第九十一話 侵食
――その頃、ラグド王国兵士団本部。
石造りの砦の奥深く、重厚な扉の先にある作戦室では、緊張感が張り詰めていた。
分厚い地図が机一面に広げられ、松明の明かりが揺れる中で、鋼の鎧に身を包んだ男が腕を組んで立っている。
兵士団を束ねる男――ギルベルト団長である。
彼の額には深い皺が刻まれ、その眼差しは鋭く、だがどこか疲れの色も帯びていた。
副官が地図に手を置き、低い声で報告する。
「依然として、ワタル達パーティの動向は掴み切れておりません。嘆かわしいことに、民衆の間では“彼らは虐殺の犯人ではない”という噂も広がっております」
ギルベルトの拳が机の端を強く打った。
「……厄介な状況だ。天泣への対処すら追いつかぬ中で、国を揺るがしかねぬ噂が広がるとは」
彼は眉を寄せ、鋭く吐き出すように言葉を重ねる。
「それも、ワタル達が獣人の中でも有力な力を持つパーティだからだ。民衆の支持を集め、もし本当に彼らが王命に逆らう意思を固めれば――ラグドそのものが揺らぐ」
副官の顔が歪む。低く、やや苛立ちを含んだ声で続けた。
「……あわよくば、あの獣人どもと天泣を利用して互いに潰し合わせる――というのが当初の狙いでした。戦いの渦中で力を示し、民衆の支持を取り戻す。兵団の役割はそのうえで調整するつもりだったのです」
別の若い参謀が顎を擦りながら冷ややかに付け加える。
「しかし、あいつらが民衆に受け入れられてしまっては話が違う。天泣を“討った”ふりをして民心を掴み、兵団を不要だと印象づける――そんな筋書きまで見え隠れします。奴ら、思ったより手強い」
ギルベルトは重々しく息を吐き、地図を指で押さえたまま言葉を絞り出す。
「つまり――あの計画は誤算だった、ということか。獣人どもを泳がせておけば都合よく事が運ぶと踏んだが、奴らは我々の掌の上で踊るほど貧弱ではなかった。見立てが甘かったな」
副官の声がさらに低く、含みを持って落ちる。
「……正直に言えば、やはり獣人は信用なりません。よもや…人の心を操る術があるとすら…。国家の情勢がこうも不安定な今、あの種族が…!あの種族が民衆の支持を得るのは由々しき事態です」
さらに副官が言いづらそうに言葉を続ける。
「……それに。例の計画を提案したアルト=アルバイン殿が、あの暴動以降、姿を見せておりません」
参謀の一人が顔をしかめた。
「アルト殿は優秀ですが……時折ふっと姿を消すことがあったのも事実。だが、この局面でいなくなるとは」
ギルベルトの眼差しはますます険しくなり、机上の地図に深く視線を落とす。
「……不穏だな。いずれにせよ、ワタル達も天泣も野放しにはできん。兵団の威信を取り戻す!そして…!」
重苦しい空気の中、ギルベルトの拳が机に置かれた地図を鳴らした直後だった。
パチン――。
唐突に響いた拍手が、石造りの室内に乾いた音を残す。
「……誰だ?」
副官が眉をひそめて扉の方を振り返る。
ゆっくりと開いた扉の隙間から、余裕をまとった人影が姿を現した。
長い外套を揺らしながら、口元には笑み。現れたのは――行方不明とされていたアルト=アルバインである。
「実に力強いお言葉。恐悦至極…」
アルトは軽く頭を下げると、悠然と部屋の中央へ進み出た。その態度には謝罪の色もなく、むしろ挑発めいた余裕が漂っている。
ギルベルトの眼差しが鋭く光る。
「アルト……貴様、この非常時に姿をくらまし、何をしていた?」
副官が声を荒げる。
「暴動の直後から行方知れずとは何事です! 説明していただきたい!」
アルトは軽く両手を広げ、あくまで余裕を崩さずに答えた。
「ご安心を。私がただ目的もなく失踪するわけがございません。むしろ――この混迷を打開するために必要な“材料”を集めていたのです」
彼はゆっくりと机に歩み寄り、地図の上へと視線を落とす。
「ワタル達の動向は、着々と掴みつつあります。あの獣人の一団は確かに力を増している……。同時に、天泣もまた幹部を次々と失ったことで、近いうちに大規模な動きを見せるでしょう。もはや――嵐の前の静けさにございます」
参謀の一人が眉をひそめる。
「……それが何だと? 貴様はただ不安を煽りに来たのか」
アルトは笑みを深め、声を低める。
「もちろん、ただ煽るためではありません。私は“秘策”を携えて戻ったのです」
アルトは懐から小瓶を取り出し、机の上に置いた。瓶の中には濃い紅色に光る液体が揺れている。
「ご覧ください。これは、かつて天泣の幹部ホリックが作り出していた“力を増強する薬”……その改良版にございます。私がこの失踪中に強化を進め、より安定的かつ強力な効果を得られる段階に仕上げました」
部屋の空気がざわめく。副官が思わず一歩下がり、若い参謀も目を見開いた。
「……馬鹿な。そんな禁忌に手を出したというのか」
だが、そこでアルトはにやりと笑った。
「禁忌……ですか。では、なぜ“あの時”回収した薬を、未だに兵団が保管しているのです?」
ギルベルトの表情が一瞬だけ揺らいだ。
副官が驚いたように顔を上げる。
「……団長、それは……」
アルトは続ける。声はあくまで丁寧だが、挑発の色を隠さなかった。
「ワタル達がホリックを討った後、兵団の者が薬を回収しましたね。もし本当に不要なものなら、とっくに破棄しているはず。それをしていないのは……つまり、あなた方もまた“使い道がある”と考えたからでしょう?」
ギルベルトの拳が机を強く叩いた。
「……黙れ!」
しかしその声には怒りと同時に、図星を突かれた焦りが滲んでいた。
アルトはその様子を見て、さらに一歩踏み込む。
「違いますか? 私はそれを“より洗練させた”。不安定さを減らし、兵の力を増す確かな武器に仕上げたのです。団長、今ここで私を咎めることは容易でしょう。ですが――貴方も私も、この国を守るために必要な力を求めているはずです」
アルトは余裕の笑みを浮かべたまま、扉の外に合図を送った。
鎧姿の若い兵士が一人、恐る恐る入室してくる。その顔には不安と緊張が混じり、目は落ち着きを失っていた。
「……まさか、お前」
ギルベルトの表情が険しくなる。
アルトはあくまで丁寧な口調で告げる。
「団長、ご安心を。彼は志願兵です。祖国のために役立てるのならばと――ね」
そう言って懐から小瓶を取り出し、中の赤黒い液体を兵士に手渡す。兵士は震える手で瓶を受け取り、深く息を吸い込むと一気に飲み干した。
――沈黙。
最初の数分は何の変化もなかった。だがやがて、兵士の体が痙攣し、呻き声を漏らし始める。
「……っ、ぐあああああ!」
筋肉が異様な速度で膨れ上がり、鎧が悲鳴を上げるように軋む。血走った目は獣そのものの光を宿し、歯茎からは鋭い牙が生え、指先は黒ずんで爪のように伸びていった。
「……やめろ!」
副官が声を張るより早く、兵士は突如暴れ出した。
机が砕け、壁にかけられた地図が引き裂かれる。驚いた参謀の一人が退避する間もなく、兵士の振るった爪が肩口を裂き、血が床に飛び散った。
「ぎゃあああっ!」
室内は阿鼻叫喚と化した。参謀の二人が瞬く間に血に沈み、残る者も必死で距離を取る。
ギルベルトはすぐに剣を抜き、叫んだ。
「やめろ! 貴様、正気を保て!」
鍛え上げた剣筋で兵士の動きを封じ、背後から押さえ込む。しかしその瞬間、兵士の体が再び痙攣し始めた。
「……っ、ぐ……あ……!」
口から血を吐き、体が痙攣する。猛獣のごとき咆哮は次第に弱まり、やがて兵士の四肢が力なく垂れ下がった。
ギルベルトの腕の中で、彼はそのまま冷たくなっていった。
剣を手放したギルベルトは、血まみれの兵士を静かに床に横たえる。
「……これが、お前の言う“秘策”か」
室内には破壊された机や壁、血の匂い、そして呆然と立ち尽くす兵士たちだけが残された。
アルトはその惨状を目にしてなお、口元に薄笑いを浮かべていた。
ギルベルトの眼差しが、烈火のごとき怒りを帯びる。
「未来……だと?」
彼は剣を床に突き立てるように置き、鋭く吐き捨てた。
「目を覚ませ、アルト! これは力ではない。暴虐と死だ。兵士を、民を、獣に変えて何が国を護るだ!」
副官も声を震わせながら同調する。
「団長のお言葉の通りです……! こんな非道、我ら兵士団が許してしまえば、天泣と同じこと!」
実演が終わり、血の匂いが立ちこめる室内。
変貌した兵士は暴れた末に血を吐き、力尽きて倒れ伏していた。参謀の一人は犠牲となり、他の者たちは恐怖と衝撃に顔を引きつらせている。
そんな中、アルト=アルバインは涼しい顔のまま、深々と一礼をして口を開いた。
「……ご覧いただけましたでしょうか。団長。これが、我らが手中に収めた“新たな力”でございます」
ギルベルトは目を見開き、怒りに声を震わせた。
「貴様……兵士を、同胞を実験台にして……! これは人道にもとる禁忌だ!」
だがアルトは眉ひとつ動かさず、むしろ諭すように続ける。
「人道、でございますか。団長……その言葉は果たして、この国を覆う獣の群れに通じましょうか?」
しかしアルトは冷静そのものだった。
「……団長。天泣がもたらす危機は、あの内戦にも匹敵いたしましょう。否――それ以上かもしれません。彼らは国を覆い、秩序を呑み込み、ラグドを焼き尽くすでしょう」
静かに言葉を区切り、アルトはギルベルトへと視線を定める。
「だからこそ――団長ほどの御方にこそ、これを託すべきなのです」
「なに……?」
「ご安心を。先ほどの下っ端が理性を失ったのは、器が足りぬゆえ。ですが、団長ほどの力をお持ちであれば違う。理性を保ったまま、獣人を凌駕する力をその身に宿すことができましょう」
ギルベルトの顔に、憎悪が浮かぶ。
獣人――天泣の主力、そして今も国を騒がせるワタル達のパーティ。
彼の胸の奥には、もとより獣人への嫌悪が燻っていた。アルトの言葉は、その炎を巧妙に煽る。
「……獣人を超える力、だと……」
アルトは一歩進み、丁寧に一礼した。
「はい。団長がその御身をもって体現なされば、獣人どもは震え上がり、天泣もひれ伏しましょう。これぞ国を救う道でございます」
だが最後に、まるで含みを持たせるように微笑んだ。
「今日のところはここまでと致しましょう。ただ一つ、確信を得ております。――ワタル達、あの獣人のパーティ。彼らは近隣国に潜伏していることは、まず間違いございますまい」





