第九十六話 大戦
ハルク達の拠点には昼前の柔らかな光が差し込んでいた。
外に出られないワタルたちは、いつものように簡素な食事の準備を手伝いながら、
どこか落ち着かない空気を共有していた。
「オラが行ってくる」
朝方、ボンゾウはそう言って胸を叩いた。
「食いもんも、日用品も、足りねぇもんあるだろ」
「希望、今のうちに言っとけ」
スノーは少し考えてから、
「砂糖。できれば白いの」と言い、
サヤは乾燥果物を一つ頼んだ。
ハウンは薬草の在庫を確認し、
「刺激の弱いものを少し」と静かに付け足す。
ファングは腕を組んだまま、
「無理はするな」とだけ言った。
ワタルは、最後まで迷ってから、
「……パン。みんなで分けられるやつ」と言った。
ボンゾウは「任せとけ」と笑い、
「昼飯時までには戻る」と軽く手を振って出ていった。
――それが、朝のこと。
鐘が一度鳴り、
影が少し短くなり、
昼の祈りの時間が近づいても。
ボンゾウは、戻らなかった。
「……遅いね」
スノーが窓の外を見ながら言う。
いつもの明るさはあるが、声が少しだけ硬い。
「混んでるだけだろ」
ファングはそう言ったが、
視線はすでに門の方を何度も追っていた。
用意した皿が、手つかずのまま並んでいる。
「……昼までには、って言ってたよね」
サヤの声は小さかった。
「流石に色々と頼みすぎたんじゃねえか?ボンゾウのやつ今頃迷子か待ちきれなくて困ってるかもな!様子、見てきてやるよ」
ウィングは軽く手を挙げた。
いつもの調子で、深刻さを打ち消すような声。
「どうせ市場で捕まって話し込んでるだけだろ」
「ボンゾウ、ああ見えて顔広いしな」
誰も引き止めなかった。
止められる理由が、まだなかったからだ。
ウィングは外套を羽織り、拠点を出る。
昼前の街は、人の気配が多い。
行商の呼び声、荷車の音、子どもの笑い声。
――だが、通りを一つ曲がったところで。
空気が、変わった。
人が集まっている。
立ち止まる者、遠巻きに見る者、顔を背ける者。
「……なんだ?」
胸の奥が、ひやりとする。
「ちょっと、通してくれ」
人垣をかき分けると、
視界の先、石畳の上に――見覚えのある体躯があった。
「……ボンゾウ?」
思わず、名前が漏れる。
倒れている。
いや、“倒されている”。
大きな身体が、無造作に転がされるように横たわり、
買い物袋が破れて、中身が散らばっていた。
乾燥果物。
砂糖の包み。
潰れたパン。
「……おい」
近づくにつれ、見えてくる。
外套は裂け、
厚い革の下、腹部から胸元にかけて――深く、鋭い斬り傷。
血はすでに乾き、
石畳に、黒く染みを残していた。
「……おい」
ウィングは膝をつく。
無意識に、肩へ手を伸ばす。
冷たい。
「……冗談だろ」
指先が、微かに震える。
「ボンゾウ……」
「起きろよ」
返事はない。
大きな胸は、上下しない。
あれだけ豪快に笑っていた口は、固く閉じられたままだ。
ボンゾウのすぐ脇。
血に濡れた石畳の上に、鋭い銀の破片が落ちていた。
――割れたチャクラム。
中心の輪がひしゃげ、刃は歯こぼれし、
誰かを襲った証のように赤黒く染まっている。
「誰だ!誰がやった!」
その声に引き寄せられるように、周囲は一気に騒然となる。
驚きと恐怖、怒りが入り混じった空気が、広場を覆い始める。
「なんでだよ……なんであのボンゾウさんが……!」
「誰か、犯人見た奴いねぇのか!」
「これ……天泣の仕業じゃねえのか……?」
広がっていく憶測。
震える手で口を覆う者、足早にその場を去る者、
恐怖からか、ただ突っ立って動けずにいる者。
そんな中、年配の女性が声を張り上げた。
「誰か、ハルクさんを呼んできな!ウィングさんだけじゃ…!」
騒然とする街の片隅で、
ウィングは膝をついたまま、静かに状況を見ていた。
人々の声は、もう遠くに聞こえる。
耳に届いても、頭に入ってこない。
だが――その奥で、別の思考が回り始めていた。
(……このままじゃまずい)
名の知れたパーティの一員が、真っ昼間の街中で…
しかも、その犯人が「天泣」だと疑われる材料まで転がっている。
民衆が騒げば騒ぐほど、「天泣の動き」が露見する。
そして、無関係のはずの“ワタルたち”の存在にも――不意に陽が差しかねない。
彼らは、まだ動くには早すぎる。
今は、あくまで潜んでいなければならない。
(なら……)
「――俺が行く」
かすれた声が、地面に零れる。
ウィングはボンゾウの肩に一度だけ触れると、
静かに立ち上がり、ひとつ深く息を吐いた。
周囲に動揺する民衆を横目に、
声を荒げる者たちに背を向け、そっとその場を離れる。
「……ハルクさんには、俺から直接伝える」
そう呟くと、足は自然と速くなっていた。
誰よりも早く、確実に――
この報せを、あの男に届けなければならない。
昼飯どきになっても、ボンゾウは戻らなかった。
「すぐ帰る」と言っていた背が、もう戻らないことを――誰も、まだ信じていなかった。
そのときだった。
扉が勢いよく開かれ、ウィングが飛び込んでくる。
「……ウィング?」
全員がその気配に顔を上げる。
だが、彼の表情が、すべてを物語っていた。
「……ボンゾウが……」
その声は掠れていた。
喉が、まともに声を出すことを拒んでいるようだった。
「街の路地で……斬られて倒れてた。もう、手遅れだった……」
ハルクが、立ち上がることすらできず、その場で凍りつく。
ワタルも言葉を失い、ただ唇を震わせる。
スノーが顔を手で覆い、サヤが「うそ……」と呟く。
ハウンはただ、目を閉じて肩を落とした
ボンゾウは自分達のために買い物を申し出てくれていたのだ。
だが誰の責任でもない。
それでも、心は簡単に納得しない。
人だかりの中を抜けて、ハルクはボンゾウの倒れていた場所へと向かった。
清掃されたとはいえ、石畳にはまだ黒ずんだ跡が残り、
その痕は“そこに確かに命があった”ことを否応なく突きつけてくる。
「……ここか」
ウィングがうなずく。
そして――
すぐそばに、鋭く輝く銀の破片が落ちていた。
ハルクがそれを拾い上げる。
「これは……チャクラム……」
中央の輪は歪み、刃は歯こぼれしている。
だがその形状には、ワタル達も見覚えがあった。
「……リンカの……!」
指が強く震える。
「まさか、また……!」
広場にいた者の一人が、震える声を上げる。
「……見たことがある。この武器……」
「あれと同じ……!あのとき、フラハイトで――」
「“あの女”が振るってた……!」
あの事件。
――リンカがフラハイトの街を襲撃し、民衆をチャクラムで惨殺。
その血の惨劇を前に、誰も声を上げられなかった。
そして彼女は脅した。
「黙ってワタルたちを犯人にしなければ、次はお前たちだ」と。
民衆は震えながら頷いた。
口を閉ざし、声を捨て、罪を――彼らに着せた。
そうしなければ、自分たちが殺されていたからだ。
だが、その後――
ワタルたちと、民衆は再び巡り合った。
怯えた顔で近づいた彼らに、ワタルたちは刃を向けなかった。
「……あの時、俺たちは……」
「すまなかった……!」
地に膝をつき、頭を下げた彼らに、ワタルたちはただ静かにうなずいた。
そして、あの言葉が返ってきた。
「……次は、俺たちが天泣に抗う番だ」
後悔の上に、誓いが重なった。
誤解をしていた人々にも、真実が届き始めていた。
「あんたたちは、何もしていなかった」
「むしろ、私たちを守ろうとしてくれていたんだ……」
そう口にする者が、徐々に増えてきた。
だが、その安堵に浸っている時間はなかった。
ファングが、静かに前へ出る。
チャクラムを見据え、眉間に皺を寄せ、
殺気を帯びた視線を、虚空へ向けて放つ。
「出てこい」
声は低く、震えるほどに怒気を孕んでいた。
胸の奥底から、怒りと哀しみが混じって這い上がってきた。
「お前が……妹の姿をしていようが……関係ねぇ」
握りしめた拳が、わずかに震える。
声はかすかに濁っていた。
「お前ごと、天泣を……終わらせる」
宣告だった。
低く呟かれたその言葉には――誰よりも彼自身が苦しんでいることが、滲んでいた。
誰も言葉をかけられなかった。
ウィングも、ハルクも、ワタルたちでさえも。
ファングの背中は、まるで孤独な剣そのものだった。
けれど、その孤独に寄り添うように、ワタルが一歩踏み出す。
「……俺たちも、終わらせよう。ファング」
ワタルの声は、決意に満ちていた。
「お前だけじゃない。あいつの手を――俺たち全員で、止める」
ファングは何も言わない。だがその肩に、静かに力が戻っていく。
天泣の影は、確かに迫っていた。
五人が背中を向け合い、輪となって立つ。
広場の中央、乾いた風が吹き抜ける。
誰もが無言のまま、周囲に漂う“殺意”に集中していた。
「……来る」
サヤが小さく呟いた。
それは、空気が引き裂かれるような気配。
風の流れとは異質な、明確な“狙い”。
全員がそれに気づいた――だが、ワタルだけは確信していた。
(……来るなら、俺だ)
最も無防備に見える自分。
最も“力のない”と見える自分を――敵は狙う。
その読みは、的中した。
シュッ――。
風を裂く音と共に、銀の弧が閃いた。
チャクラム。
背後から飛来するそれに、ワタルは振り返らずに剣を抜く。
「……ッ!」
ぎり、と地を蹴り、半身をひねりながら剣を振るう。
ガン――!
火花と共に、チャクラムが弾かれる。
ワタルの右腕がしびれる。
重い。鋭い。殺すための一撃だった。
「ワタル!」
スノーが叫ぶ。
だがワタルは倒れない。
弾いた刃の先を、しっかりと見据えていた。
着地する影―華奢な足が音もなく地に触れる。
赤い髪 鋭い眼光。
投げた凶器はスピードを緩めて彼女の手元へと戻ってくる。
指先にぴたりと収まったチャクラムの刃が、再び月光を反射して妖しく煌めいた。
「……リンカ……!」
ファングが低く唸るように呟く。
だがそこにいる“彼女”は、ただの妹ではなかった。
赤い髪は風に揺れ、まるで血のように夜に溶けていく。
瞳に浮かぶ光は、どこか虚ろで、誰の姿も映していなかった。
「へえ……弾き返したんだ?」
その声には、感情がほとんどなかった。
ただ事実を確認するだけの、乾いた響き。
――声の主は、上空にいた。
照りつける昼の陽光に白く光る屋根の上。
しなやかな体を軽くしゃがませるようにして、そこに佇んでいるのは――“リンカ”だった。
赤い髪が強い風に揺れ、銀のチャクラムが太陽を反射してぎらりと光る。
見下ろす瞳には嘲笑も怒りもなく、ただ底の見えない虚無だけが浮かんでいた。
「あたしや天泣を終わらせるって…お兄ちゃん…」
昼の陽射しの中で、リンカの声だけがひどく冷たかった。
「まだそんな綺麗なこと、言えるんだね」
屋根の上から見下ろすその表情は、笑っているようで――まるで笑っていなかった。
「家族だから?」
ことん、と足場を蹴る。
次の瞬間、彼女は地面へと舞い降りた。
砂埃がふわりと浮き、赤い髪が陽光を裂く。
近い。
息がかかるほどの距離。
リンカはチャクラムを肩でくるくると回しながら、首を少し傾けた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
虚ろな瞳が、まっすぐファングを射抜く。
「あたしに戻ってきてほしいの?それとも…あたしのことを殺せるの?」
気がつけば――拳が出ていた。
理性も計算も追いつかない。
ただ胸の奥に溜まり続けたものが、形になって溢れた。
ドッ――。
重い音が響く。
ファングの拳が、リンカの頬を正面から殴りつけていた。
軽い体が、わずかに後ろへ弾む。
チャクラムの回転が一瞬だけ乱れ、金属音を立てて止まる。
民衆が息を呑む。
ワタルたちでさえ、言葉を失った。
リンカの頭が、ぐらりと傾く。
しかし――倒れない。
血をにじませながら、ゆっくりと顔を戻す。
赤い髪が揺れ、虚ろな瞳が兄を映す。
ファングは、低く、絞り出すように言った。
「……その姿で」
喉が震え、声が掠れる。
「――何も、話すな」
それは怒号ではない。
悲鳴でもない。懇願にも似た、拒絶。
「そんなにそいつらが大事?」リンカは殴られた頬を押さえもしなかった。
ただ、わずかに首を傾げる。
乾いた声が落ちる。
「そんなに、“そいつら”が大事?」
視線が、ワタルたちへと流れる。
スノー、サヤ、ハウン、そしてワタル。
一人ひとりを、もののついでのように見渡す。
「家族より?」
ファングの胸が、瞬間ぎゅっと締めつけられる。
言葉が出ない。
リンカは続ける。
「守りたいんだよね。みんな」
「だから、あたしに説教して、殴って、“正しい場所”に戻そうとしてる」
まぶたを伏せ、ひとつ瞬きをする。
そして、静かに呟いた。
「――勝手だよ」
その一言で切り捨てるように言い放つと、視線をファングへ戻す。
「ねぇ、お兄ちゃん」
声は低く、乾いているのに、底だけが深い。
「“守る”って言葉、便利だよね」
チャクラムの刃先が地面をかすめ、キィン、と金属音を鳴らす。
「守るためなら、殴ってもいい」
「守るためなら、縛ってもいい」
「守るためなら、人の選択も、心も、踏みにじっていい」
淡々と並べられていく言葉は、責めるでも泣くでもなかった。
「お前は何を言っているんだ」
ファングの声は低く震えた。
怒鳴りつけるでもなく、理屈でねじ伏せるでもない。
理解できないものを前にした、どうしようもない戸惑いが混じる声だった。
リンカは瞬きもせず、その言葉を受け止める。
「言葉のまんまだよ」
即答だった。
「“正しい理由”をつければ、何をしてもいいんでしょ?」
視線がファングの拳へ落ちる。
「殴ったのも、正しいから」
胸元へと移る。
「連れ戻そうとするのも、正しいから」
チャクラムをくるりと回しながら、淡々と続ける。
「“家族だから、許される”」
「“守りたいから、許される”」
「“正しいから、許される”」
一つひとつ区切る声は静かで、それが逆に痛い。
そして、ふっと目を細めた。
「天泣も、同じこと言ってた」
ファングの表情が、強張る。
リンカは空を一瞥した。
「弱い奴から奪う」
「逆らえない奴から壊す」
「――それは“正しい世界を作るため”だから」
チャクラムが陽光を受けて鋭く光る。
「だから、許されるんだって」
淡々と繰り返し、
そして静かに、落とす。
「お兄ちゃんも、同じ」
心臓を、指で指した。
「“正しい理由”を盾にして」
「“家族”を振りかざして」
まっすぐに見据え、
「――あたしを殴った」
ファングは言葉を失う。
「お前……何をふざけたことを――!」
たまらず、ワタルが一歩踏み出した。
剣を構え、リンカとファングの間へ割って入る。
刃先はぶれず、瞳は真っ直ぐだった。
「ファングがどんな思いで、ここに立ってると思ってるんだ……!」
その一言が、昼の空気を震わせた瞬間――
風が裂けた。
「遅い」
低く呟いたリンカの姿が、ふっと掻き消える。
次の瞬間にはもう、彼女はワタルの目の前にいた。
胸ぐらを、細い手がつかむ。
「っ――!」
衝撃で身体が引き寄せられる。
鼻先が触れそうな距離。リンカの瞳が、無感情のままワタルを見下ろしていた。
「口を出すのも、正しいから?」
ささやくような声。
そのまま、ワタルの背中が石畳に叩きつけられようとした――
「……ッ!」
ワタルの体が、きしむ。
瞬間、全身に力が走った。
(――動け)
内側から、魔力が爆ぜる。
筋肉が悲鳴を上げるのも構わず、身体強化の魔法を重ねる。
足を踏みしめ、腕に込められた拘束を、ぎり、と押し返す。
リンカの手がわずかに弾かれた。
二人の間で、圧力が軋む。
リンカの睫毛が、初めて揺れた。
「……へぇ」
胸ぐらをつかんだまま、ほんのわずかに目を見開く。
驚愕ではない。
ただ、計算が狂った時の反応。
「逃げないんだ」
ワタルは荒い息を吐きながら、リンカの手をこじ開ける。
「当たり前だ……!」
喉が焼けるほどの息の中で、言葉を絞り出す。
その瞬間――
ワタルの左手が、わずかに揺れた。
指が、空を切る。
(――来い)
短く、素早い指の動き。
声にはならない合図。
それは、五人で何度も何度も練習した“連携用の指文字”。
スノーの瞳がそれを捉える。
(了解)
一瞬で意味を読み取る。
次の瞬間。
空気が、弾けた。
「今!」
ワタルが叫ぶと同時に、身体をわずかにひねった。
それは自分から攻撃する動きではない。
“巻き込まれない位置”へ、最小限で抜ける動き。
それを、全員が知っていた。
スノーが詠唱を短く噛み切り、氷の矢を放つ。
冷気が渦を巻き、無数の氷刃となってリンカへ殺到した。
ヒュウ、と空気が悲鳴を上げる。
逃げ場を削り、退路を封じ、角度を変えて何度も、何度も。
それは、ただの魔法ではなかった。
鍛錬と実戦の中で磨かれた、
“仲間を傷つけず、敵だけを追い詰める”ための軌道。
リンカの体を覆うように、白い靄が広がる。
「チッ……」
かすかに舌打ちが聞こえた。
次の瞬間――
ドゴッ。
鈍い衝撃音。
白い靄の向こうで、何かが壁に叩きつけられた。
石造りの家の外壁がビリ、と震え、
氷の欠片がばらばらと弾けて地面に散る。
靄が、ゆっくりと晴れていく。
そこに見えたのは――
建物の壁に背中から叩きつけられ、
片膝をつきながら、荒く息を吐くリンカの姿だった。
赤い髪が乱れ、頬には拳の痕。
肩で息をしながらも、まだチャクラムを離してはいない。
リンカは、しばらく言葉を失っていた。
壁に片手をついたまま、肩で荒く息をしながら――自分の身体に走る痛みに、目を瞬かせる。
そして。
「……は?」
小さく漏れた声は、あまりにも素の響きだった。
頬の痛み、腹の鈍い衝撃、氷刃が掠った傷口のひりつき。
遅れて神経がそれらを拾い始める。
「いった……っ」
指先が震える。
じん、とした痛みが広がるたびに、瞳の奥が揺れた。
次の瞬間――
「……なにそれ」
顔が、歪む。
それは怒りでも冷笑でもない。
子どもが、おもちゃを壊されたときのような、むき出しの感情。
「おかしいでしょ」
声が震え始めた。
「なんで――」
ぎゅっと、チャクラムを握りしめる。
「なんであたしが……痛い思い、しなきゃいけないの」
昼下がりの風が止まる。
リンカの感情だけが、そこに生々しく噴き上がっていた。
「殴られて」
「凍らされて」
「壁に叩きつけられて」
一つひとつ並べながら、顔を上げる。
瞳の色が、変わっていた。
怒りと混ざり合った、拗ねたような、癇癪の火。
「ふざけてるよね」
笑う――けれど、それは笑顔とは程遠い。
「“正しいから”でしょ?」
「“止めたいから”でしょ?」
「“守りたいから”でしょ?」
吐き捨てるように言葉がこぼれる。
「だから、あたしを傷つけてもいいんだ」
ぐしゃり、と自分の胸を掴む。
「勝手に殴って、勝手に魔法ぶつけて!」
「それで――それで、“まだ戻ってこい”とか言うんだ!」
ついに声が爆ぜた。
地面の砂が跳ねるほどの叫び。
「……もういい」
低く、幼い声。
顔を上げたリンカの瞳には、涙ではなく――冷たい光が宿っていた。
「だったら」
チャクラムが回転し始める。
「“嫌がる”暇なんてなくしてあげるよ」
次の瞬間、空気が弾ける。
リンカの姿が、風のように消えた。
サヤが動く。
彼女の指先がわずかに震えた。それは迷いではない――敵意と決意が交錯した一瞬の揺らぎ。
「……砂嵐が届く限り…それ以上は立ち入らせない…」
ぽつりと零れた声は、普段の淡々とした響きよりも、わずかに冷たさを帯びていた。
その言葉を合図に。
「いけ!」
サヤの両手から金色の粒子が噴き出す。
砂だ。
細かく煌めく砂が渦を巻き、風に乗って竜巻のように螺旋を描く。
瞬時に視界が白く濁った。
「……ッ!」
リンカの眉が微かに寄る。速度は彼女の方が遥かに上。回避も防御も可能だったはずだ。
しかし――
「視界ゼロで戦える?」
サヤの声が砂塵の向こうから囁いた。
次の刹那。
ゴゥッ!
轟音と共に砂の壁が崩れ落ちる。
いや、違う。
壁を構成していた砂粒そのものが変貌したのだ。
針だ。針状の砂の群れがリンカを包囲している。
「……っ!?」
咄嗟にチャクラムを回転させるが――遅かった。
シュンッ!
無数の針がチャクラムの軌道に食らいつく。
鋭い砂が刃を擦り、火花を散らしながら表面を削っていく。さらに一部は内側へ潜り込み、内部機構を侵蝕していくのが見て取れた。
「やだ……これ超うざい!」
リンカの声が初めて焦りを帯びた。ピンクの髪が揺れ、苛立ちを隠せずに歯を食いしばる。
「あたしのチャクラムが……!」
彼女が必死に回転させようともがくが、すでに砂粒は“武器そのもの”に噛みついていた。
ジャリ、ジャリ――と嫌な音が響く。
「やめっ……!」
リンカの手元で、チャクラムの回転が鈍る。
砂はただ削るだけではない。
サヤの魔力に応じて形を変え、隙間という隙間へと潜り込み――歯車のようにかみ合って“止める”。
完全に軌道を拘束されたチャクラムが、ピタリと停止した。
「……あ?」
リンカの瞳が揺れる。
次の瞬間。
バキン、と乾いた音。
チャクラムの刃の一部が、内側から弾け飛んだ。
金属片が昼の光を弧を描いて散り、石畳に突き刺さる。
「――あ」
声にならない息がこぼれる。
リンカが、固まった。
彼女の指先から、力が抜ける。
チャクラムが、砂に絡め取られたまま地面へと引きずり落とされる。
カラン、と転がる音。
サヤの瞳が細められた。
「武器に依存した近距離主体……」
淡々と、しかしどこか冷ややかな独白。
「なら、まず“手”から折る」
その言葉通り、砂が渦を巻く。
リンカの足元から巻き起こる砂嵐が、鎖のように彼女の手首へ絡みついた。
「っ――!」
引き千切ろうとしても、砂が絡みつくたび形を変え締め付ける。
逃げ場が削がれていく。
スノーが、息を呑む。
(サヤ……迷ってない……)
いつものふわりとした口調も、淡い微笑みも、今はない。
そこにいるのは――戦場の魔術師だった。
リンカが顔を上げる。
苛立ち。
焦燥。
そして、ほんの少しの恐怖。
「離せって言ってんでしょ!」
怒鳴り声と同時に、リンカが魔力を爆発させる。
空気が軋み、砂が一瞬だけ吹き飛ぶ。
彼女が必死に回転させようともがくが、すでに砂粒は“武器そのもの”に噛みついていた。
ジャリ、ジャリ――と嫌な音が響く。
「やめっ……!」
リンカの手元で、チャクラムの回転が鈍る。
砂はただ削るだけではない。
サヤの魔力に応じて形を変え、隙間という隙間へと潜り込み――歯車のようにかみ合って“止める”。
完全に軌道を拘束されたチャクラムが、ピタリと停止した。
「……あ?」
リンカの瞳が揺れる。
次の瞬間。
バキン、と乾いた音。
チャクラムの刃の一部が、内側から弾け飛んだ。
金属片が昼の光を弧を描いて散り、石畳に突き刺さる。
「――あ」
声にならない息がこぼれる。
リンカが、固まった。
彼女の指先から、力が抜ける。
チャクラムが、砂に絡め取られたまま地面へと引きずり落とされる。
カラン、と転がる音。
サヤの瞳が細められた。
「武器に依存した遠距離主体……」
淡々と、しかしどこか冷ややかな独白。
「なら、まず“手”から折る」
その言葉通り、砂が渦を巻く。
リンカの足元から巻き起こる砂嵐が、鎖のように彼女の手首へ絡みついた。
「っ――!」
引き千切ろうとしても、砂が絡みつくたび形を変え締め付ける。
逃げ場が削がれていく。
スノーが、息を呑む。
(サヤ……迷ってない……)
いつものふわりとした口調も、淡い微笑みも、今はない。
そこにいるのは――戦場の魔術師だった。
リンカが顔を上げる。
苛立ち。
焦燥。
そして、ほんの少しの恐怖。
「離せって言ってんでしょ!」
怒鳴り声と同時に、リンカが魔力を爆発させる。
空気が軋み、砂が一瞬だけ吹き飛ぶ。
だが。
「……遅い」
サヤの声は静かだった。
砂煙がぱっと四方へ散った。
そこに立っていたリンカは――
立っていた。
砂鎖は砕け散り、足元に崩れ落ちている。
肩で息はしているが、なおもチャクラムを握り直し、口元には不敵な笑みさえ浮かんでいた。
「……効かないって言ったら、どうする?」
その姿に、ワタルたちの背筋が凍る。
スノーが小さく息をのむ。
ハウンの指先が、わずかに震えた。
(今のを……耐えた……?)
だが――
サヤだけは、動揺していなかった。
ただ、リンカをじっと見つめる。
リンカは一歩、二歩と前に出る。
カツ、カツ、と足音が響いた――
が、三歩目で。
ガクン。
膝が、落ちた。
「――っ……?」
リンカの表情が初めて歪む。
喉元に、ひゅっと短い呼吸音が走った。
咳がこぼれる。最初は小さく、次第にこらえきれなくなる。
「……な、にこれ……っ」
胸を押さえ、息を吸おうとして――吸えない。
喉から胸へ、焼け付くような痛みが走る。
視界がにじみ、世界がぐらりと傾く。
チャクラムが、からんと手から落ちた。
スノーがはっと目を見開く。
「――砂……!」
サヤは静かに頷いた。
「うん。吸い込んだ」
彼女の声は、いつもの淡い調子のままだが――芯だけが鋭い。
「さっき、全力で魔力を爆発させたでしょ」
淡々と続ける。
「その時、肺いっぱいに――砂も吸い込んだ」
リンカの肩が震える。
呼吸をするたび、胸の奥でザリザリと音がするような感覚。
吸えば吸うほど、酸素ではなく異物が喉を満たす。
「やだ……」
声がかすれる。
「やだ、やだ……何これ……!」
リンカは喉に指を立てるように押さえ、必死に息を求める。
だが、吸えない。
焦れば焦るほど、酸素が遠のく。
胸の奥で、焼け付くような恐怖が広がった。
サヤは、目を逸らさない。
「それが“砂の魔法”だよ」
優しさでも、残酷さでもない。
ただ事実を告げる声。
「切り傷みたいに見えなくても」
「派手に吹き飛ばなくても」
視線がまっすぐにリンカを射抜く。
「体の中から、ちゃんと壊す」
リンカの手が、がくりと力を失い、地面に落ちた。
呼吸は浅く速く、目は涙で滲む。
「――やだ」
今度の声は子どものように震えていた。
「苦しいの、やだ……!」
サヤの表情が、ほんの少しだけ揺らぐ。
スノーが思わず一歩踏み出そうとする。
「サヤ、もう――」
だが、サヤは首を横に振った。
「だめ」
その声は、静かに、しかしはっきりしていた。
「ここで止めなきゃ」
「この子は、まだ誰かを殺す」
ワタルはサヤの横顔を見つめた。
それは冷酷さではなく――
必死に震えを押し殺して保っている覚悟の顔だった。
リンカは地面に手をつき、必死に呼吸を掴もうとあがく。
涙で滲んだ視界の先。
最初に映ったのは――ファングの姿だった。
リンカの足もとで、銀色の輪が転がっていた。
チャクラム。
割れ、削れ、砂に侵食され、かつての鋭さを失い始めたそれを――
ファングが拾い上げた。
ギリ、と指が食い込むほど強く握りしめる。
(ここで終わらせる)
脳裏に浮かぶのは、倒れたボンゾウの姿。
血に沈んだ広場。
震える民衆。
そして――目の前で息をかすかに掻き集めている、妹の姿。
靴音が近づく。
リンカの視界に、影が覆い被さった。
顔を上げる。
そこには、チャクラムを持ったファングがいた。
瞳は燃えるように赤く、しかしどこまでも静かで――そして、決まっていた。
「……お兄……ちゃん……?」
掠れた声が漏れる。
リンカは喉を押さえながら後ずさろうとするが、足がもつれて動かない。
ファングは一歩、また一歩と近づく。
チャクラムを逆手に握り、喉元の高さに持ち上げた。
その刃先は、わずかに震えているのに――狙いだけは、微動だにしない。
「ここで」
低い声が落ちる。
「終わらせる」
それは怒鳴りでも恫喝でもなかった。
自分自身に突きつける宣告のような声だった。
「お前が誰に操られていようが」
「何を言い訳にしていようが」
歯を食いしばる。
「――もう、これ以上、誰も殺させねぇ」
リンカの瞳が揺れる。
呼吸は浅く、涙が頬に伝っている。
それでも、声は掠れたまま笑おうとした。
「……だから、殺すの?」
ファングの手が、ぴくりと揺れた。
「守るためなら、許されるんだよね」
さっきの言葉を、もう一度繰り返す。
「“正しいから”」
「“大事だから”」
「“誰かを守るため”だから」
喉が焼ける痛みの合間に、息をつぎながら言う。
「だから、お兄ちゃんは――」
自分の首もとへゆっくり視線を落とす。
「――あたしの首を、落とすんだ」
静寂が落ちた。
チャクラムの刃に、昼の光が反射して白く光る。
ファングは――動けなかった。
腕は振り上げられる。筋肉は悲鳴を上げるほど力がこもっている。
なのに、下りない。
胸の奥から込み上げるものが、喉を塞いだ。
(落とせ)
(ここで終わらせろ)
(これ以上、被害を出すな)
それでも。
(……妹だ)
肺の奥から、血の味が込み上がるような感覚。
ファングの奥歯がきしんだ。
「……っ……!」
腕が震える。
刃が揺れる。
リンカはそれをじっと見つめていた。
恐怖。諦め。挑発。何もかもが混ざった瞳で。
「どうしたの」
掠れた声で、囁く。
「殺すんでしょ」
「“正しい”んでしょ」
静かに微笑んだ。
「だったら、早くやってよ」
その言葉に――
チャクラムを握るファングの拳から、血がにじんだ。
刃先が、リンカの喉元すれすれで止まっていた。
沈黙のなかで、ファングが口を開く。
低い、掠れた声だった。
「……俺の妹は」
言葉を吐くたび、胸の奥が裂ける。
「――あの内戦で死んだ」
リンカの瞳が、わずかに揺れる。
ファングは、逃げ場をふさぐように一歩近づいた。
刃先は喉に触れはしない。だが、いつでも触れられる距離。
「墓も……弔いも……全部、俺がやった」
握る手に、力がこもる。
「だから答えろ」
真正面から射抜くように見据える。
「お前は何者だ」
静かに、しかし容赦なく突きつけられた問い。
「俺の妹じゃない」
「リンカの“姿をしている何か”なんだとしたら――」
言葉が切り裂くように落ちる。
「――お前は、誰なんだ」
リンカは口を開きかけ――
その瞬間。
パン、と場違いなほど軽い手拍子の音が響いた。





