第九十話 いってらっしゃい
修道院の中庭。夜明けから数えて半日が過ぎ、太陽は真上を越え始めていた。
門の外には静かな風が吹き、時折遠くで兵士たちの足音がかすかに響く。緊張感はまだ街全体を覆っていた。
「……来るかな」
スノーが不安げに呟くと、ファングは短く首を振った。
「来るだろう。あの目は嘘をついてなかった」
その時だった。修道院の外の石畳に、重い靴音が三つ重なった。
扉を開けて現れたのは、昨日屋根の上で出会った三人――ウィング、ボンゾウ、そしてハルク。
中庭の空気が一気に張り詰める。
修道士たちも思わず手を止め、ワタルたちの背後に視線を向けていた。
ウィングは軽く手を挙げ、にやりと笑う。
「やあ。約束通り、来たよ。さっきの子たち、ちゃんと無事に帰れたみたいだね」
「……」
ファングは黙ったまま剣の柄に手を置いた。
その仕草に気づきながらも、ハルクは一歩前に出る。
ハルクの声は低く、しかし剣を抜くような鋭さを帯びていた。
「俺たちが来たのは一つだけ――お前達…あのラグドでの一件…現場にはいたんだな?」
修道院の中庭がしんと静まり返る。
修道士たちの視線が揺れ、スノーは無意識に息を呑む。ファングの手は剣の柄に置かれたまま、わずかに力を強めた。
ワタルは一歩前に出て、まっすぐにハルクを見返す。
「……はい。そのことなら俺たちは――」
「やっていないんだね」
ウィングが軽く片眉を上げ、まるで冗談を言うような調子で口を挟んだ。だがその声音には、真剣な響きが混じっていた。
中庭の空気がさらに重くなる。
修道士たちの間にざわめきが走り、スノーは不安そうにワタルの背を見つめた。
ワタルは短く息を吸い、はっきりと答える。
「――はい。俺たちはやっていません。あの惨劇の首謀者ではない。むしろ……巻き込まれ、必死に抗って、ただ人を守ろうとしただけです」
言葉は決して飾られてはいなかった。ただの真実を吐き出したにすぎない。
だがその真っ直ぐな響きに、ハルクの目がわずかに細められる。
「被害者の傷口からしても…あれは天泣のものの仕業とみて間違いないだろう…ラグドの兵士団にも呆れたものだ…もはや天泣に屈したと言っても過言じゃない」
ボンゾウが低く唸るように言葉を挟む。
「そんなことをしていれば――結局は天泣の思う壺。奴らは国家転覆まで狙っている。人々を騙し、兵士団を操り、罪をなすりつける……全部、仕組まれてる」
ワタルは言葉を失ったままハルクを見つめた。
その視線を受けて、ハルクはわずかに目を伏せ、深く息を吐く。
「……俺は何度も耳にした。これまで君たちが街で人を救い、子どもを守り、必死に抗っていた姿を。」
ハルクはゆっくりと膝を折り、重い体を低く沈める。
「だから、信じたい。お前たちが孤独に戦っているわけじゃないと伝えたい。……そして」
彼は大きな手で拳を握り、額を地に近づけた。
「危機に瀕しているラグドを、俺は見捨てたくない。国を覆う闇は天泣のせいだ。だが……このままじゃ国も民も呑まれる。どうか、俺たちと協力してくれないか」
ハルクの言葉を受け、ワタルたちの胸に張り詰めていた緊張がようやくほどけていく。
ファングは目を伏せ、深く息を吐いた。スノーはほっと肩を落とし、サヤも安堵の色を浮かべる。
――自分たちを捕らえにきたのではなく、力を貸してほしいと頭を下げた。その事実だけで、胸を覆っていた不安は大きく揺らいでいた。
ハルクは静かに続けた。
「……だが安心はできん。天泣はそう遠くないうちに、ここラグド……いや、フラハイトの街そのものを襲撃するだろう。あいつらが一度牙を剥けば、兵士団じゃ抑えきれない」
ボンゾウが腕を組んだまま低く唸る。
「街を騒乱に巻き込み、人々を疑心暗鬼にさせるのが奴らの常套手段だ。ここに留まれば、またお前たちが標的にされかねん」
ウィングは肩をすくめ、にやりと笑う。
「だからね、おいらたちの拠点に匿うのが一番だ。おいらたちみたいな一流パーティにとって、部屋の一つや二つ用意するのは造作もないことさ。安心してくれ」
自信に満ちた口ぶりは軽妙でそう言う。
「あまり自慢するものじゃないぞ…。まあ…要するに国への襲撃に対して備えられるようにということだ。戦いの最前線になりうるが、今後の生活の保障も約束しよう。」
スノーは真っ先に口を開いた。
「……生活の保障まで約束してくれるなんて……正直、少し安心した。でも……」
その瞳は不安を隠せず、ワタルをじっと見つめる。
ファングは腕を組み直し、険しい顔のまま黙っていた。
「……生活がどうこうじゃねぇ。問題は“最前線”になるってことだ」
低く呟くと、ワタル達の方へ向き直った。
「俺は、ただ逃げ隠れして生き延びたいわけじゃない。戦うなら戦うで腹を括るが……お前達の力なくしてはと思っている。考えを聞かせてくれ。」
ハウンが口を開いた。
「……備えがある場所に移るのは理にかなってるわ。けれど、それは“戦いの最前線”になるということ。私は……また回復魔法で人を癒し続けることになるでしょう」
落ち着いた声だったが、その奥には決意の色が滲んでいた。
サヤも一歩踏み出し、小さな拳を握りしめる。
「……私も行く。怖いけど……砂の魔法だって、仲間の役に立てるはずだから」
その言葉には強い意志があった。
スノーは仲間の顔を順に見てから、深く息を吸う。
「……わたしたち、ずっと逃げてばかりで……心のどこかで帰る場所を失った気がしてた。でも――守るために進むなら、それは“生き延びる”んじゃなくて、“生きる”ことになるのかもしれない」
ファングは短く鼻を鳴らし、腕を解いた。
「……そうか。なら腹を括るしかねぇな。俺は、ここにいる全員を守る。それが俺の答えだ」
仲間たちの決意を受けて、ワタルは静かに前へ出た。
その瞳には、迷いを乗り越えた光が宿っている。
「みんなの気持ちは、よくわかった。俺たちは……逃げるだけじゃなく、立ち向かうために動くべきなんだと思う…」
ワタルはハルクたちに向かって、真っ直ぐに言葉を投げた。
「……俺たちも協力します。だけど一つだけ――“ただ戦わされる”んじゃなく、“共に戦う”仲間として受け入れてください」
神父は一連のやり取りを黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「……みなさん。あなたたちが外で戦おうという決意は尊い。だが、子どもたちまで危険にさらすわけにはいかない」
その声音は穏やかだったが、揺るぎないものを帯びていた。
「修道院は、彼らにとって最後の安らぎであり、守るべき場所です。ここなら、私たち修道士も共に命をかけて守り抜くことができる。どうか……この子たちだけは置いていってほしいのです。、」
カナタは目を見開き、思わず声を上げた。
「でも……!」
ツツミも唇を噛みしめ、ビワは悔しそうに拳を握った。
だが神父は彼らを優しく見つめ、首を振る。
「戦うことだけが強さではない。守られて、未来を繋ぐこともまた強さなんだ」
ワタルは神父の言葉を聞き、静かにうなずいた。
「……わかりました。カナタたちは、ここに」
スノーも柔らかな声で言葉を添える。
「あなたたちがここで待っていてくれるからこそ、わたしたちは外で戦えるんだよ」
その言葉に、カナタの目が潤む。だがやがて、彼女は小さくうなずいた。
「……うん。じゃあ……ちゃんと帰ってきてね」
ツツミも負けじと声を張る。
「絶対だからな! オレたち、待ってるから!」
ビワも一歩前に出て、必死に言葉を絞り出した。
「……嘘ついたら許さないから」
三人の言葉は幼さを残していたが、その響きは胸に強く刻まれた。
ハルクたちもそれを見て、互いに視線を交わし、静かにうなずく。
こうして――ワタルたちは戦いへ。カナタたちは修道院で祈りながら待つことを選び、役割を分け合うこととなった。
ハルクは立ち上がり、仲間たちを見やった。
「……今夜、動く。街が眠り、警戒が緩む深夜を狙うんだ」
ボンゾウが太い腕を組み直し、低く笑う。
「荷車は手配済みだ。でかい荷台だ……お前ら全員、余裕で隠れられる」
「その荷車を引くのはもちろんこのオラだ。重かろうが狭かろうが、ボンゾウに任せとけ」
豪快に言い放つ彼に、スノーが少しだけ口元を緩めた。
「怪力の人がいてくれて助かるわね」
ウィングは翼を軽く広げながら、ひやりと笑う。
「顔の知れた俺たちが一緒にいるからね。検問に引っかかっても、“有名な冒険者が輸送の護衛だ”って言えば案外すんなり通してもらえるさ。……ラグドとシジュウ共和国は友好国だし、変に怪しまれることはないだろう」
ハルクもうなずき、重々しく言葉を継ぐ。
「だから心配はいらない。俺たちが先頭に立ち、お前たちを守って国境まで運ぶ。……これ以上、無意味に追われる必要はない」
その言葉に、修道士たちも安堵の息をついた。
サヤは小さく手を握りしめ、仲間に視線を送る。
「……よかった。本当に、出られるんだね」
ファングは黙ったまま、ただワタルを見やる。
ワタルもまた頷き返し、仲間たちへと静かに言った。
「……わかった。今夜、俺たちは動こう」
こうして――大きな荷車に匿われ、深夜の闇に紛れて修道院を出発する計画が固められた。
街に広がる疑いの目から逃れ、そして天泣の影に抗うために。
修道院の中は静まり返っていた。
外の月明かりが石壁を照らし、淡い光が廊下をぼんやりと染めている。
ツツミとビワは、用意された寝台の上でぐっすりと眠りについていた。小さな寝息が響き、安らぎの時間が流れている。
――だが、カナタだけは布団の中で目を閉じながら、眠ったふりをしていた。
(……本当に、行っちゃうんだね)
胸の奥で小さく呟き、やがてそっと身を起こす。窓際に歩み寄り、ひんやりとした硝子窓に手を添えた。
修道院の裏口では、ハルクたちが用意した大きな荷車がひっそりと待機していた。
荷台の上に布を重ね、その下にワタルたちが身を潜める。
ボンゾウが静かに綱を握り、怪力で重い荷車を動かすと、軋む音が闇に紛れて消えていく。
「……よし、行こう」
低く短い声でハルクが告げ、ウィングは軽く翼を広げて後方の気配を探る。
その様子を、カナタは窓からずっと見つめていた。
胸の奥がちくりと痛む。
ワタルの背中、ファングの力強い影、スノーやサヤの姿――その全てが布に隠されていくのを、瞬きもせずに追い続けた。
「……どうか、無事で」
小さく呟き、指先で胸元のお守りをぎゅっと握りしめる。
やがて荷車は修道院の門を抜け、街の暗がりの中へと消えていった。
見えなくなるまで、カナタは窓辺に立ち尽くしていた。
その瞳は、仲間を信じようとする光と、不安を隠せない揺らぎを同時に湛えていた。





