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日曜日が休みになるのは転職してから始めてだ。販売業は土日の休みがもらいにくいが、今の職場は土曜日や日曜日の休みも割とみな平等に分配してシフトを組んでくれる。
せっかくなので、終わっていない引っ越しの整理は置いておいて、自転車であたりを回ってみようと思う。洗濯を干し終えてゆっくりと空を眺めると、遠くの空は薄っすらと霞み、だんだんと真上に行くほど澄んだ青になっていて清々しい。
その空を見上げていると、二ヶ月前、母が亡くなった時の火葬場の大きな煙突の上の空を思い出した。あの日が雨や曇りでなくて本当に良かったと思う。母が火葬された煙が済んだ青色の空に昇って行くの見ていたら、それまでの母との決して幸せではなかった毎日も一旦忘れ、もし母が生まれ変わることがあるのなら、次はもうちょっとお金に困らない、穏やかで優しい嬉しい日々が送れるようなところに生まれ変わることが出来ますように、と願うことが出来た。
自転車でいつもは通らない道を通ってみる。
そう言えば石崎さんが、離婚する前は小学校を挟んで反対側の学区内に住んでいたと言っていた。やまぶき荘のある北側はまだ田んぼや畑が割と残っているが、南側はほぼ住宅地だ。石崎さんの家はどの辺りだったのだろう。
西に向かって自転車を漕ぎ、駅前の商店街へ向かう。やまぶき荘を紹介してくれたその商店街の中にある小さな不動産屋の奥さんが教えてくれたのだが、駅前商店街は私の職場のあるショッピングモールが出来てから、閉店する店が相次いだらしく、シャッターが閉まったままのところも多い。それでも平日よりは人の出があるようで嬉しい。私は人見知りな割に人が多い場所が好きだ。あまり混雑し過ぎるのはまた苦手なのだが、ある程度人がいると、紛れていろいろなものや人を観察できるから。
市から補助金制度を使って閉店した店を改装し、こじゃれたカフェや古着屋を始めたところもあって、不動産屋の奥さんに「若いお客さんも少しずつ増えて来たのよ?行ってみたら」と勧められ、私も入ってみたいとは思ったが、そういう場所にはなかなか一人では入れない。
その不動産屋の隣にあるスーパー山元も、仕事帰りに寄って帰りなさいと勧められた。地元の家族経営の小さなスーパーで、郊外のショッピングモールまで行けない地元のお年寄りの客が多く、夕方になると総菜が安くなるらしい。仕事帰りは疲れていて、ついショッピングモールの中の食料品売り場で買い物をしていたが、今日はスーパー山元で買い物をして帰ろう。
まだ昼過ぎなので総菜の値引きはされていないが、おいしそうな弁当も種類が多い。少し遅いお昼ご飯に弁当を選び、自転車のかごに乗る分だけの必要なものを買う。誰にも文句を言われず、自分の買いたいものを自分に必要な分だけきちんと選び、自分のお金で買えることは幸せだ。
駅の周辺や近くに図書館もあるのでもっといろいろ見て回りたかったが、お腹も空いたのでやまぶき荘に帰ることにする。やはり部屋も早く片付けてしまわなければいけない。
やまぶき荘に帰り着き駐輪場に回ると、奥さんの菜園のところに菜月ちゃんがいるのが見えた。一人で遊んでいるのかと思ったら、菜月ちゃんの後ろの方にある草の陰から黒猫の姿が見えた。菜園の奥の方では背の高いハーブが揺れていて、たぶん奥さんもいるのだろう。
黒猫はかがんだ菜月ちゃんの足に何回か頭を擦り付け、菜園の周りに無造作に植えられたか勝手に生えたかわからない、地べたを這って伸びる柔らかい草の上でゴロンと転がった。可愛いなと思って見ていると、私に気付いた菜月ちゃんが、「春花ちゃーーーん」と私を呼んで手を振ってから手招きをしてくれる。
菜月ちゃんに「春花ちゃん」と呼ばれたのがすごく嬉しい。相手は小三だけれど、友達のように私のことをちゃん付けで呼んでくれたことがとても嬉しかった。
自転車の籠に買い物したものをそのまま、菜月ちゃんのところへ近付いて行く。
「こんにちは」
私が言うと、ごそごそと草の茂った奥から奥さんも出て来て、菜月ちゃんと一緒に「「おかえり」」と声を合わせて言ってくれて、これもとても嬉しかった。猫はまだ柔らかい草の上で寝ころんだまま右に左にゴロンゴロンと体を動かしている。奥さんは作業用なのだろう、紺色のジャージの上下を着ていた。ジャージ姿でも奥さんはとても綺麗だ。ジャージの左胸には刺繍が入っていた。『島田第一中学校 水本』。
…水本?もしかして水本の中学生の時のお古のジャージを着ているってこと?
「何買って来たの?」
菜月ちゃんがにこにこしながら聞くので、お弁当とご飯の材料になる野菜とか肉だと答える。チョコレートとコーラも買って来たけれど、小三の子の手前、お菓子を買いに行ったと思われたくなくてそれは黙っていた。
「自分でご飯作れるの?」奥さんに聞かれる。
「はい。簡単なものだけです。パスタとかうどんとか。歓迎会のときのお料理、とても美味しかったでした。ごちそうさまでした」
そこで私は、歓迎会の相談に石崎さんのところへ行ったときにリンゴをもらったり、歓迎会用に買ったシュークリームを私も用意したことにしてくれたお礼をしていなかったことを思い出し、わざわざ自転車で出かけたのに、なぜお礼用のお菓子を買わなかったのかと悔やんだ。いつもそうだ。歓迎会の手土産だって前もって考え付くことが出来なかったし、お礼だってもっとちゃんと言ったり、きちんと品物でも返していくようにしなければ、父や母のように社会から疎まれる人間になってしまう。
「偉いのねえ」と奥さんはキラキラした笑顔で褒めてくれる。「お料理もして、それからちゃんとお礼も言ってくれて。おりこうさんです」
菜月ちゃんよりももっと小さい子に言うように言われてしまって、それでも嬉しかったが、今石崎さんへのお礼がきちんと出来ていなかったと反省しているところだったのだ。私はぶんぶんとしょげた顔をして首を振ってしまった。
「私、ほんとうにダメな感じのことが多くて…」
「ダメな感じ?みんなあるよ、そんなこと」奥さんがカラッとした声で明るく言ってくれた。「うまく隠したりごまかしたりしてるうちに、なんか良い感じになっていくから大丈夫」
嬉しい言葉だったが、そうだろうかとも思う。私はそんな良い感じにはいろいろうまくやっていけないと思う。
「…この猫は大家さんちで飼われてるんですか?」
ダメな私の前で、黒猫があんまりにもゴロゴロしているので聞いてみた。
「そうはそうなんだけど」奥さんは答えた。「まあコーポみんなでみていってくれたらなあと思うのよ」
みていく?みんなで可愛がろうってことかな。
それにしても奥さんの着ているジャージの胸の水本の字が気になるけれど聞けない。そして奥さんはしゃがんで猫に語り掛けた。
「猫ちゃん、この子は春花ちゃんよ。新しくこのコーポに来たの。四号室に住んでるから春花ちゃんとも遊んであげてね」
猫にきちんと紹介してくれた。でも『遊んであげてね』は私に言うんじゃなくて、猫の方に言うんだな…。
菜月ちゃんが言った。「おばちゃん、もう名前で呼ばなきゃ」
「そうだった!ごめんごめん」奥さんが慌てて謝る。
なんという名前か聞いてみると、「キイだよ!」と菜月ちゃんが元気よく教えてくれた。
「私が付けたんだよ」菜月ちゃんが自慢げに言う。「目が黄色いからキイ。おばちゃんがずっと『ねこちゃん』て呼んでて、私たちが引っ越して来たときにおばちゃんが私に名前付けてって言ったんだよ」
「そうなのよ~」奥さんもまだゴロゴロ転がっている猫を嬉しそうに見ながら言った。「やっと名前が決まって良かった。でも私はねえ、ほんと言うとつい『はなちゃん』て呼びそうになっちゃうのよね。はなちゃんていうのはむかしむかし、ほんとのむかし、私がまだ中学生だったころ、うちで飼ってた猫なんだけど、しぐさがそっくりで」
「黒猫だったの?」と菜月ちゃんが聞いた。
「ううん」優しく微笑みながら首を振る奥さん。「白い猫だったんだけど尻尾とお尻にあった模様のとこだけが茶色だった。それでお尻のとこの模様がお花の模様だったから『はなちゃん』て名前だったの」
「そっか、可愛いね!」
「見た目は全然違うのにねえ」と奥さんは優しく黒猫のキイを見つめながら言った。「しぐさがすごく似ていてねえ。つい『はなちゃん』て呼んでしまいそうになるからずっと『ねこちゃん』て呼んでたら、それがくせになちゃったんだよねえ」
しぐさが似ているって、猫ならみんな同じようなしぐさをするんじゃないのだろうか。
それから奥さんは改めて黒猫を優しく呼んだ。「キイ」
「にゃあ」と返事を返すキイ。
「可愛いよね?」と菜月ちゃんが私に言う。
私も頷いてから「可愛いね」と返した。
「おばちゃんとこのね」と菜月ちゃんが喋り出す。「お友達の家のそのお隣りの家のエアコンの室外機の脇で、野良猫が四匹子どもを産んで、それでそのおうちで育ててたんだけどおばちゃんがお友達に頼まれて一匹もらうことにしたんだってさ」
それでもいつも外にいるところしか見ないと言ったら、外が好きらしいよ、と教えてくれた。まだ大人じゃなくて危ないから、誰かが見てるときだけ外に出すことにしてるらしいのだが、勝手に窓から出て行ってしまうこともあるらしい。
「やんちゃなのよ~」奥さんが嬉しそうに言った。「本当に困る」
「なんかでもさあ、黒猫がそばにいると魔法使いらしい感じするよね?ねえ春花ちゃん」
菜月ちゃんが私に言って笑ったが、私は菜月ちゃんが急に子供っぽいことを言って来たなと思った。菜月ちゃんが続ける。
「魔法使いの連れてる猫って黒猫でしょ?。私、黒猫がうちにいたらいいなってお母さんにずっとお願いしてたんだけど、お父さんが猫が苦手だったから飼えなかったんだ。それでこのコーポに来たら猫がいて、おばちゃんがみんなの猫ってことにしようって言ってくれたとき、すごく嬉しかった。それで私に名前も付けてって言ってくれたんだよ?すごくない?」
今の小学三年生の平均がどんな感じかはよくわからないけれど、菜月ちゃんは小三にしては落ち着いて、しっかりしているなという印象がだったが、魔法使いの話をするなんて、結構子どもっぽいところがあるんだなと思う。
「すごいね。良かったね。キイって付けたんだね」
「そうだよ。目が黄色いからキイだよ!」
すごく可愛い名前だと私が褒めると、菜月ちゃんはとても嬉しそうで誇らしそうな顔をした。
「私、黄色が色の中で一番好きなんだ」
菜月ちゃんが言うと、「私もよ」と奥さんも言う。
「黄色っていうか山吹色が好きで、それでここも塗っちゃったのよ」
塗っちゃった?
奥さんが言った。「うち二人でやってたんだけど、見かねて水本君と水本君の弟が友だちも連れて来て手伝ってくれて」
自分たちで塗ったのか。すごいな。初めてこのやまぶき荘を見たときを思い出しながら言った。
「私もこの色好きです」
「そう?」奥さんがパァッとそれは見事に美しい笑顔になった。「良かった」
菜月ちゃんが黒猫の背中を撫でながら名前を呼んだ。
「キイ!」
キイは菜月ちゃんの脚に何回も額を擦り付けた。




