第八十九話 邂逅
路地裏をすり抜けながら、カナタは薄暗い倉庫跡の前で足を止めた。
「――ここ、だったよね」
小声でつぶやいたその瞬間、扉の奥から控えめな足音が響いた。
「カナタ!」
先に姿を現したのは、小柄な少年――ツツミだった。
そのすぐ後ろから、丸い耳を揺らしながら、ビワも顔を出す。
「よかった、無事だった!」
カナタは息をつきながら、二人の顔を見回した。
「うん、バレてない。サヤさんたちにちゃんと伝えてきたよ」
ツツミが少し誇らしげに言うと、ビワもコクリと頷いた。
「よかった……二人とも、ありがとう。わたしも準備できた。行こっか」
そう言って、三人は目配せを交わす。
この短い時間で、互いに無事であることを確認し、共に動くための意思がひとつに固まっていた。
大人はいない。けれど、それぞれの役割を果たすために、誰よりも真剣な顔だった。
「じゃあ、まず南側の広場。あそこから煙が上がってたって、修道士さんが言ってた」
「うん。広場に近づきすぎないで、外から様子を見よう。あと――逃げ道は確保しながら」
「ビワ、裏道のルート、覚えてる?」
「もちろん。もし追われても、三つは逃げ道ある」
ビワの心強い返答に、ツツミがにっと笑う。
「よーし、じゃあ行こう。こそこそチーム出動だ!」
「しっ……声、でかいって」
とカナタが苦笑しながらも、三人は石畳の道を静かに駆け出した。
まだ幼さを残す体だが、その身に備わる獣人としての本能と身体能力は侮れない。
特に、脚の速さと跳躍力――それは人間の兵士では追いつけないほど。
狭い路地をすり抜け、高い壁を乗り越える力が、彼らにはある。
けれどそれでも、彼らは慎重だった。
ただの無謀な突撃ではない。
ワタルたちに託された「信頼」と、「帰ってくる」という約束を守るための行動だった。
南側の通りへと出る寸前、三人は塀の影に身を潜めた。遠くから、かすかに怒鳴り声と何かが砕けるような音が風に乗って届く。
「……あれ、やっぱり何か起きてる」
カナタが眉をひそめた。
「うん。あの音……兵士の靴音も混じってる気がする」
ツツミは耳を澄ませながら、小声でそう返す。
「見てくる」
ビワが短く言って、壁をすばやく登り、屋根の上に出る。ほとんど音を立てずに、彼は身を低くしたまま南の広場を見下ろした。
ビワは屋根の上で身を伏せ、南の広場の様子を食い入るように見つめていた。
その前には、数人の市民が地面にひざをついている。
彼らを囲むように、黒いマントの人物がひとり、剣を抜いたまま威圧的に歩き回っていた。
(あれは……)
ビワは目を細める。その男は低く怒鳴っていた。
(ラグドの兵士団…なのかな…きっとそうだ…国のマークをつけてる)
ビワは、男の肩に刻まれた紋章を見て確信した。
それは確かにラグド王国のもの。だが、どこか異様な威圧感があった。
(あれ、本当に兵士……? 普通じゃない……)
ビワが眉をひそめ、緊張を強めたそのときだった。
「なーにをしてるんだい。そこのお坊ちゃんよ」
背後から、涼しげで乾いた声が聞こえた。
ゾワリと背筋を這うような気配とともに、ふわりと風が舞った。
音もなく、背後の屋根に降り立ったのは、大きな翼を持つ男だった。
(まずい…まずい…アイツらの仲間!?)
ビワは息を詰めたまま、そっと振り返る。
そこには、黒衣をまとい、大きな漆黒の翼を背負った男が、まるで最初からそこにいたかのような自然さで立っていた。
「驚いたかい? こんな時間に、こんな場所で、子どもが一人屋根の上ってのは珍しいからねぇ」
男は口元だけで笑った。
その声は静かだが、どこか底知れぬ響きを持っていた。
明らかに敵か味方かもわからない存在――それが、獣人の本能としてビワには伝わってきた。
(逃げる……? でも、下にはカナタたちが……)
ビワの頭の中で、瞬時に逃走ルートがいくつも浮かぶ。
だが、そのどれもがこの男に通じるとは思えなかった。
なにより――下にいるカナタたちを巻き込むことになる。
(……どうすれば)
緊張に肩を強張らせるビワに対し、男はふっと肩をすくめた。
「おっと、安心してくれ。別に君を捕まえるつもりも、傷つけるつもりもないさ」
男はそう言って、自らその翼を軽く広げてみせる。
漆黒の羽根が夜風に揺れ、その姿はまるで闇に溶けるようだった。
「……おれに、何の用」
ビワは低く問いかけた。すぐに飛び出せるように体勢を崩さず、目を逸らさない。
男はその様子に、少しだけ口元を緩めた。
「ウィング――これがおいらの名前さ。……見ての通り…獣人さ。」
ビワの警戒する様子に気づきながらも、男は穏やかに言葉を続けた。
「最近、どこかで――獣人の子どもたちを助け出した連中がいるって話を聞いてね。勇気ある奴らだって、ちょっと感動したよ。是非とも感謝を伝えたいってわけなんだけど…」
目の前の男の素性がわからない以上、簡単に肯定するべきではない。
ビワは無表情を貫いたまま、低く答える。
「……知らないな。そんな話、聞いたこともない」
目を細め、警戒を緩めないまま、静かに言葉を返した。
「最近ね、どっかの誰かが獣人の子どもたちを助けたって話を聞いたんだ。カッコいいじゃん、そういうの。だからちょっと、直接ありがとう言いたくてさ。……もしかして、心当たり、ない?」
ビワはすぐに返事をしなかった。目の前の男の本心も、目的もわからない。
―軽々しく答えるわけにはいかない。
「……知らない。そんなの、聞いたことないし」
つと目を細めて、淡々と返す。
しかし――思わず、ほんの一瞬だけ視線を修道院の方へ向けてしまった。
「……ん?」
その仕草を、ウィングは見逃さなかった。怪訝そうに片眉を上げ、視線の先を追おうとする。
「いや、べ、べつに! 何でもないからっ!」
ビワは慌てて首を振り、誤魔化すように声を上げた。
「ふぅん……?」
ウィングの視線が鋭くなる。だが、すぐにまた緩んだ笑みに戻る。
「まぁいいさ。オレ、しつこいのキライだし」
「そ、そんなことより この辺りで暴動があったって聞いたんだけど…気になって!」とビワは言葉を絞り出すように続けた。
声が裏返りそうになるのを堪えながら、必死に話題を逸らす…
「ああ…彼らも目的は同じさ。先を越されるとマズいんだよね…相当の懸賞金も…手がかりをくれる人がいればもちろんオイラは取り分を渡すつもりさ…」
(お金のためにワタルたちを捕まえるって…やっぱり悪いやつだ…どうする…)
「おい…喋りすぎだ…ウィング…」
低い声と共に、**トンッ、トンッ――**と乾いた音が響く。
音の主は、建物と建物の狭い隙間を、壁を蹴りながら駆け上がってくる人影だった。
夕暮れの光の中、黒いコートの裾が翻り、屋根の上にひょいと身を躍らせると、
無駄のない動きでウィングの隣へと降り立つ。
「おっと……ボンゾウ…怖いなぁ、急に出てこないでよ」
ウィングは片手を上げて苦笑するが、その目は冴えたまま。
一方で、ビワは反射的に身をすくめ、唾を飲み込んだ。
(誰……? この人も……)
新たな登場人物の目は鋭く、感情の読めない顔つきでビワを見下ろしている。
その風貌は、明らかにただの「街のならず者」とは異なっていた。
(大人の獣人が2人…逃げ出そうにも無理だ…ツツミ…カナタ…助けて…)
ビワはゆっくりと体を引きながら、屋根の縁に向かって視線を送った。まるで風にまぎれるようなさりげなさで――だが、明確な「助けて」のサインだった。
その視線の先、通りを挟んだ別の建物の影に、二つの小さな影が身を潜めている。ツツミとカナタ。ふたりは暴動の様子を窺っていたが、ビワの異変にすぐさま気づいた。
ツツミは、ビワのわずかな目の動きと顔の強張りだけで、状況が尋常でないことを察する。
(囲まれてる……上に、しかも二人……!)
隣のカナタも、息をひそめて小さく呟いた。
「まずいよ、ビワの近くに……もう一人、来てる」
***
「おっと、もしかして警戒してる?」
目の前のウィングとボンゾウ――どちらも尋常ではない雰囲気を放ち、その視線はビワの心臓を鷲掴みにするように鋭い。
「……屋根の上で誰かに出くわすなんて思わないじゃん…普通」
声が震えそうになるのを必死で抑えて答えたが、その言葉に意味がないことは明白だった。
「それはお互い様じゃないかなぁ」
ウィングがにこやかに微笑みながら、しかし次の瞬間には冷たい光を宿した瞳でビワを見据える。
「修道院をちらっと見たよね? あのあたりに潜んでいるんでしょ?」
「だから……知らないって!」
ビワは否定しながらも、背筋を刺すような悪寒が止まらない。
その隣で、無言だったボンゾウが口を開いた。低く、重い声が夜気を震わせる。
「……もう隠す必要はないだろう。兵士団から聞いた話と一致する。三人の子供の獣人――ここで間違いない」
その視線はビワだけでなく、少し離れた屋根の陰にも向けられていた。
はっとして息を呑むカナタとツツミ。
二人は人目を避けて屋根を伝い、こっそりとビワを追ってきただけのつもりだった。しかし、ボンゾウの一言で、自分たちの存在までもが暴かれてしまったことを悟る。
「……見られてた」
ツツミの声が小さく震えた。
カナタは歯を噛みしめ、拳を固める。
「街に出なければよかった……」
胸の奥を冷たい後悔が締めつける。
彼らの幼い心に、ウィングとボンゾウの視線は重くのしかかり、ただそこにいるだけで息苦しい圧迫感を与えていた。
ビワが震える手をぎゅっと握り締め、飛び出す覚悟を固めたその瞬間、ボンゾウの低い声が夜気を割った。
「待て。勘違いするな」
その声音に、三人は思わず動きを止める。
「俺がワタルたちを探しているのは――ラグドでの惨劇の首謀者として捕らえるためじゃねぇ。あいつらを保護したいと思ってるんだ」
屋根の上の空気が、ほんのわずかに揺らぐ。
ツツミは目を丸くし、思わず漏らした。
「……よかった、悪い人じゃないんだ」
安堵がその声に滲んでいる。
だがカナタは眉をひそめたまま、心の中で疑念を拭いきれずにいた。
(……本当に? 兵士団から情報を得てるって言ってた。もしそれが全部罠だったら――)
そんな二人の心情を見透かしたかのように、ウィングが口を開く。
「心配しなくてもいいよ。僕はワタルくんに、美味い酒を飲ませてもらった恩があるんだ」
にこやかな笑みと共に、どこか懐かしむように目を細める。
「その時に思ったんだ。――あの子は人を裏切る奴じゃないってね…」
ウィングは柔らかく笑んでいたが、その瞳の奥は油断ならない光を宿している。
「それに…そこのお嬢ちゃん」
彼はカナタの方へと軽く顎をしゃくった。
「そういやワタルくんが探してるって言ってた子供の特徴そのものだ。なぁ、ハルクさん」
「……!」
カナタの心臓が跳ねた。
(私のことだ……! ワタルくんが、私を……探してくれていた……?)
胸の奥が熱く揺れる。しかし次の瞬間、別の疑問がカナタの脳裏をよぎった。
――ウィングとボンゾウが、いや「ハルク」と呼ばれたその人物が、声をかけた方向。
そこには、誰もいないはずだった。
「……え?」
カナタがわずかに首を傾げた、その瞬間。
ドスンッ!
空気を切り裂くような重い着地音が響き、何もなかったはずの屋根の一角に、影が舞い降りた。
瓦が軋み、砂埃が宙に舞う。
まるで山賊のような風貌をした男がそこに立っていた。
肩に背負った大剣は、屋根瓦を一撃で砕きかねないほどの質量を放っている。
「……紹介が遅れたね。彼がハルクさん。そして俺たち3人はラグドでトップのパーティってわけさ」
ウィングは肩をすくめるように笑い、
その視線がカナタへ向く。
「ハルクさん」と呼ばれた男は、巨大な剣を肩に担いだまま静かにこちらを見つめていた。その体躯と存在感からは、戦いに慣れきった風格がにじみ出ている。
だが一方で、その目の奥にある光は鋭さの中に温もりを宿していた。
静寂を割るように、ハルクが口を開く。
「安心しな。俺はお前らに刃を向けるつもりはない」
低く響く声が、夜の屋根の上に落ちる。
「ワタルたちのことを聞いている。あいつらは――もう俺たちの手の届かないところに行っちまった。天泣と戦い、何度も人を救った。……とても俺らなんかが軽々しく測れる存在じゃない」
彼はわずかに口元を歪め、苦笑にも似た表情を浮かべる。
「正直に言うならな。もはや俺たちより、はるかに上に立ってるかもしれん。だからこそ……今度は俺たちが支えねぇと、って思ってるんだ」
その声音には驕りも虚勢もなく、ただ真摯な想いが滲んでいた。
ツツミは息を呑み、目を見開く。
「……ほんとに、ワタルくんを……」
胸に広がる安堵と尊敬の色が隠せない。
だがカナタは、まだ胸の奥に小さな棘を残したままだった。
(……本当に信じていいの? それとも、私たちを安心させるための言葉……?)
カナタは深く息を吸い、ぎゅっと手を握る。
「……わかりました。だったら……半日だけ、時間をください」
その声は震えていたが、芯のある響きを帯びていた。
「もしも、私たちに何かあったら――」
そう言ってカナタは胸元から、小さな革紐で下げられたお守りを取り出した。
それは透き通るような石を埋め込んだ簡素な装飾品だが、淡く光を宿している。
「これは……」とウィングが目を細める。
カナタは小さくうなずき、指先でお守りを握りしめた。
「危ない時、光って仲間に知らせてくれるんです。」
短い言葉だった。けれどそこには、子どもらしい恐れと同時に、確かな強さも宿っていた。
静かな屋根の上で、ウィングはふっと吹き出した。
「はは……なるほど。いいねぇ、その肝の据わり方。まるで小さな冒険者じゃないか」
ハルクもまた目を細め、静かにうなずいた。
「……わかった…半日後にあの修道院へだな。ワタル達に話して信じてもらえないならば…俺たちだけで動くしかない…彼らへの疑いを晴らすためにもな…」
瓦の上に重くのしかかっていた緊張が、ふと和らいだ。
ハルクが肩越しに南の通りを見やり、低く呟く。
「……まずはお前らを安全に返すことだな」
ウィングも頷き、片手をひらひらと振る。
「暴れん坊どもを刺激しないようにね。波風は立てない方がいい」
その言葉通り、彼らは子どもたちを直接導くのではなく、あえて通りの暴徒の目を逸らすように動いた。
ボンゾウが屋根から静かに飛び降り、通りの端を歩きながらわざと重い足音を響かせる。
「……何だ? あっちに誰かいるぞ!」
暴徒の一部がそちらに注意を向け、ざわめきが広がる。
すかさずウィングが、風を操るように漆黒の翼を広げて舞い上がった。羽ばたきと共に舞い散る砂埃が視界を遮り、群衆の視線はさらに乱される。
「ほらほら、こっちだよ」
挑発するでもなく、ただ気を逸らすような軽い口調だった。
その隙に、ハルクが子どもたちへと視線を向ける。
「……今だ。裏道を使え。北に抜ければ修道院へ戻れる」
その声は威圧ではなく、落ち着いた導きだった。
ツツミは素早くカナタの手を引く。
「カナタ、行こう!」
「……うん!」
ビワも遅れて頷き、三人は影のように走り出した。
背後で瓦が軋む音がしても、暴徒が怒鳴る声が聞こえても――振り返らなかった。
彼らが見た最後の光景は、屋根の上に立つハルクの巨大な影と、舞い散る羽根を纏ったウィングの姿。
敵ではない、と言葉で語るよりも、子どもたちに逃げ道を与えたその行動こそが、信頼の証のように思えた。
三人は裏道を駆け抜け、街をすり抜けて修道院の門へたどり着いた。
汗で額を濡らしながらも、誰一人欠けることなく戻ってこられたことに安堵の息を漏らす。
「カナタ! ツツミ! ビワ!」
先に気づいたサヤが駆け寄り、三人を抱きとめるように迎えた。
その声に気づいたワタルとファングも振り返る。
「無事か!」
ファングが険しい顔で問いかけ、ワタルもすぐそばに歩み寄る。
カナタは肩で息をしながらも、しっかりと頷いた。
「……うん。無事。でも――聞いてほしいことがあるの」
ワタルは黙って頷き、三人を食堂の一角へ促す。
そこで、カナタが代表して報告を始めた。
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「その三人なら…。命を助けてもらったこともあるから。」とワタル。
ファングは黙ったまま腕を組み、しばらく考え込んでいたが、やがて低く言った。
「……そうか。なら、半日後――会って確かめるしかねぇな…しかしだ。俺たちに味方するってことはもはやラグド王国や天泣を敵に回す…生半可な覚悟じゃ出来ないことだ。」
「私たちの疑いを晴らすためにうまくラグド王国に話してもらえたりしないかな。すごく有名で信頼されてるパーティだし。」とスノーは真剣な眼差しで口を開いた。
希望を込めた声。だが、ファングは腕を組んだまま低く唸った。
「……そううまく行けば良いんだがな」
彼の目は鋭く光る。
「ラグドが“国を挙げて俺たちを捕らえようとしてる”なら、それに逆らうことは、あの人達にとっても国への反逆になる。……パーティの名声がどれほどあっても、それをしてみせるのは簡単じゃねぇ」
その言葉に、場に漂っていた迷いが少しずつ決意へと変わっていった。
ワタルは強く頷き、拳を握りしめる。
「……ああ。ハルクさんたちに協力を得るにせよ、戦うにせよ……俺たち自身が揺らがないようにしないと」
ファングは組んでいた腕を解き、静かに息を吐いた。
「だったらすぐに動こう。半日なんて、あっという間だ」
スノーも真剣な眼差しでうなずき、サヤは不安げながらも小さな声で「がんばる」と呟いた。
こうして彼らは、半日後に訪れる「邂逅」の時に備えて、それぞれの覚悟を固め始めた。





