第九十二話 ハルクたちの基地
夜が明け、街道はうっすらと朝靄に包まれていた。
荷車はひたすら北東へ、ラグドの首都方面へ向かって進んでいく。
ボンゾウは変わらず荷車を軽々と引いていたが、背中に覗く筋肉は汗で光っていた。
「ふぅ……やっぱり夜通し動くと堪える。でもよ、ここからが踏ん張りどころ」
声は軽口めいているが、目は真剣だった。
ウィングとハルクは荷車の外であたりの様子を交代で見回している。
荷車の幌の内側では、ワタル達が揺れに身を任せていた。
車輪の音と馬車道の軋みが一定のリズムを刻み、緊張を和らげるどころか、逆に胸の不安を思い出させる。
内側には薄暗い静けさが漂っていた。
揺れる荷車の中で、ファングは壁にもたれかかるように座り込み、腕を組んだまま目を閉じていた。浅い眠りのせいか時折眉が動くが、それでも疲れ切った体を休めるには十分だった。彼の隣に置かれた双剣は、今にも抜け出せる位置にあった。
一方のスノーは、毛布に包まれて丸くなり、規則正しい寝息を立てていた。頬にはまだ幼さを残す柔らかな寝顔が浮かび、時折唇が微かに動く。夢の中で誰かに話しかけているのだろうか。
「サヤ、ワタルも寝てていいのよ」
ハウンは柔らかな声で、荷車の隅に座る二人に目を向けた。
ワタルは幌の隙間から外の景色を見つめていた。朝靄の向こうに続く街道は、果てしなく先を隠している。その視線は鋭くもどこか張り詰めすぎていて、ハウンには心配に映った。
「……俺は元々、夜型の人間なんだ」
幌の隙間から外を見つめたまま、ワタルは軽く笑ってみせた。
その声色は努めて平静を装っていたが、ハウンの目にはすぐに映った。
長い夜を乗り越えたはずなのに、彼の瞳には眠気ではなく、張りつめた疲労の影があった。
「……嘘ね」
ハウンは穏やかな声で、だがためらいなく言い切った。
「はは。ハウンには何でもお見通しだな」
ワタルは苦笑して肩をすくめる。だがその笑みは、どこか力のないものだった。
「私はちょっと起きてたいだけ。」とサヤは修道院からもらってきたパンを片手でちぎって口に運びながら、視線は外の景色でもなく、ワタルとハウンのやり取りを聞き流すように宙を漂っていた。
それを見て、ワタルが眉を上げる。
「……それ、朝ごはん用のやつじゃないのか?」
サヤはパンをもぐもぐと噛みながら、ちらりとワタルを横目で見て言い返した。
「まだまだ成長期なんだから仕方ないでしょ。お腹空くの」
ハウンは小さく息を洩らし、ふっと笑みを浮かべる。
「……サヤらしいわね」
「何よ、それ」
サヤはパンをもう一口かじり、ふくれっ面をつくった。声には拗ねたような響きが混じっていたが、その仕草には年相応の可愛らしさがにじんでいる。
「……ふふ」
ハウンは小さく微笑むと、手元に置いてあった布袋を開いた。
中からは、修道院で分けてもらった乾燥茶葉と小さな鉄のポット。
「せっかくだから、温かいものを飲みましょう。気持ちも少し落ち着くはず」
ハウンが指先に魔力を込めると、ポットの中の水がじわじわと沸き立ちはじめる。
やがて柔らかな香りが幌の中に広がり、緊張に張り詰めていた空気を和らげていった。
「ほら、サヤ」
差し出された湯気の立つカップを、サヤは両手で受け取った。
「……ありがと。あったかい」
熱を帯びた湯気が顔に触れると、彼女の表情は少しほころぶ。
ワタルも受け取ったカップを見つめながら、思わず息をついた。
「……いい匂いだな。飲むだけで落ち着きそうだ」
三人は揺れる荷車の中で、静かにお茶を口に運んだ。
ほのかな渋みとやさしい香りが、張りつめていた心を解きほぐす。
サヤは目を細め、ひと息ついてからぽつりと呟いた。
「……こうやって飲んでると、ちょっとだけ……普通の旅をしてる気分になるね」
ふふっと、ハウンが小さく笑った。
その笑みには、安堵と温かさが滲んでいる。
「……な、なに? 私、変なこと言った?」
サヤがオロオロと視線を泳がせる。両手でカップを抱えたまま、眉をひそめて首をかしげた。
「ううん、そうじゃないの」
ハウンは穏やかに首を振り、柔らかく微笑んだ。
「ただ……サヤがそう言えるようになったのが、ちょっと嬉しかっただけ」
「えっ……?」
サヤは目を瞬かせた。ハウンの優しい笑顔が、揺れる灯のように見えた
「今の」——と、ハウンは続けようとして、言葉を一瞬だけ飲み込んだ。
外の光が幌の隙間から差し込み、彼女の横顔を淡く照らす。
「今のサヤは、ちゃんと“誰かと一緒にいる”顔をしてるの」
その声は優しく、それでいて確かな強さがあった。
サヤは一瞬、きょとんとした顔をした。けれど次第に、その言葉の意味を理解したように頬を赤らめる。
「……そんなの、わかんないよ。顔なんて、見えないし」
ハウンはくすりと笑い、そっとサヤの頬に触れた。
「ううん。わかるの。だって今のあなた、ちゃんと安心してる顔してるもの」
サヤの唇が小さく震え、視線が泳ぐ。
「……あたし、別に……みんながいないとダメとか、そういうのじゃないし」
「そうね。でも、いてくれた方がいいって思ってるんでしょう?」
ハウンの問いに、サヤは言葉を返せなかった。
ただ、うつむいたまま湯気の立つカップを見つめ、
小さく、けれど確かに頷いた。
「そうでしょう?ワタル…って寝てる?」
ハウンがふと振り返ると、ワタルはカップを両手で包んだまま、目を閉じていた。
まるで静かな呼吸と共に、お茶の香りに包まれているように見える。
「……寝てる、ね」
サヤはぽつりと呟き、ほんの一瞬だけその顔を見つめた。
「……すごく、気持ちよさそうに寝てる…」
小さな声が、カップの縁に溶けるように漏れた。
ハウンがその言葉に気づいて、そっと目を細める。
「ワタルのこと、気になるのね」
「ち、違うし……!」
サヤは慌てて言い返したが、頬に浮かぶ朱は隠せなかった。
ハウンの柔らかな声に、サヤは俯いたまま口を尖らせた。
けれど、視線の先ではワタルの手がわずかに動き、カップが揺れる。
その仕草に、彼女の胸がわずかに高鳴った。
「……あたしたちも、そろそろ寝ようか」
ハウンの声が、夜明けのように穏やかに響く。
サヤはうなずいて、毛布を肩まで引き上げた。
「……うん。ワタルの隣、うるさくしないようにするから」
その言葉のあと、ハウンは小さく笑ってサヤの髪を撫でた。
「大丈夫よ。サヤは、もう誰かの隣にいるのが自然になってる」
「……そうなのかな」
「そうよ」
荷車が小さく揺れた。
幌の隙間から差し込む朝の光が、三人の頬をやさしく照らしていた。
サヤはその光を見ながら、ゆっくりと目を閉じた。
――その胸の奥に、ほんのり温かいものを感じながら。
翌朝…
「おい、ついたぞ…一旦建物の中に入ってくれ…」
ボンゾウの低く疲れた声に、幌の内側でうたた寝していたハウンがゆっくりと目を開けた。
彼の額には汗が滲み、背中の筋肉はまだ張っている。それでも、力強く荷車を引き切った表情には達成感があった。
外へ出ると、そこには大きな石造りの建物が広がっていた。
門構えはしっかりしており、周囲には見張り塔のようなものも見える。フラハイト郊外――ハルク達パーティが拠点とする建物だった。
「へぇ……すごいところね」
スノーが目を丸くする。だがその声には眠気が混じっていた。
「全然眠れなかった……」
スノーがあくびを噛み殺しながら言うと、ファングも隣で腕を組んだままぼやいた。
「俺もだ。荷車が揺れるたびに剣を握っちまった」
「……いやいや、二人とも途中で寝息立ててたじゃない」
ハウンが半ば呆れたように笑い、スノーは「う、うそ……!」と顔を赤らめる。
一方で、荷車の中ではまだ静かな寝息が二つ。
「……ワタル、もう着いたわよ」
ハウンが声をかけても、反応はない。
「おいワタル、いつまで寝てんだ」
ファングが痺れを切らし、軽く肩を揺さぶる。
「……う、うん……着いたのか……」
ワタルがようやく目を開け、寝ぼけ眼で辺りを見回すと、ファングは呆れ顔でため息をついた。
その隣では、まだ毛布にくるまったサヤが小さく丸まっていた。
「……むにゃ……あと五分……」
「……サヤ、すごく豪華な料理の匂いがするわよ」
ハウンが小声で囁く。
すると、ぴくりとサヤの耳が動き、瞼がゆっくりと開いた。
「……豪華……?」
鼻先をくんくんと動かしながら、半分寝ぼけた声で呟くサヤに、ハウンはくすりと笑う。
「こうでもしないと起きないことがあるのよ…」とハウンはボソっと呟く。
「騙すようなこと言って大丈夫なのか?」とファング。
「ふふっ、いいのよ。パンの匂いに釣られるなら、それもサヤらしいでしょ?」
ハウンの穏やかな声に、サヤはまだ半分眠たげなまま口を尖らせた。
「……聞こえてるんだけど……」
スノーがくすっと笑いながら肩をすくめる。
「まぁ、食べ物の力は偉大ってことね」
「うるさい……」とサヤは顔を赤くしながら、ようやく毛布を押しのけた。
寝癖のついた髪を慌てて直しつつ、鼻をひくひくさせて辺りを見回す。
「おはよう!ワタルくんたち!」
快活な声が響き、石造りの拠点の中にウィングが姿を現した。
いつもの軽い笑みを浮かべながら、ひらひらと手を振る。
「いやぁ、長旅ご苦労さん! ボンゾウの脚ならそりゃ早いけど、荷車の旅はキツイよなー」
「それについては本当に助かった」
ファングが言うと、ウィングは満足そうに頷いた。
「それじゃ、こっちへ。中、案内するよ!」
彼が先導するままに進むと、拠点の中は驚くほど整っていた。
広い玄関に食堂、壁には武具が掛けられ、廊下の奥には寝室や訓練場らしき部屋まである。
「へぇ……すごいね。まるでちょっとした宿屋みたい」
スノーが目を輝かせると、ウィングは得意げに笑った。
「でしょ? 俺たち、けっこう顔が広いからさ。食料とかも、街の人からタダでもらえることが多いんだ。ま、信頼の証ってやつ?俺たちくらいになると立派な家も建っちゃうわけ!」
その言葉に、スノーは素直に感嘆の声を漏らしたが、ワタルとファングは苦笑を浮かべた。
「……野郎は一部屋でいいよね?」
ウィングが軽く肩を叩きながら聞く。
「まぁ、別に構わん」
ファングがあっさりと答え、ワタルも頷く。
「男二人はくっついて寝るのが一番あったかいってね!」
ウィングが冗談めかして笑うと、ファングが低い声で返した。
「……殴るぞ」
「はいはい、冗談冗談!」
場が軽く笑いに包まれる中、奥の扉がゆっくりと開いた。
そこから現れたのは、腕を組んだハルクだった。
「……ウィング」
その一言で、ウィングの肩がぴくりと跳ねた。
「ああ…ハルクさん…その…」
「自慢話はほどほどにしておけ。」
淡々とした口調。だが、その言葉には有無を言わせぬ重みがあった。
「す、すみません……つい、はしゃいじゃいました……」
ハルクは軽く息を吐き、腕を解いた。
「拠点の施設は自由に使ってくれて構わん。風呂も、食堂も、寝室も整えてある。」
その言葉に、スノーがぱっと顔を明るくした。
ハウンも微笑を浮かべて頷く。
「ここまでしていただけるなんて…助かります。」
「うむ、今は休むといい」
ハルクは静かに言葉を続けた。
「夜通し移動したから、俺たちは休ませてもらう。何もなければ、これからのことを話し合うのは明日でもいいだろう。」
一同は頭を下げ、スノーが開口一番
「じゃ、風呂の順番は譲らないからね!」そう言って小走りに廊下を進み、ハウンが苦笑しながらその後を追う。
「待て…勝手に決めんな! 俺が先に――」
ファングが慌てて声を上げるが、その言葉はスノーの笑い声にかき消された。
「早い者勝ちでしょ? もう私、湯気の幻が見えてきたもの!そんなに急いじゃって、まさか一緒に入りたいわけ?」
スノーが振り返りざまに悪戯っぽく笑う。
「なっ…!お前の入った後だとアホががうつりそうだからな」
ファングが即座に言い返すと、スノーはぴたりと立ち止まり、じと目で睨みつけた。
「……へぇ、そういうこと言うんだ?」
スノーの目が鋭く光った。
「ああ言ったさ」
そんなやり取りに場が少しだけピリついた瞬間――。
「ちょ、ちょっと待って! 喧嘩? 大丈夫?」
ウィングが手を挙げて慌てて割って入る。
それを見て、ハウンがふっと笑みを浮かべた。
「ふふっ……大丈夫です。うるさくしてすみません。」
優しくそう言いながら、少し懐かしむように目を細める。
「子どもの頃は、あんなふうにしょっちゅう言い合いしてて……
でも、今はもう本気で喧嘩することなんてなくなったんです。
なんだか、少し懐かしい気持ちになりますね」
「ほら、二人とも。静かに。せっかくいい拠点を貸してもらってるんだから」
ハウンが穏やかな口調で注意すると、スノーとファングは同時に肩をすくめて、「……はいはい」「悪かったよ」
二人が同時に肩をすくめて返すと、ハウンは「まったく」と苦笑をこぼした。
険悪な空気はすぐに霧散し、代わりにどこか安心できる静けさが漂う。
「そんなに昔からの仲なんだ。」
ウィングが少し驚いたように言うと、ハウンは静かに頷いた。
「ええ。スノーはね、昔から放っておけない性格なんです。一人でいる子を見ると、つい声をかけて、気づけば隣に座ってるような子で……」
ハウンの視線が、どこか優しく遠くを見ていた。
「そのときも、学校にも行かないで一人で剣を振ってた子がいて……」
ハウンの声が少し柔らかくなる。
「それが、ファングだったんです。誰も近寄れなかったけど、スノーだけは平気で話しかけに行って。
“ねぇ、なんでそんな顔してるの?”って、真っ直ぐに聞いちゃうような子でした」
ウィングは目を丸くした。
「スノーさん、昔からあの調子だったんだな……」
「ええ。あれから何度も喧嘩して、何度も仲直りして。
でも結局、離れたことなんて一度もないんです」
ハウンは静かに微笑んだ。
「最近は大人になって喧嘩することもずいぶん減りましたけどね」
ハウンは小さく笑いながら、そっと肩をすくめた。
「でも、ふとした瞬間に昔のままになるんです。あの調子で口げんかを始めて、言い合いながらも、どこか楽しそうで……」
ハウンが穏やかに語り終えると、ウィングは苦笑しながら頭をかいた。
「なるほどなぁ……あの二人、昔っからあんな感じだったんだな。でも、なんか羨ましい関係だよな」
そう言うと、彼は思い出したように手を打った。
「――あ、そうだ! 言い忘れてたけど、大浴場は二つあるから、分かれて入ってもいいぞ!」
その言葉にスノーが嬉しそうに振り向く。
「ほんと!? じゃあ女の子組はこっちね!」
「ふん、なら男組はもう片方だな」
ファングが腕を組んで答えると、ウィングは大げさに笑った。
「ガーハッハ! いやぁ、悪いな! オレが余計なこと言ったせいで、無駄に喧嘩させちまったみたいでよ!」
ハウンが微笑んで首を振る。
「いえ、大丈夫です。ウィングさんのせいじゃありませんよ。むしろ、あの二人にはちょうどいい気分転換になったかもしれません」
「はは、そう言ってもらえると助かる!」ウィングは笑いながら、当然のようにタオルを肩にかけて男湯の方へ向かった。
「よーし、せっかくだし俺も一緒に入るかな! ここの湯、結構いいんだぜ? 鉱泉で体の芯まで温まるんだ!」
ウィングが男湯の方へ当然のように肩を回しながら入ってくると、ワタルとファングは思わず顔を見合わせた。
湯気が立ちこめる浴場の中、石造りの壁に声が軽く反響する。
「いやぁ〜、こうして湯に浸かるのが一番だよな! 戦いも、旅も、やっぱり疲れがたまる!」
ウィングは豪快に湯船へ肩まで沈めると、まるで自分の家のようにくつろいでいた。
ワタルが苦笑しながら言う。
「ウィングさん、本当に元気ですね。俺たちはもう眠気が勝ってますよ」
「ははっ、それは若さが足りねぇんだよ!」
ウィングが笑い飛ばすと、ファングが湯船の縁に腕をかけながら低く返す。
「いや、あんたの体力がおかしいんだろ」
「まぁまぁ!」と笑いながら、ウィングは話題を切り替えた。
「せっかくだし、風呂でも入りながら話そうぜ。君たちのこれまでのこととかさ。」
ウィングが湯にどっぷりと浸かると、白い湯気の向こうに見えるその背中――
無数の傷跡が、ぼんやりとした光の中で浮かび上がった。
切り傷、火傷、獣の爪痕のようなものまで。
それらは、どれも一度や二度の戦いでつくものではない深さだった。
ワタルは思わず目を伏せる。
(……これが、“先輩パーティ”ってやつか)
戦場を何度も越えてきた背中。
その存在そのものが、“生き残ってきた者”の重みを物語っていた。
ウィングはそんな視線を気にするでもなく、肩まで湯に沈めて笑う。
「……なぁ、せっかくだし、ちょっと聞いてもいいか?」
「はい?」
ワタルが顔を上げると、ウィングはにやりと口角を上げた。
「――まず…ワタルくんはあの三人の中で誰が一番気になる?」
ウィングがにやりと笑いながら、まるで軽口のように言った。
湯気がふわりと立ち上がり、ワタルの頬を柔らかく照らす。
「えっ、えっと……な、何を急に……」
ワタルは湯船の中でのけぞり、慌てて視線を逸らした。
「何かと思えば……そんな話か」
ファングが湯の中で腕を組み、やれやれと呆れたように眉を下げた。
ワタルは内心ほっとして、助け舟が来た――と思った、その瞬間。
「で、どうなんだワタル」
「……え?」
「お前、顔に出てる。スノーか? ハウンか? それともサヤか?」
ファングの口元がわずかに吊り上がる。まるで、からかうように。
「おいおい、ファング、お前も乗るのか!」
ウィングが笑いながら背中を叩く。湯がぱしゃりと跳ねた。
「やっぱり気になるんだよな〜、こういう話は! で、どの子なんだ、ワタルくんよ!」
「ちょ、ちょっと! 二人してなんなんですか!」
ワタルが湯の中で立ち上がりそうになり、慌てて座り直す。頬は真っ赤だ。
ファングは肩を揺らして笑う。
「まぁ、あいつらの中じゃ誰かを意識するのも無理ねぇだろ。どいつも個性強いしな」
「ははっ! だよな!」ウィングが湯を叩く。
「スノーちゃんは明るくて元気! ああいう子は場の太陽だしな!」
「ハウンちゃんは落ち着いてて気配りができる。ああいうタイプは長旅の癒やしになる」
「サヤちゃんは………」
ウィングが少し声を落とし、わざとらしく間を取った。湯気の中でにやりと笑みを浮かべる。
「……あの無口な感じが逆にいいよな! あのタイプは、心を開いたら一気に甘え上手になるんだって!」
「色々世話になってるけど、気持ち悪いな」
ファングが低い声でぼそりと呟いた。
ウィングは一瞬だけ「おっと」と肩をすくめるが、すぐに破顔した。
「おっと、怖ぇなファングくんさぁ。冗談だっての!」
そう言いながらも、ウィングの口元はまだにやけている。
「でもな……君たち見てると、まるで昔のオイラを思い出すんだよ。」
ファングが眉をひそめる。
「……昔のあんた?」
「ああ。オイラにもな、似たような仲間がいたんだ。
最初は“任務だから一緒にいる”ってだけだったんだが――いつの間にか、その“誰か”を守るために戦ってた」
ウィングの声は、どこか懐かしさとわずかな苦味を含んでいた。
「笑い合って、喧嘩して、気づけばその人の笑顔がオイラの支えになってたんだよ。……ま、結果的にはうまくいかなかったけどな」
彼はそう言って、豪快に笑ってみせたが、
その笑い声はどこか空洞を残していた。
ワタルはその横顔を見つめながら、
(……“うまくいかなかった”って、どういう意味だ?)と心の中でつぶやいた。
ウィングはそれを察したように、
「深くは聞くなよ。酒の席なら語ってやるが、風呂じゃ湿っぽくなる」と軽く手を振った。
そしてまた口角を上げ、いつもの調子に戻る。
「だからよ、ワタルくん。恋だって、戦いと同じさ。 怖がってばっかじゃ前に進めねぇ。」
ワタルは、湯気の向こうで笑うウィングの言葉に、胸の奥を突かれたような感覚を覚えた。
戦いと恋が同じ――そんな言葉、今まで考えたこともなかった。
「……前に、進む……か」
小さく呟くその声を、ウィングは聞き逃さない。
「そうだ。踏み出したやつだけが、何かを掴む。……ま、時には痛い目も見るけどな」
ファングが腕を組み、鼻で笑った。
「痛い目、ね。あんた、それで“うまくいかなかった”って言うんじゃないのか?」
「お、するどいねぇ。けどそれだけじゃねぇさ」
ウィングは湯船の縁にもたれ、天井を見上げる。
「――守りたいもんができるってのは、同時に“怖くなる”ってことなんだ。
失うのが怖くて、言えねぇことも、できねぇことも増える。結局、それがオイラの失敗だったのさ」
******
湯気が立ちこめる女湯。
サヤは桶を抱えながら、壁の向こうから響く男たちの笑い声に、ちらりと視線を向けた。
「……なんか、あっち騒がしくない?」
「うん、さっきからずっとね」
ハウンが髪をまとめ直しながら、静かに答える。
そのとき、スノーがにやりと笑った。
「ふふっ、これは恋バナだね」
「え?」
ハウンが小首を傾げる。
「どうして?」
「この盛り上がり方、絶対そうだよ。間違いない!」
スノーは湯の表面を軽く叩きながら、楽しそうに続ける。
「ウィングさんがワタルをからかって、ファングが便乗して――ね、もう絵が浮かぶでしょ?」
サヤは思わずその言葉にピクリと反応したが、慌てて視線をそらした。
「……ふ、ふーん。どうでもいいじゃない、そんなの」
「おやおや?」
スノーが目を細め、にやにやと近づいてくる。
「サヤちゃん、ちょっと気になってる顔してない?」
「な、してない!」
サヤはあわてて湯に沈み込み、頬まで真っ赤にした。
湯気がそれを隠すように揺らめく。
「あんまりからかったら可哀想よ」
ハウンがそう言ってスノーを軽くたしなめる。
スノーは「はーいはーい」と言いながらも、まだ口元をにやつかせていた。
そのとき――サヤの視線が、ふと湯船の端に留まった。
「……あれ?」
半ば湯に沈んでいた小さな桶を、彼女は手に取った。
他の桶よりも少し小ぶりで、縁の部分が淡い桃色に染められている。
側面には、細かい花の彫り模様があり、どこか可愛らしい印象だった。
「これ……なんか、可愛いね」
スノーが身を乗り出して覗き込む。
「この浴場にあったやつ? 他のはみんな普通の木目の桶なのに」
サヤは頷きながら、指先で彫り模様をなぞった。
「うん。けど、ちょっと古い感じ……前からあったのかな」
ハウンが桶を手に取り、静かに見つめる。
「……そうかもしれないわね。」
スノーがきょとんとした顔をして言った。
「でも今のパーティって、ハルクさんたち三人とも男でしょ? なんでこんな可愛い桶があるんだろ」
「……さあね」
サヤはそう言いながらも、なぜか目を離せなかった。
湯気の中で淡く光るその桃色が、妙にあたたかく見えたからだ。
「だいたいお風呂が二つあるって、ちょっと不思議じゃない?」
スノーが湯の表面を指でなぞりながら、ぽつりとつぶやいた。
「ハルクさんたち、わざわざ二つに分ける意味あるのかな」
ハウンは湯の中で髪を撫でながら、ゆっくりと微笑む。
「お風呂だけじゃないわ。部屋も多いし……なんだか、ちょっとした宿屋みたいね」
その一言に、スノーの眉がぴくりと動く。
「……宿屋、ねぇ?」
「ええ。落ち着いた造りだし、共同の台所もあるし。誰かが泊まりに来ても十分対応できそう」
「ふ〜ん……でも、宿屋って言ったら!」
スノーは胸を張り、湯をぱしゃりと跳ね上げる。
「その道のプロはこのあたしの実家でしょ!
サービスも清潔さも、温かさも――全部負けない自信あるから!」
サヤとハウンが思わず顔を見合わせる。
ハウンは苦笑しながら肩をすくめた。
「そうね。スノーの家の宿屋は私も好きよ。」
「でしょ!」
スノーは得意げに顎を上げ、湯の中で手をぱしゃりと叩いた。
「お客さん一人ひとりの顔と名前、ちゃんと覚えてるんだから。お湯の温度も、寝具の柔らかさも、季節に合わせて全部変えてるの!」
サヤはその勢いに思わず苦笑した。
「はいはい、すごいすごい。そんなに力説しなくても誰も疑ってないってば」
「本当よ! あたしがいなきゃうちの宿、回んないんだから!」
スノーは腰に手を当て、湯をばしゃっと跳ね上げる。
サヤはその湯しぶきを顔に受け、眉をひそめた。
「ちょっと、静かにしなさいよ。せっかくいいお湯なのに……」
「えぇ〜、なによ〜。サヤちゃん、聞いてくれてもいいじゃん〜」
スノーはニヤニヤしながら、肩に湯をすくってぱしゃりと軽くかけてくる。
「やめろってば」
サヤは面倒くさそうに言いながらも、完全には怒っていない。
「そんなこと言って〜、絶対来たら感動するって! ほら、特製の朝ごはんとか――」
「はいはい、もう分かった。宣伝上手ね」
サヤはひらひらと手を振ってかわす。
「も〜、聞き流さないでよ〜」
スノーはさらに距離を詰め、湯を両手でかけるまねをして挑発的な笑顔を見せた。
「やる気?」
サヤが静かに立ち上がると、スノーがぴたりと動きを止める。
一瞬の沈黙――次の瞬間、サヤが軽く指先で水をはね返す。
「きゃっ!」
スノーは慌てて笑いながら湯に沈み、肩まで隠れるようにして両手を上げる。
「まいったまいった! サヤちゃん怒ると怖いんだから!」
「怒ってない。ただ……落ち着けって言っただけ」
サヤは湯の中で髪をかき上げ、ため息混じりに笑う。
「ふふっ、ほんと仲がいいわね、二人とも」
ハウンが柔らかく笑いながら言うと、スノーがすぐに振り向く。
「ね、ね! このやり取りも宿屋の“常連さんとのノリ”みたいでしょ!」
「どっちかというと、スノーがしつこいお客さん」
サヤが呆れたように言い返すと、
スノーはぷくっと頬をふくらませ――結局、三人とも小さく笑い声をこぼした。
湯上がりの廊下には、ほんのりとした湯気と石鹸の香りが漂っていた。
スノーは髪をタオルで乱暴に拭きながら、勢いよく出てくる。
「はぁ〜っ、いいお湯だったぁ! もう、最高!」
肩までかかった金髪の先から雫が落ち、廊下の灯にきらりと光る。
ハウンは後ろから落ち着いた足取りで出てきて、
「もう少し静かにしなさい。せっかくの余韻が逃げてしまうわ」
と苦笑した。
「えぇ〜? だって気持ちよかったんだもん!」
スノーは腕を伸ばして背筋を鳴らす。
「ここ、いいお湯加減してるよね〜! でも、うちの宿の湯の方がもうちょっとだけ上かな!」
「まだ言ってる……」
サヤは髪をまとめながら、呆れたように吐息をついた。
頬は湯のせいでうっすら赤く、目尻も少し緩んでいる。
スノーがすかさず近寄り、にやりと笑う。
「ねぇサヤちゃん、さっきは途中で逃げたけど〜ほんとは楽しかったでしょ?」
「はぁ?」
「お風呂の中でのあれ! 湯かけバトル!」
「そっちが一方的に騒いでただけ」
「えぇ〜違う違う! ちゃんと応戦してきたじゃん!」
スノーは手をぶんぶん振りながら主張する。
「ほら、“やる気?”って顔してた! あれ、めっちゃ怖かったもん!」
「……そう見えたなら、次は本気でやるわよ」
サヤが片眉を上げて淡々と返すと、スノーは「ひゃっ」と短い声を上げて一歩下がる。
けれど、すぐに笑い出し、「あははっ、サヤちゃん怖〜い!」と腕を広げて大げさに震えてみせた。
「もう……」
サヤは呆れたように息を吐き、タオルを首にかけながら濡れた髪をまとめた。
脱衣場には昼下がりの陽光が差し込み、木の床にあたたかな光が落ちている。
ハウンは湯上がりの頬をうっすら紅くしながら、静かに衣の帯を整えた。
「ほら、そろそろ戻りましょう。」
「えぇ〜、もうちょっとゆっくりしたいな〜」
スノーはタオルで髪を乱暴に拭きながら、のんびりと背伸びをする。
金髪の先から雫がぽたりと床に落ち、陽の光を受けてきらりと光った。
拠点の中庭では、風鈴のような音を立てて木々の葉が揺れていた。
昼の日差しが穏やかに差し込み、さっきまで湯気に包まれていた三人の頬には、まだほんのりとした赤みが残っている。
スノーが先に歩き出し、明るい声で呼びかけた。
「ハルクさーん!」
奥の作業台で地図を広げていたハルクが顔を上げる。
傍らでは、ウィングが腕を組んで何か話しており、ボンゾウも軽く頷いていた。
「お、もう上がったのか。いい湯だったろ?」
ハルクが目を細め、柔らかく笑う。
「はい! すっごく気持ちよかったです!」
スノーが元気いっぱいに答え、ハウンも丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげで疲れが取れました。」
ハルクは三人の様子を見て、ふっと口元を緩めた。
「そうか。それなら良かった。」
彼は地図をたたみ、椅子の背にもたれながら三人を見回す。
その眼差しには、どこか父親のような温かさと、戦士としての厳しさが同居していた。
「これまでずっと気を張っていたんだろう。
寝不足も続いていたようだし……疲れも溜まっているはずだ。」
スノーたちは互いに顔を見合わせる。
確かに、まともに休めたのは久しぶりだった。
ハルクは続ける。
「ここで過ごす時間は、ほんの束の間の休息になるかもしれん。
だが――その間だけは、しっかり体を休めておけ。
それまでは、無理に動く必要はない。」
ウィングがにやりと笑い、ハルクの隣で腕を組んだ。
「お偉いさんの言葉にしては優しいな。けどまぁ、そういうことだ。
今のうちに英気を養っとけ。戦いは、ここで終わりじゃねぇからな。」
「うん、わかってるよ」
スノーが明るく返すが、その声の奥にはどこか緊張が残っていた。
ハルクが立ち去り、扉が静かに閉まる。
その音が拠点の中にこだますると、残った空気がどこか穏やかになった。
続く





