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 猫は可愛い名前を付けられて幸せだ。菜月ちゃんに頭や背中を撫でられながら、「キイ」と何回も愛おしそうに呼ばれるたびに、菜月ちゃんの脚に額を擦り付けていた。

 私の春花という名前は父が付けたらしい。私の誕生日は九月なのだが、父は春がつく名前にしたかったそうなのだ。春香とどちらにしようか迷ったらしいのだが、ちょうど私が生まれたときに、植えたわけでもない、名前もわからない薄オレンジ色の小さな花が庭の端に咲いていて、春花にしたのだと母は言った。私が生まれて父がそうやって名前を付けたときの話は、母もとても優しくて嬉しそうな顔をして話した。私が一歳を迎えるくらいまでは父も割と体の調子も良かったらしい。そしてそのころが一番幸せだったと話すときの母はいつも悲しい顔をしていた。

 自分たちがつらい目に遭って、自分の子どもまでをつらい気持ちにさせるつもりなら、子どもなんて最初から産まなきゃいいのにと、私は思う。私はずっと、生まれて来なければ良かったと思っている。実際それに近いことを繰り返し言って母を責めた時期もある。母はそのたびに覚めた目で私を見て、別に産みたくて産んだわけじゃない、本当に産まなきゃ良かったと、親としてあるまじきことを私に言い返して来たけれど、私は母と同じだけ、父を責めなかったことを今でも後悔している。母だけを責めてしまった。母一人で私を産んだわけでもないのに。父は私も、母のことも幸せにはしてくれなかったのに。父はもう死んでしまっているので、そのことについては一生後悔し続けなければいけない。


 次の休みの日にも同じように自転車で散策をした。菜月ちゃんが通っているであろう小学校の脇を抜け、駅裏の方を見て回り、やはりスーパー山元で買い物をして帰った。

 この間と同じように菜園のそばには菜月ちゃんと黒猫のキイがいて、菜園の中に奥さんの姿があった。平日なのに…と思ったが、よく考えたらもう春休みに入っているのだ。

 だから小学校のそばを通ったときも静かだったのか。

 今日も前と同じように手を振って、「春花ちゃ~~~ん」と声を掛けてくれる。今日は奥さんも手招きをしてくれた。奥さんは今日も水本の名前の入った紺色のジャージ姿だ。菜月ちゃんもジャージの上下を着ている。色は黄色だ。菜月ちゃんは黄色が好きだと言っていた。

 「春花ちゃんにも猫の好きな草あげとくから」

そう言って奥さんが手早く近くにあった四角い小さ目のプランターに、菜園から根ごと取った私には名前のわからない草を植え替えて渡してくれた。

「これをベランダの雨が直接当たらないところに置いておいて。キイが散歩のときに春花ちゃんの部屋にも寄れるように。おやつとかご飯あげたくなるかもだけど、それは我慢してね。決まったものをあげているから」

プランターは思ったより重かったが、不思議なことに歓迎会のときよりも、このコーポの住人として認められたような気持ちになった。


 奥さんがお昼を食べたか聞くので、食べていないが簡単なパスタを作るつもりだと答えると、一人暮らしで食事もちゃんと作って食べることができるのはとても素晴らしいと、大げさに思える程ほめてくれる。小さい頃に亡くなった父にも褒められたことがないし、母には何かにつけ文句を言われてばかりだったので、素直に嬉しい気持ちと、私なんかに無理に誉め言葉をくれなくてもいいのに、という気持ちが混ざって、たぶん困った顔をしてしまった。

「でもね」と奥さんがにこやかに美しい笑顔で言った。「私もパスタ作るつもりなの。だから私たち、一緒に食べない?」

「食べよーー」と菜月ちゃんも誘ってくれた。

 私はもちろん遠慮したが、結局お邪魔することにした。

 聞けば菜月ちゃんが春休みの間は、大家さんのお宅で菜月ちゃんを預かっているらしい。小学校の学童預りが三年生で終わるらしく、四年生に上がるこの春休みは自宅待機になったのだそうだ。そんな仕組みで少子化を問題にされてもね、と奥さんは少し憤慨してみせる。石崎さんは実家も離れているそうなので菜月ちゃんを預かることにしたらしいが、石崎さんと話し合って、きちんと食費や諸々のお金の取り決めもしたのだと教えてくれた。

「律儀でしっかりしてるのよ」と奥さんは石崎さんを褒めた。「私は菜月ちゃんと遊べて嬉しいんだけどね」

 貰ったプランターと買い物したものを先に部屋に直してくるようにと奥さんに言われ、その後ご飯が出来るまで菜月ちゃんと一緒にキイと遊んでいて欲しいと頼まれた。


 「春香ちゃんだけに教えるけど」

 キイが菜園の中を跳んたり駆けたり柔らかい草の上でゴロゴロしたり、菜月ちゃんが奥さんの植えたハーブの葉をじっくり観察したりするのを、少し木陰になったところで見守る。キイも可愛いし、菜月ちゃんも可愛い。一緒に遊んでいて、と言われてとても嬉しい。

 が、菜月ちゃんが葉っぱを一枚指で掴んで、すぐ私のところに来てそう言った。

 私のことをもう完全に春花ちゃんと呼ぶことにしたらしい。「おねえさん」とか「春花さん」とかではないんだなと思うが、菜月ちゃんに春花ちゃんと呼ばれるのは嬉しかった。私の腰を下ろしているすぐ横に腰をちょこんと下ろして、一緒にキイが遊んでいるのを見ながら菜月ちゃんが言ったのだ。

「私ねえ、魔法使いになる練習をしてるんだ」

「え?」

にこにこと話す菜月ちゃんだが、そう言えばこの前キイと遊んでいるとき、黒猫を連れていると魔法使いみたいだよねと言っていた。

 小学三年生の女の子ってまだこんな感じなのかな。私も魔法使いになれたらいいのに、と思っていた時期があったけど…、でもあれは幼稚園の時か小一くらいまでだったと思う。

「ねえ春花ちゃん」菜月ちゃんが言った。「五号室の人の手品って魔法みたいだったよね」

「魔法みたいだった!すごかったよね」

 菜月ちゃんは手品ができるようになりたいと言っていたのだ。魔法使いになる練習って言うのは、高森弟がやった手品みたいなことが出来るようになりたいという意味だろうか。

「違うよ~~」菜月ちゃんは言った。「あれは魔法みたいだったけど、魔法みたいな手品だよ。私がなりたいのは魔法使い。手品も出来るようになりたいけど」

「でも…魔法みたいだったよね?あの手品」

「手品は手品だよ。種があるのが手品」


 小さいころの私は魔法が使えたらと割と本気で思っていた。毎日おやつのときにお菓子とアイスクリームを魔法で出して、着替えや明日の用意も魔法でパパっとやって、そしてお父さんがお酒を飲まないように魔法をかけて、ちゃんと働くように魔法をかけて、お母さんが機嫌悪くならないように魔法をかけて…。いやまず、お菓子とアイスクリームよりもお金が欲しいと思っていた。常にお金がなくて困っているのが子どもの私にもいつも感じられたから。お金出て来い!と目を瞑って念じていた。そうしたら私も友達が来ているような可愛い服が買ってもらえるのに。そうしたらお母さんも、よそのお母さんのようにおしゃれなワンピースが着れるのに。そうしたらお父さんがいなくても暮らしていけるのに。

 もちろん魔法なんて使えるようにはならなかった。神様に祈っても何も変わらない。その当時は神様と魔法使いが相反するものだとも知らなかったし、私たち家族の生活は静かに、そしてどんどん悪い方へ向かっていった。


 とりあえずどんな練習をしているのかと菜月ちゃんに聞いてみた。

「んん~~~教えよっかなどうしよっかな~~」

菜月ちゃんはにこにこと、歌うように迷って見せた。とても可愛らしい。

 菜月ちゃんはお父さんがいなくても、父がいた私の子ども時代よりはるかに幸せなのだと思う。石崎さんがとても素晴らしい人なのだ。とても羨ましい。

「でもねえ」菜月ちゃんは言った。「私ちゃんとわかってやってるから。魔法使いになれないのはちゃんとわかっててやってんの」

「…そうなの?」

少し驚いて、そして困惑する。そうか、分かっているのか。でも分かってるのになんでやるんだろう?そういう遊び?

「だから、春花ちゃんもそれをわかって聞いてね」

子どもっぽいのか大人っぽいのかわからないなと思いながら、わかったと私は答えた。

「今さあ」と菜月ちゃんが言う。「そうなんだーー、て思ったでしょ?」

「え…」思ったけど。

「こういうのも練習なんだよ。その人が何も言わなくてもその時思ってることを当てるっていうの。大家さんのおばちゃんに教わってるんだ」

人の心を読む方法を?大家さんの奥さんに?

「あ、大家さんのおばちゃんに習ってるのは薬草のことだよ」と菜月ちゃんは笑う。「その人が何を思ってるかは相手の人を見て、じいっとじゃなくて、それとなく見て考えなさいっていうのはお母さんに言われてんの。じいっと見過ぎるとたまにキレる人いるからそれも気を付けなさいって言われてる」

やっぱり石崎さんは素晴らしいお母さんなんだな。私の母はそういう大事なことはちっとも教えてくれなかった。母は自分が相手の心を読むなんて全く出来ない人だったから、そもそも子供にそういうことを教えるのは無理だっただろう。

「おばちゃん、ハーブとかいっぱい作ってるでしょ?」

菜月ちゃんは大家さんの奥さんの家庭菜園を指差しながら言った。「それで薬草の効き目とか、組み合わせで食べたり飲んだりしたらどうなるかとか教えてくれるんだよ。木の皮とか使えるのもあるんだって。お母さんにも本を買ってもらって、今度夏休みの自由研究でもやろうと思ってんだよ。絵とか写真と組み合わせんの」

「そうなんだ。すごいね!」

本当にすごいと思って言った。小四で薬草の自由研究やるなんて。私は自分が自由研究に何をやったかもあまり覚えていない。やっていなかったかもしれない。高学年でやっとアリの観察とか植物の種を調べたりとかしたような気がする。それでも絵を大きく書いてごまかして、夏休みの後半にやっとのことで済ませていた。

「魔法使いってさ」菜月ちゃんが足元の土をいじりながら続ける。「そういう薬草とかで病気とか傷とかなおした人が、悪魔の力使ったとかって魔女って言われて殺されたりしたでしょ?それってさ、神様が手をかざして病気直すマンガとかあるのに、草使ったら助けてあげたのに火あぶりの刑にされたりするのって意味わかんないよね」

そういうことも知ってるんだ…。

「そういうの考えるとさあ」と菜月ちゃん。「むかしじゃなくて、今生まれてて良かったなって思ったんだ。そんなむかしに生まれて来てたら魔法使いの練習とか絶対出来なかったよね」

「…そうだね…そういうことって誰に教えてもらうの?」

「本とかマンガとか、テレビとかユーチューブとか、お母さんも教えてくれるし」

「お母さんは知ってるの?」さっき私だけに教えるみたいなこと言ってくれたけれど。「菜月ちゃんが魔法使いになる練習してること」

「教えてはいないけど、お母さん何でもすぐ気付くんだよね。私、魔法使いの本、図書館でいっぱい借りて来てたし」

「そっか」

「ほんと、お母さんなんでも気付くんだよ。嫌になっちゃう。宿題やってないときとか、友達とうまくいってないときとか、お母さんに黙ってチョコ余計に食べたときとか。もう嘘みたいにすぐ気付くんだよ」

「そっか、お母さんすごいね」

「この前なんかさ、宿題半分しかやってないときに、まだ宿題半分しか終わってないはず!って当てて来て、すごい嫌だった」

「そっか、お母さんするどいね」

「するどいよ!」



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