?」

また私にも聞いてきた!そして菜月ちゃんが何か言おうとする前に、石崎さんがきつめに口を挟んだ。

「子どもにそんなこと聞かないでください。自分の親が若い男の人にちゃん付けで呼ばれたら気持ち悪いですって」

「私、気持ち悪くはないけど」菜月ちゃんが言った。「お母さんが止めてって言ってるうちは止めといた方がいいと思う!」

この上ない適格な回答だったし、菜月ちゃんが言ったとたんみんなが口々に「その通りだよ」と言った。良かった。私なんかが口を挟まなくて。水本がチラっと助けを求めるように私を見たが、私はただうんうんと頷いておいた。


 しばらくすると少し風も出て来て小寒くなってきたので、私たちは片付けをすることになったが、今夜は高森弟の部屋に移動して手品を見せてもらえることになった。

「本当は同僚の先生から嘘みたいにココアをたくさんもらったから、みんなに飲んでもらおうと思って。手品はついでです。ココア飲んでもらう間にちょっとね」

そう言って高森弟は先に準備するからすみませんと言って部屋に戻って行った。

「手品なんてもういいのに。ココアだけみんなに飲んでもらえば」

そう文句を言っていた高森姉もみんなと片付けを終えると、いっしょに高森弟の五号室へと移動した。

 高森の部屋はキッチンとリビングの間を取っ払って部屋を広くとっている。全体的に黒を基調としていて、あまり物がない。部屋の隅には大きな観葉植物とその横に小さな深緑色のソファがあった。大家さん夫妻がソファに、私たちは高森弟が出してくれた薄めのクッションを使い床に座ってココアを入れてくれるのを待つが、私は部屋に入ったとたんくまなく観察をしていた。

 もっとたくさんのもので溢れかえっていると思っていた。高森は几帳面そうなので、手品の道具が散乱はしていなくても、道具を入れた箱がたくさん置いてあるだろうと思っていた。あの夜動物たちが消えて行った黒い箱のようなものが。

 くまなく、と言っても何もないのだ。怪しいものは。


 ソファと反対側の窓際には小さいテーブルがあり、その上にあったノートパソコンを開いて、これでも観ておいてと高森が動画を流し始めた。癒し系の小川が流れている林の中の映像だ。穏やかな曲が部屋に流れた。

 キッチンの方でカチャカチャとマグカップを用意してくれる音が聞こえて、やがてココアの良い匂いが漂って来た。良い匂いを嗅ぎながらみなゆったりとした気持ちで映像を見ていたが、一旦奥の部屋に消えた高森弟が戻ってきて、指をパチン、と鳴らした。

 映像の音楽が止み、バサッバサッバサッ、と鳥の羽ばたく音が聞こえたと思ったらノートパソコンの画面からオレンジ色のインコが一羽飛び出て来た。「おおっ!」というみんなの驚く声。バサッバサッバサッと鳥はそのまま黒いカーテンの中へ消えた。

 驚いている間にもう一度、パチンと高森弟が指を鳴らす。そしてもう一度パチン。続けてパチンパチンパチン。バサバサバサバサ…インコが続けて出て来た。

 手品だ。ノートパソコンの林の映像から飛んで出てきたように見えたけれど、これは手品。黄色、緑色、水色…バサバサバサバサ…そして次々にカーテンの中へ消えていく。今すぐカーテンを開けてみたくなったが、誰も動かない。菜月ちゃんさえじっとしている。

 いつの間にか歓迎会のときのジャケットを着こんだ高森弟が、お盆の上にクリーム色のどっしりとしたマグカップを人数分載せて立っていた。マグカップからは温かい湯気が立ち上がり、、ココアの良い匂いが部屋中にたちこめた。ココアの粉と砂糖を少量の湯で解いて先に少し温めた牛乳入れ、膜が出来ないようにさらにゆっくりと温めた、きちんとした本物のココアだ。とても美味しい。

 高森弟は透明な、水が百五十㏄ほど入りそうな普通のガラスコップを手に持っていたが、それに一度赤いスカーフをかけ、すぐにそれを取り払うと、ガラスコップの五倍ほどの大きさの、口は小さいが底の方がどっしりとした下膨れのガラスの花瓶になった。半分ほど水も入っていた。続けて高森弟はジャケットの内ポケットに手を入れペンを取り出した。シルバーの細身のペンだ。それを指でつまむように持って空に向けると、ペンは五、六十センチほどの桜の花の付いた枝に変わった。桜の枝は花瓶に入れられてノートパソコンの横に置かれ、置かれたとたんににょきにょきと枝分かれして束になった。

「すご…」と菜月ちゃんが石崎さんに言う。「今日も手品すごいね」

手品なのかなと私は思う。こんなに近くにいてもまったくタネがわからない。やっぱり魔法にしか見えなかった。今すぐカーテンを開けて見たいが、もうインコは消えているかもしれない。カーテンは揺れもしなかった。




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