第九十五話 巨悪
修練場の灯りが落ち、
皆がそれぞれの休息に戻った頃――
ワタルは、ふと思い立って足を向けた。
(……ファング、どうしてるかな)
理由は、はっきりしない。
ただ、あの五日間の最後――
誰よりも追い込むように剣を振っていた背中が、頭から離れなかった。
音を立てないように、慎重に扉を開く。
――キィ……
中は、ほとんど闇だった。
だが、その奥で。
ガンッ、ガンッ、と鈍い音が響いている。
ワタルは息を呑んだ。
月明かりが差し込む訓練場の片隅。
そこに――ファングがいた。
上着を脱ぎ捨て、
汗に濡れた背中を晒しながら、
ただ一人、木製の打ち込み柱に双剣を叩きつけている。
一撃一撃が、重い。
速さではなく、迷いを潰すみたいな振りだった。
「……っ」
ファングは息を吐き、
再び剣を振る。
止まらない。
誰も見ていないのに、
いや――誰も見ていないからこそ。
ワタルは物陰に身を隠したまま、動けずにいた。
(……あんなに……)
昼間の訓練より、明らかにきつい。
回復も挟まず、限界を無視した動き。
刃が柱に食い込み、
腕がわずかに震えているのが見えた。
――ふと、ワタルの胸に、嫌な考えが浮かぶ。
(リンカのこと……だよな)
思い出すのは、
妹であり、敵であり、
それでも切り離せない存在。
ファングが口にしなかった言葉。
飲み込んだ感情。
(もし……もしまた、あいつと向き合うことになったら)
剣が、止まる。
ファングは肩で息をしながら、
柱に額を軽く預けた。
「……くそ……」
低く、掠れた声。
「……足りねぇ……」
誰に向けた言葉でもない。
けれど、あまりにも切実だった。
「……この程度じゃ……」
その背中が、
あまりにも――孤独に見えた。
ワタルは、胸が締めつけられるのを感じる。
(ファング……)
強いからこそ、
優しいからこそ、
全部を一人で背負おうとしている。
ワタルは一歩、踏み出しかけて――
止まった。
(……今、声かけたら……)
慰めになるのか。
それとも、余計な重荷になるのか。
答えは分からなかった。
だから、ワタルは――
ただ、見守ることを選んだ。
ファングは再び剣を構え、
何も言わず、何も求めず、
ただ己を追い込む。
その姿を見ながら、
ワタルは胸の奥で、静かに思った。
「……そこにいるのは、分かってるぞ」
不意に、低い声が落ちた。
ワタルの足が、ぴたりと止まる。
振り返らずに、
ファングは剣を下ろしたまま、月明かりの中で言った。
「足音、消せてねぇ。
気配もな」
……やっぱりか、とワタルは小さく息を吐いた。
「ごめん。盗み見するつもりじゃ……」
「いい」
短く、遮られる。
ファングはようやく振り返り、
汗に濡れた顔で、どこか疲れた目をしていた。
少しの沈黙。
やがて――
ぽつりと、独り言みたいに言う。
「……今や、リンカは天泣の幹部だ」
その名が出た瞬間、
空気がひやりと冷えた。
「もう……止めるだけじゃ、済まねぇかもしれねぇ」
ワタルは、言葉を失う。
ファングは、剣の刃を見つめたまま続けた。
「必要なら――
俺の手で、殺める覚悟もある…妹の姿をしたあいつをな」
言い切りではなかった。
どこかで、言葉を噛み砕くように――
喉の奥で止めた声だった。
ワタルは、息をするのを忘れていた。
ファングは剣を見つめたまま、続ける。
「……覚悟ってのはよ。
決めた瞬間に、楽になるもんじゃねぇ」
刃に映る月明かりが、わずかに揺れる。
「決めたあとも――
何度も、何度も考えちまう。
それでも進むって決め続けることだ」
肩が、ほんの少しだけ落ちた。
「正直言うとな……」
一拍、間を置いて。
「……怖ぇよ」
その一言は、
これまでのどんな強がりよりも、
胸に深く突き刺さった。
「俺が……俺の手で…… “妹だったもの”を終わらせるかもしれねぇって考えると…まぁもっともあの爆発で死んだのかとも思うが…」
言葉が、そこで途切れる。
ファングは、ゆっくりと息を吐いた。
「だから、鍛えてる。迷いが出ても、剣が止まらねぇようにな…でも俺は1人じゃねえ」
ワタルの胸が、きゅっと鳴った。
ファングは剣を下ろし、
その刃を静かに鞘へ収める。
「スノーがいて、
サヤがいて、
ハウンがいて……
お前がいる」
一人ひとりの名を、
確かめるように。
「だから……迷いがあっても、
怖くても、
それでも前に出られる」
少し照れたように視線を逸らし、
剣を肩に担ぐ。
「今日はもう寝る。
頭も体も……使い切った」
歩き出しながら、背中越しに言う。
ワタルも小さく息を吐き、
静かな訓練場を後にした。
さらに――三日が経った。
修練場の空気は、明らかに変わっていた。
踏み込みの音は無駄がなく、
魔力の流れは滞らず、
誰かが動けば、誰かが自然と補う。
もはや「訓練」という言葉が似合わない。
そこにあるのは――戦いの完成形に近い何かだった。
「……ちっ」
ウィングが後ろへ跳び、床を踏みしめる。
呼吸は荒くない。だが、額には確かに汗が浮かんでいた。
「今の、完全に読まれてたな……」
ファングの剣は止まらない。
スノーの氷は迷わず走り、
サヤの砂が視界を奪い、
ワタルが動線を切り、
ハウンの回復が“先に”回ってくる。
一瞬の油断が、敗北に直結する。
「……やべぇ」
ボンゾウが低く唸った。
「本気でやらねぇと……負ける」
その言葉に、
修練場の端で見守っていたハルクが、静かに目を細めた。
――そして。
ウィングは、戦闘を止めた。
「……ストップだ」
全員が息を呑む。
ウィングは大きく息を吐き、
肩から力を抜いた。
「もう十分だ」
スノーが戸惑いながら言う。
「え……? まだ、続けられるけど……」
ウィングは苦笑して、頭を掻いた。
「だからだよ」
少しだけ、照れたような声だった。
「これ以上やったら……オイラたちが本気で“負ける側”になる」
その言葉に、場が静まる。
ボンゾウも腕を組み、頷いた。
「冗談抜きでな。
今の連携、崩すのは相当骨が折れる」
ウィングは五人を見渡し、
いつもの挑発的な笑みではなく、
どこか柔らかな表情で言った。
「……態度、改めるわ」
スノーが目を丸くする。
「えっ?」
「お前ら、もう“鍛えられる側”じゃねぇ」
その一言は、
認めることの重さを伴っていた。
「教えられることは……正直、もうほとんどねぇよ」
ワタルが思わず聞き返す。
「じゃあ……俺たちは?」
ウィングは、肩をすくめて笑った。
「休め」
「……え?」
「ちゃんと休め。寝ろ。飯食え。笑え」
拍子抜けするほど、あっさりした言い方だった。
だが、次の言葉は深かった。
「張り詰めた気持ちを、ずっと維持するのは強さじゃねぇ。
それはただの消耗だ」
ボンゾウが低く続ける。
「力を出すために、抜く。
集中するために、緩める。
それも立派な“鍛錬”だ」
ハルクが、最後に口を開いた。
「戦場では、常に全力ではいられない。
だからこそ、“戻れる場所”を体に覚えさせろ」
五人は、しばらく黙っていた。
やがて――
スノーが小さく笑う。
「……なんか、それ、すごく難しいね」
ファングも鼻で笑った。
「剣振るより厄介かもな」
ワタルは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
(……認められたんだ)
強さだけじゃない。
在り方ごと。
ウィングは背を向けながら、手を振る。
「今日は終わりだ。
湯でも入って、さっさと寝ろ」
ワタルたちの足音が完全に遠ざかり、
修練場に残ったのは――三人だけだった。
結界の灯りが静かに脈打ち、
さきほどまでの熱と笑いが、嘘みたいに引いていく。
ボンゾウは腕を組んだまま、天井を仰いだ。
「……なぁ」
低い声だった。
「こんなにあっさり追いつかれるとよ。
正直……悔しいもんだな」
独り言みたいな言葉だったが、
確かに“共感を求める間”があった。
ウィングは一拍置いてから、鼻を鳴らす。
「……はっ」
そして――
子供みたいに、露骨に顔を歪めた。
「悔しいに決まってんだろ!!」
床を軽く蹴り、牙をむき出しにする。
「オイラたちが何年かけて積み上げてきたもんをよ!
五日だぞ!? 五日!!」
拳を握りしめ、
本気で拗ねたみたいに続ける。
「もっと時間かかると思ってたし!
もうちょい余裕で上から目線してられるはずだったんだよ!!」
ボンゾウは思わず、口元を緩めた。
「……だろうな」
ハルクは何も言わず、
ただ静かに二人を見ていた。
ウィングは一息吐き、
次第に声のトーンを落とす。
「……でもよ」
視線を、ワタルたちが消えた扉の方へ向ける。
「正直……」
一瞬、言葉を探してから。
「……あいつらなら、この世界、救えるかもしれねぇ」
その言葉は、軽くなかった。
ボンゾウも、ゆっくりと頷く。
「同感だ。
力だけじゃねぇ。
折れかけても、誰かが拾う。
拾われたやつが、次は支える」
低く、確信めいた声。
「……ああいう連中は、強ぇ」
ウィングは腕を組み、少しだけ笑った。
「悔しいけどな」
ハルクが、そこで初めて口を開いた。
「それでいい」
短い一言。
「あいつらが作る次の時代が始まるってだけだ」
「年寄りくさいこと言うのはなしっすよ、ハルクさん」
ウィングはそう言って、わざとらしく肩をすくめた。
だが、その口元には――隠しきれない笑みが浮かんでいる。
ハルクは少しだけ目を細めた。
「……そうか?」
「そうっすよ」
ウィングは鼻を鳴らし、床に腰を下ろす。
「“次の時代”だの何だのってよ。
言われる側は、なんか……引退勧告されてる気分になるんすけど」
ボンゾウが、低く笑った。
ハルクは何も言わなかった。
ただ、扉の向こう――
去っていった五人の背中を、確かに思い描いていた。
この世界はまだ危うい。
争いも、悲しみも、終わっちゃいない。
それでも。
「あいつらなら……」
誰に向けるでもなく、
ハルクは心の中で、そう呟いた。
――場面は、アルトたちの側へ移る。
薄暗い地下区画。
湿った石壁に、ランプの灯りがゆらゆらと影を落としている。
アルトは壁にもたれ、腕を組んだまま静かに目を閉じていた。
(……薬は渡した)
ギルベルトに選択を委ねた。
表向きは「体調を整えるための補助薬」。
飲むかどうかは本人の判断だと、あえて強調した。
(荒立てないためにも……決断は、あの人自身に)
だが、確信はあった。
あの男は――飲む。
正義のために。
秩序のために。
獣人を抑え込む力が“必要だ”と思った瞬間に。
アルトは、薄く息を吐く。
(あとは……待つだけ)
そのとき――
ゴトン
背後の扉が、鈍い音を立てて開いた。
アルトとリンカが、同時に視線を向ける。
そこに立っていたのは――
包帯だらけで、明らかに満身創痍の男。
だが、その口元は。
「いや〜〜……ひっでぇ扱いされてたわ、オレ」
へらへらと、間の抜けた笑み。
「……は?」
リンカが、素で声を落とす。
アルトも、一瞬だけ言葉を失った。
「……レイジ?」
「おう。生きてる生きてる」
レイジは片手をひらひらと振るが、すぐにバランスを崩して壁に寄りかかった。
「っと……まだ本調子じゃねぇんだよなぁ」
リンカが、目を細める。
「……あんた、あの時の爆発に巻き込まれて…」
「感動の再会! オレももうダメかと思ったよ」
そう言って、レイジは大げさに両手を広げ――
直後、よろりと体勢を崩した。
「ちょっ……!」
リンカが思わず一歩踏み出す。
「おっと、セーフセーフ……っと」
壁に肩を預け、へらへら笑う。
「いやぁ、爆発の中心からちょい外れてたのが運の尽き……じゃなくて運が良かったって言うのか?」
「全身ズタズタ、内臓もいくつかやられてさ。正直、“生きてる”って判定されるまで時間かかった」
アルトは、じっとその姿を見つめていた。
「……死体として扱われた、と聞いている」
「そうそう、それそれ」
レイジは指を鳴らす。
「“損傷激しすぎて確認不能”。
もうね、布かけられて運ばれかけた時はムッとしちゃってさぁ」
「ムッと、で済む話じゃないでしょ……」
リンカが呆れたように呟く。
「だろ? でも声も出ねぇし、指一本動かねぇし」
軽い調子のまま、言葉だけが少し重くなる。
「結局、回復に……かなり時間かかった。
魔法も効きづらいし、骨も筋も作り直し。
気付いたら、“死んだことになってる男”の出来上がり」
レイジは自分の胸元を指で叩く。
「ま、今はこの通り。
見た目ボロ雑巾、中身は半分復活」
アルトはゆっくりと息を吐いた。
「……よく戻ってきましたね」
アルトは、感情を極力削ぎ落とした声で続けた。
「……それで?」
視線はレイジの包帯だらけの身体を一度なぞり、
わずかに眉を動かす。
「そんな状態で戻ってきて――
あなたは、何の役に立てるつもりですか」
言葉は丁寧だった。
だが、はっきりと距離を取る問いだった。
リンカも腕を組み、壁にもたれかかる。
「言っとくけど、同情で居場所ができる段階はもう終わってるわよ」
「今は一手間違えたら、全員まとめて終わる」
レイジは一瞬きょとんとした顔をしてから――
次の瞬間、吹き出した。
「ははっ、やっぱそう来るか…ちょっとくらい泣いてくれたっていいじゃないかよ…」
レイジは天を仰いで、わざとらしく両手を広げ――
そのまま、肩を震わせて笑った。
「おいおい、冷たすぎだろ? オレ、今“奇跡の生還者”だぜ?ほら、拍手。感動。抱擁。……せめて椅子」
「床にでも座ったらいいわ」
リンカが冷たく切り返す。
アルトは動かない。声も温度も変えない。
「……役に立てるのか、立てないのか。結論だけで」
レイジは、口元の笑みを保ったまま――一瞬だけ、目を細めた。
笑っている“フリ”をしている時の顔だ。
「おいおい、俺が役に立たなかったことがあるかい?そりゃ…ルシアス様を見殺しにしたのは反省してるけどさ」
言いながら、胸に手を当てる――でも、その仕草は“反省の形”をなぞっているだけだった。
その目は、どこにも刺さらない。
痛みも、罪悪感も、後悔も――そこに“映って”いない。
リンカが、鼻で笑う。
「反省? いまさら?」
「うるさいトップが消えてくれた、くらいにしか思ってないくせに」
言葉は刺すように鋭いのに、感情は乗っていない。
怒りじゃない。軽蔑ですらない。
ただ、“事実の整理”みたいな声だった。
レイジは「ははっ」と笑う。
「さすがリンカちゃん、言うねぇ」
リンカは肩を竦めたまま、視線を外す。
「だってそうでしょ。ルシアスがいたせいで動けないこと、山ほどあった」
「消えて、空気が軽くなった。――それだけ」
アルトは、もっと淡々としていた。
「……私も同じです。」
冷たい断言。
だが、それは残酷というより“必要な切り捨て”だった。
感情を挟めば、判断が鈍る。
アルトはそれを嫌う。
レイジは一瞬だけ、瞬きをした。
それが、ほんのわずかな“人間らしい間”だった。
「……へぇ」
「仲良しだね、二人とも。こういうの、嫌いじゃないよ」
笑っているのに、空洞が透ける。
「反省してる」と言った口が、次にはもう“他人事”を転がしている。
レイジは、指先で包帯の端をいじりながら、ふっと思い出したように言った。
「……そういやさ」
視線を上げ、リンカを見る。
「ワタルたちの話、少しは耳に入ってるよ」
「特に――ファング」
リンカの表情が、ほんの一瞬だけ動いた。
レイジは気づかないふりをして、言葉を続ける。
「一度は味方のフリして近づいたんだけどさ」
肩をすくめる。
「いやぁ、見事に一杯食わされた。勘も鋭いし、仲間の動きもいい」
「……でさ」
そこで、わざと間を置く。
「そんなお兄ちゃんを…リンカちゃんはどう思ってるの?」
空気が、わずかに軋んだ。
リンカの瞳が、すっと細くなる。
ほんの一瞬――感情が浮かびかけて、すぐに押し殺された。
「どうって?」
声は平坦だった。
レイジは楽しそうに笑う。
「いやいや、ほら」
「今はワタルたちと一緒じゃん?」
「仲間だ、信頼だ、背中を預けるだの……綺麗な言葉、いっぱい聞こえてきそうなさ」
指で円を描くように、空中をなぞる。
「一度は“味方のフリ”して近づいた身としてはさ」
「正直、気になるんだよねぇ!」
「――そんな連中に囲まれてるのを、どう思ってるのかって」
リンカは、答えなかった。
視線も動かさない。
瞬きひとつせず、ただ――そこに立っている。
地下区画に、重たい沈黙が落ちた。
レイジは最初、冗談が滑った時みたいに肩をすくめた。
「あれ?」
「無言? 刺さっちゃった?」
いつもの軽口。
けれど、その声はわずかに乾いている。
リンカは、なおも口を開かない。
その沈黙は、怒りでも拒絶でもなかった。
答える価値がない、と切り捨てる静けさだった。
レイジは、ようやく気づいたように、口角を歪める。
「……へぇ」
包帯の隙間から、指先で顎を掻く。
「それ、図星よりキツい反応だな」
「嫌いとか、憎いとか、そういうのですらないって顔だ」
それでもリンカは、何も言わない。
アルトが、低く割って入る。
「レイジ」
「それ以上は不要です」
視線は冷静で、声は平坦。
だが、はっきりと制止だった。
「彼女は答えない」
「それが答えです」
レイジは一瞬、アルトを見る。
次に、もう一度リンカを見る。
そして、ふっと笑った。
「なるほど」
「執着してる時ほど、人は多くを語らない……か」
その言葉にも、リンカは反応しない。
ただ、ほんのわずか――
拳が、ゆっくりと握られた。
レイジはそれを見逃さなかった。
レイジは、その拳の動きを見て――ようやく悟った。
(……あ、これ今はダメなやつだ)
包帯の下で、体のどこがまだ言うことを聞かないか。
どの程度なら動けて、どの一線を越えたら“終わる”か。
自分の身体の状態を、誰よりも正確に理解しているからこそ分かった。
(リンカちゃん、今キレたら……オレ、普通に負けるな)
しかも、一方的に。
レイジは、いつもの軽薄な笑みを少しだけ緩めて、両手を軽く上げた。
「……おっと」
「やめやめ。今日はここまでにしとくわ」
冗談めかした口調だが、
それは明確な撤退宣言だった。
「これ以上つついたら、治りかけの身体が本格的にバラされそうだし」
「さすがに今は、命が惜しい」
リンカは、何も言わない。
だが、握られていた拳が――
ほんのわずか、緩んだ。
それを見て、レイジは内心で息を吐く。
(……助かった)
そして次に、視線をアルトへ向ける。
(ああ、そうか)
アルトが割って入ったタイミング。
声のトーン。
距離の取り方。
(オレの身を案じて止めてくれた……ってことだよな?)
胸の奥で、じんわりとしたものが広がる。
「……アルトさ」
少しだけ、声音が変わった。
からかいが消え、珍しく素直な調子になる。
「さっきのさ」
「止めてくれたの、ありがとな」
肩をすくめて、笑う。
「今のオレじゃ、リンカちゃん相手は分が悪い」
「気遣ってくれたんだろ?」
「いや〜……持つべきものは、冷静な仲間だねぇ」
その言葉に――
アルトは、ちらりと視線を向けただけだった。
感情は乗らない。
温度もない。
まるで、通行人を見たくらいの目。
「……違います」
即答だった。
レイジは、きょとんとする。
「え?」
アルトは淡々と続ける。
「あなたの身を案じたわけではありません」
「場が荒れると、計画に支障が出る」
「それだけです」
一切の迷いも、言い訳もない。
「あなたが殴られようが、殺されようが」
「現時点で、作戦価値に影響はありません」
レイジの笑みが、一瞬だけ固まった。
だが次の瞬間、彼は――大きく笑った。
「ははっ!」
「いやぁ、さすがだなアルト」
腹を押さえる仕草をしながら、楽しそうに。
「その感じ!」
「そうそう、そういうとこが好きなんだよ、オレ」
リンカは、ちらりとアルトを見る。
アルトは、それにも反応しない。
ただ、冷静に場を締める。
「レイジ」
「あなたがここにいる理由は一つです」
視線が、鋭くなる。
「“役に立つかどうか”」
「それ以外の価値は、今は不要です」
レイジは、軽く頭を下げた。
「はいはい」
「肝に銘じときますよ、参謀殿」
その軽口が落ちた直後――
アルトは間を置かず、次の問いを投げた。
「……ホリックが遺した薬が、いくらか残っています」
「それを使えば、完治までどれくらいかかりますか」
事務的で、感情の混じらない口調。
それは“心配”ではなく、スケジュール確認だった。
レイジは一瞬だけ天井を仰ぎ、包帯の下の胸を軽く叩く。
「んー……」
軽い調子で考える素振りを見せてから、正直に答える。
「内臓がな、けっこう派手にやられてる」
「骨も何本か“折れた”ってより“砕けた”感じだったし」
肩をすくめる。
「正直、普通なら歩けてない」
「ホリックの薬がなかったら、今ごろ本当に“死体”だったな」
その言い方にも、重さはない。
「完治、って意味なら――」
少しだけ指を折り。
「……五日くらいは欲しいかも」
「無理すりゃ動けなくはないけど、役に立つってレベルじゃない」
リンカが、ちらりとアルトを見る。
アルトは頷きもしない。ただ、情報として受け取る。
レイジは、にやっと笑った。
「ま、今でもさ」
「その辺の連中を捻るくらいなら、問題ないけどね」
軽口。
だが、自慢でも虚勢でもない。
“事実”として言っているだけの声。
アルトは小さく息を吸い、淡々と告げた。
「……ならば五日、待ちましょう」
決断の声だった。情ではなく、計算による判断。
「その間に――ギルベルトにも、薬を飲むよう仕向けます」
“促す”ではない。
“迫る”でもない。
仕向ける。
選択を本人に委ねつつ、結末はほぼ見えているという声音。
リンカがくす、と小さく笑う。
「兵士団長…だっけ?役に立つわけ?」
声色は軽いが、その奥に潜む悪意は隠そうともしない。
アルトは即答した。
「はい。役に立ちます」
静かな断言。
「兵士団はこの国の“骨格”です」
「それが崩れれば、国は自壊する」
リンカの瞳が、愉快そうに細くなる。
「じゃあ――兵士団を壊すのが目的ってことね?」
アルトはわずかに目を伏せた。
「崩壊は“結果”です」
「ギルベルトが選び、兵士団がそれに従い、国が揺らぐ」
そこには一片の迷いもない。
リンカはあっさりと結論を口にした。
「やっぱりさ」
「さっさと首を取ったほうが早い」
それは迷いなき暴力の発想だった。
実行が容易で、結果も確実な最短手。
アルトは横目でリンカを見る。
「確かに“早い”でしょう」
「ですが――“壊れる過程”こそが重要です」
リンカは舌を鳴らす。
「まどろっこしいの、嫌いなんだけど」
その横で、レイジが肩を揺らして笑い出した。
「ははっ、いいねいいね」
「やっぱアルトのやり方、性格悪くて好きだわ」
ずいと距離を詰めると、馴れ馴れしくアルトの肩をぽん、と叩く。
「首を刎ねるのは一瞬」
「でもさ――兵士団が自分で崩れていくのを見るのは、なかなか趣がある」
アルトは肩に置かれた手を、軽く振りほどいた。
「触らないでください」
温度は変わらないのに、拒絶だけがはっきりしている。
レイジは悪びれもせず笑う。
「はいはい、冷たいなぁ」
「でも、俺は賛成だよ」
包帯越しに顎を掻きながら続ける。
「兵士団が“守る側”から“縛る側”に変わる瞬間」
「国が自分で自分の喉を締めだす瞬間」
舌なめずりするみたいな声。
「見てみたいじゃん?」
リンカは壁に背を預け、目を細めて言った。
「兵士団が壊れれば――国も落ちる」
「国が落ちれば――居場所のない連中が溢れる」
「そういうの、私は嫌いじゃない」
アルトは淡々と結んだ。
「すべては五日後です」
「ギルベルトが薬を飲み、兵士団が動き、そして――崩れる」
そして小さく付け加える。
「その混乱に、天泣は乗る」
レイジはぽりぽりと頬をかき、ふいに顔を明るくした。
「――でさ」
包帯だらけの身体のくせに、やけに軽い声。
「五日、空くんだろ?」
「だったらさ、なんか遊ばないか?」
あまりにも呑気な響きに、地下の空気が一瞬止まる。
リンカがゆっくりと視線を向けた。
「……は?」
アルトは瞬きすらしない。
レイジは本気で言っている顔をしていた。いや、いつも通りふざけているだけに見えるのに――どこまでも本気。
「え、遊び、遊び」
「ほら、子どもの頃やったじゃん?」
指を折って数え始める。
「影踏みーとか」
「石蹴りーとか」
「かくれんぼーとか」
そこで一拍置き、唇の端をつり上げた。
「……見つかったら、指一本ずつ折られるやつとか」
唐突に混ぜ込まれる異物。
「敵に見つかったらアウト!じゃなくて“本当にアウト”」
「スリル満点、命がけバージョンかくれんぼ!」
どこか楽しげに語る声。
冗談なのか本気なのか、本人も境界を気にしていない。
リンカは心底どうでもよさそうにため息をついた。
「勝手にやってなさい」
アルトも短く付け加える。
「関与しません。ご自由に」
完全にいなされた形だが、レイジは全く堪えていない。
「おやおや冷たいなぁ」
「じゃあさ、トランプでも――」
包帯の手を見下ろす。
「……混ぜるのちょっと痛いな」
次の瞬間、瞳が妙にきらきらした。
「よし、じゃあ“オリジナルゲーム”だ」
嫌な予感しかしない声だった。
リンカはもう背を向けていた。
「私は寝る」
「回復するのも仕事だから」
実際、それは本音でもあった。
無駄な会話に時間を割く気もない。
アルトも短くまとめる。
「では、各自必要な行動をしてください」
完全に放置宣言。
しかしレイジは――嬉しそうだった。
「はい、解散! ……って言われた瞬間が一番自由で楽しいんだよなぁ」
がらんとした地下の通路に残り、
包帯の身体を無理やりぐるりと回す。
「じゃ、始めますか」
誰も相手をしていないのに、満面の笑み。
レイジは手を叩いた。
「――よし!」
「オレが審判と犯人と逃走者!」
完全に一人三役。
「おい、そこ止まれ!」
「やだよ、捕まるかっての!」
「ははっ、逃げても無駄だぜ!」
声色を変えながら、柱の影に隠れたり、わざと音を立てて走ったり。
ふらつきながらも、本気で遊んでいる。
足取りはまだ不安定。
それでも、笑い声だけは地下に響くほど大きい。
「つーか俺、今追いかける側? 追われる側? どっちだ?」
「まあいっか!」
アルトはその光景に一瞥だけくれ、
淡々と書類に視線を戻す。
「……騒音は最小限でお願いします」
レイジは手をひらひら振る。
「了解、参謀殿!」
と言いながら、全然静かにする気はない。
リンカは寝台に横になり、薄く目を閉じる。
(……ほんと、めんどくさい)
だが完全に無視しきれず――
背中越しに、微かに口元が歪んだ。
狂気と退屈のはざまで。
地下にこだまするのは、ひとりぼっちのふざけた声。
――それから、五日後。
地下区画の空気は、明らかに変わっていた。
湿り気を帯びていた石壁はそのままなのに、
漂う気配だけが違う。
張りつめていた“待ち”の時間が、終わった匂い。
ランプの灯りの下、
レイジは包帯を外しながら肩を回していた。
「……ん」
骨の鳴る音。
嫌な引っかかりは、もうない。
「五日でここまで戻るとはなぁ」
「ホリックの薬、やっぱ化け物だわ」
言いながら、床を軽く蹴る。
踏み込み――止まる。
ブレはない。
そこへ、足音。
アルトが現れる。
表情はいつも通り、冷静そのものだ。
「動作確認は終わりましたか」
レイジは振り向き、にっと笑った。





