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終戦列車―乗客は十三人、定員は十二。誰かを降ろさなければ前へ進めない。  作者: 妙原奇天


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第四話 心のレート

 灰の切符は、思っていたより早く「当たり前」になった。


 最初の頃は、切符を出すのも受け取るのも、どこか後ろめたさがあった。善意に値札をつけているようで、誰もが少しだけ目をそらした。


 けれど三日も経つと、人は慣れる。


「巡回一時間、切符二枚」


 凪が提案すると、兄の方が首をかしげた。


「一時間で二枚? 三枚でもいいだろ」


「三枚は高すぎる」


 妹がすかさず口を挟む。


「だって、警戒がないと寝られないんだよ? 寝られないと、明日の作業が……」


「寝られないと困るのは、あんたたちだけじゃない」


 楽士がソファ代わりにされている座席の上からひょいと顔を出した。


「警戒は命綱だが、全員が少しずつ負担してる。特別扱いしすぎると、巡回ばかりが高くなる」


「じゃあ二枚で」


 結局、凪の提案が通った。


 巡回一時間、切符二枚。抱っこ三十分、切符一枚。読み聞かせ三話、切符一枚。夜間の見張りは、時間帯によってレートが変わる。真夜中は高く、明け方は少し安い。


 紙切れに鉛筆で書かれた数字と役目が、あちこちで行き交う。最初はぎこちなかったやりとりに、次第に即答が増えていく。


「じゃあ、看護一回分、切符三枚でどうです?」


 吉良が包帯を巻きながら言うと、老女が少し戸惑った顔をした。


「そんなに高く取っていいのかい」


「消毒液も包帯も残りが少ないですから。価値が高くなって当然です」


 吉良は淡々と答えた。


「安く買えるものほど、無駄にされる。医療は……無駄にされるわけにはいかない」


 確かに、包帯の残量は警告域に入っていた。棚に吊るされた布袋は目に見えて薄くなり、吉良の手つきもいつもより慎重だ。


 切符経済は、安定しはじめていた。


 ……はずだった。


     ◇


 歪みが出たのは、夜だった。


「ねえ、今夜、一緒に寝てくれない?」


 由衣がためらいがちに言った相手は、凪ではなく、老女だった。


「隣でいい。少し触れてるだけでいいから。切符、一枚出すから」


「あたしでいいならねえ」


 老女は笑って頷いた。


「お代なんていらないよ」


「いえ、切符、払わせてください」


 由衣は子どもみたいに頑固な顔で、灰色の紙を差し出す。


「これは、わたしの“わがまま”だから」


 老女はしばらくその紙を見てから、折れて受け取った。


「じゃあ、ありがたく」


 そのやりとりを見ていた楽士がおどけて言う。


「人肌一晩、切符何枚分かね」


「一枚です!」


 由衣が慌てて言い返すと、楽士が肩をすくめる。


「安いな。俺なら三枚は取る」


「あなたのは余計な手つきが挟まりそうだから、割引されるよ」


 老女が笑い、車内の空気が少しだけ和らいだ。


 けれど、その夜。


「……一枚じゃ足りない」


 壁際で膝を抱えながら、妹がぽつりとつぶやいた。


「何が」


 凪が聞くと、彼女は膝に顔を埋めたまま答える。


「怖さ。一枚分じゃ足りない。誰かの隣で眠れる時間って、こんなに、大事なのに」


 兄の方も、毛布の端を握りしめた。


「俺だって、今夜は本当は誰かの足音を聞きながら寝たい。切符が足りないだけだ」


 心のレートが、上がり始めていた。


 看護一回より、「話し相手一時間」の方が高くなり、巡回と抱っこが同じくらいの価値に見なされる瞬間が出てくる。


 夜になると、寂しさが一番の敵になる。


 日中はいくらでも体を動かしてごまかせる。水を汲み、車内を整え、線路の先を眺めて忙しくしていれば、余計なことを考えずに済む。


 夜になると、それが全部剥がれる。


 暗闇の中で、隣に人がいるかどうか。寝返りを打った時に袖が触れるかどうか。肩に重みがあるかどうか。その些細な感覚が、切符五枚分くらいの価値を持ち始める。


「……抱っこ券、増刷します」


 由衣が小さな声で言った。


「そんなことをしなくてもいい」


 吉良が眉をひそめる。


「でも、わたしが切符を出せば、その分、誰かが助けてもらいやすくなるでしょう。抱っこ代行、看病、あやし。全部、切符にしていい」


「増やしすぎれば、価値が暴落する」


 朝比奈が淡々と指摘した。


「通貨は、刷れば刷るほど軽くなる」


「でも……」


「それに、赤ん坊は泣きたい時に泣くわ」


 朝比奈は由衣の腕の中の乳児を見る。


「泣く回数も長さも、誰にもコントロールできない。不確かなものに切符を結びつけると、価値が乱高下する」


 実際、その夜の「抱っこ券」は、最初は飛ぶように売れたが、赤ん坊が止まらない泣き方を始めた瞬間、誰も手を挙げなくなった。


「ご、ごめんなさい……」


 由衣は泣きそうな顔で頭を下げる。


「この子、眠いはずなのに、ずっと……」


「赤ん坊に謝る権利は、誰にもないわ」


 吉良が静かに言った。


「泣くのが仕事ですから」


 楽士の演奏だけは、安定していた。


 夜の演奏十分、切符二枚。そのレートは変わらなかった。だが、曲が変わると、相場が跳ね上がることがあった。


 誰かが泣いている時に、楽士がそっと、少し明るめの曲へ移る。誰かが笑っている時は、逆に静かな曲を弾く。泣きたいのに泣けない時には、昔聞いたような子守唄をつなげる。


「曲を変えると、高くなるぞ」


 老女が冗談めかして言うと、楽士は肩をすくめた。


「心の相場は、勝手に動くからね」


 吉良の医療は、需要が急増していた。


 寒さで指先が割れ、凍傷になりかける者が出る。心配で眠れず、過呼吸になった者もいた。ほつれた服を直す老女の針仕事は、いつしか「怪我予防」という価値を持つようになった。


 切符は飛び交い、基準は揺れた。


 どこで誰が、どのくらい泣いたか。どのくらい怖がったか。どのくらい、誰かの肩を借りたか。


 それらに、目に見えない数字がついていく。


「心を高く買いすぎると、列車は止まる」


 御子柴がぼやくように言った。


「燃料も水も足りてねえのに、切符だけがぐるぐる回ってる」


「だから整理するのよ」


 朝比奈が冷たくまとめる。


「基軸は燃料と水。心は必要だけれど、交換の“軸”に置いたら破綻する。心は付随価値に戻すべき」


「付随価値」


 凪はその言い方に引っかかった。


「心が、付いてくるだけのものってことですか」


「そう。水を汲みに行く時に誰かが隣にいてくれるのは、付随価値。水が手に入ることが軸。わたしたちは今、逆転しかけている」


 朝比奈の目は、切符の束ではなく、車両の床下あたりを見ていた。そこには、石炭と水と鉄と、現実の重さが詰まっている。


 心のレートが上がるたびに、列車の速度は少しずつ落ちている気がした。


     ◇


 翌朝、短い停車があった。


「ここは、短めだ。すぐ出る準備だけしてろ」


 御子柴が言った時、凪はいつも通り警戒に回ろうとした。


 だが、その前に、掲示板が変わった。


 無人の小さな踏切。遮断機は折れ、警報灯は壊れ、ただポールだけが斜めに突き立っている。その脇の掲示板に、白い文字が浮かび上がった。


 交換条件。


 物資ではなく、「記憶」。


「……は?」


 楽士が思わず声を漏らす。


「最も温かかった朝の記憶を、記すこと」


 凪は読み上げた。


「提出すると、石炭一籠と水一壺が得られる、って」


「誰かの冗談?」


 妹が不安そうに老女の袖を掴む。


「罠かもしれない」


 兄の方が眉をひそめた。


「記憶なんて渡して、本当に物資が出てくるのか?」


「試すしかない」


 御子柴が低く言う。


「石炭一籠と水一壺だぞ。見逃せる条件じゃねえ」


「でも、もし……」


 由衣が赤ん坊を抱きしめる。


「もし、それを書いたら、その記憶が消えちゃったりしたら」


「記憶なんて、どうせ少しずつ消えていく」


 朝比奈が歩み出た。


「だったら、先にこっちで“使って”おいた方がいい」


 そう言うと、真っ先に紙と鉛筆を手に取る。


 凪が思わず止める。


「待ってください。そんなに簡単に……」


「簡単じゃないわよ」


 朝比奈は苦笑した。


「だからこそ、やる。一番温かかった朝? ……まあ、ひとつくらいなら、差し出しても生きていける」


 紙の上に、鉛筆の先が走った。


 彼女が書いている内容を、凪は覗き込まなかった。ただ、彼女の目の奥に、一瞬だけ遠い光が宿ったのを見た。


 書き終えた紙を折りたたみ、掲示板の下に開いた小さな窓口のような穴に差し込む。


 数秒後。


 ごとり、と音がして、反対側の小さな扉が開いた。


 覗き込んだ御子柴が、目を見開く。


「……マジかよ」


 そこには、本当に石炭の塊が入っていた。手に取れる重さの、一籠ぶん。隣には、鉄製の小さなタンクがひとつ。水がなみなみと入っている。


「出た。条件通りだ」


 御子柴は信じがたい顔で、それを抱えた。


「嘘だろ……紙切れ一枚で、石炭一籠?」


「紙切れ一枚じゃないわ」


 朝比奈は肩をすくめる。


「わたしの、いちばん温かかった朝よ」


 凪は、思わず聞いた。


「どんな朝だったんですか」


「言ったら、損じゃない」


 朝比奈は笑った。


「高く売ったものを、タダでばらまくようなものよ」


「そこまで商売っ気出さなくても」


「気になる?」


 少しだけ、からかうような視線が向けられる。


 凪は頷いた。朝比奈の過去を、何も知らなかったから。


「……湯気の立つ洗面器と、姉の笑い声と、日なたの布団」


 彼女はあっさりと言った。


「冬の朝。布団から無理やり引きずり出されて、冷たい床に足をつけたら、洗面器のお湯で足を温めてくれて。窓辺で日向ぼっこしながら、くだらない話をしてた。その日だけ、外の爆音が聞こえなかった気がした」


 凪は息を呑んだ。


「……それ、もう覚えてないんですか」


「覚えてるわよ」


 朝比奈はあっさりと答えた。


「今書いたから。少なくとも一日はね。明日になっても覚えてるかは、分からないけど」


「それでいいんですか」


「いいのよ」


 朝比奈は石炭の塊を見つめた。


「わたしたちは、記憶がなくても生きていける。でも、燃料と水がなかったら、明日を迎えられない」


 その言い方があまりにも冷静で、凪は何も言えなくなった。


 朝比奈の後に続き、乗客たちは次々に紙を取った。


「最も温かかった朝、ねえ……」


 老女は目を細める。


「昔、孫が風邪をひいた朝があってねえ。熱は下がったばかりで、まだ顔が真っ赤でさ。それでも起き上がって、パンの匂いがするって笑ったんだよ。あの朝は、いい匂いがしたねえ」


 楽士は、指を組んで天井を見た。


「合唱の音合わせ。学校の体育館で、朝練。眠い目をこすりながら、ピアノの音に声を合わせて……外はまだ暗かったのに、体育館だけ少し明るくて。あれがたぶん、一番あったかかった」


 兄妹は顔を見合わせ、同じ朝を書いた。遠足の日の朝。お弁当の匂い。親の「いってらっしゃい」の声。バスの窓から見えた、まだ眠そうな町。


 由衣は、迷いながらもペンを走らせた。


「……この子がお腹の中で動いた朝。目が覚めたら、お腹の中で誰かが蹴ってて。怖かったけど、嬉しかった。あれが、一番あったかかった」


 紙が窓口に吸い込まれていくたびに、反対側から石炭や水が出てくる。条件は本物だった。誰かの小さな幸せが、確実に列車を前に進める燃料へ変わっていく。


 凪は、しかし、紙を前にして手が止まっていた。


 最も温かかった朝。


 思い出そうとするたびに、頭の中に浮かぶのは、軍靴の音だった。


 号令で叩き起こされた朝。砂埃の中で整列した朝。凍った飯盒を火にかざした朝。銃を磨き、靴を擦り、怒鳴り声を聞いた朝。


 温かいと呼べる朝が、思い出せない。


 子どもの頃の朝は、どこかに置き忘れてきてしまった気がする。洗面器の水の温度も、家の匂いも、布団の重さも、思い出そうとするたびに指からこぼれ落ちた。


 ふと、ノートが目に入る。


 小山田から渡された日誌。昨夜の儀式のことが書いてあるページに、彼の字が残っている。


 今日の交換で失われたものの名を読み上げたこと。篠目の名、水三壺、包帯二巻、睡眠三時間、抱っこ二回分の肩の痛み。そして、最後に沈黙を数えたこと。


 小山田の記憶から一節を借りれば、何か書けるかもしれない。


 だが、凪はペンを持ったまま、首を振った。


 これは、自分の記憶を書く場所だ。


 借り物の言葉では、きっと意味がない。


 提出締切が近づいていた。掲示板の隅に、小さく砂時計のような印が浮かび、その砂が下へ落ちていく速度が早くなる。


 その時、凪は、不意に昨夜のことを思い出した。


 楽士の演奏が終わった後、誰も笑わず、誰も責めず、ただ失くしたものの名前だけを数えた時間。


 夜なのに、あの時だけ、胸の中が少し明るくなった気がした。


 誰かの犠牲を、ただの「交換条件」にしないために、全員で短く目を閉じた。沈黙を数えるという、馬鹿みたいな行為が、やけに暖かかった。


 朝ではない。けれど、あの静かな時間は、どこか「朝みたいだった」。


 凪は、紙に書き始めた。


 昨夜、皆で黙って、失くしたものの名前を数えた。誰も笑わなかった。誰も責めなかった。あれが、朝みたいだった。夜なのに、少しだけ明るかった。


 書き終えて、深呼吸する。


「それで、いいわ」


 いつのまにか隣に立っていた朝比奈が、小さく頷いた。


「それは、あなたの記憶よ。戦場の朝より、ずっと“今のあなた”に近い」


 凪は紙を折り、窓口に差し込んだ。


 一瞬、何も起きなかった。


 やはり駄目だったか、と喉が冷たくなったその時。


 ごと、ごとん。


 鈍い音がして、小さな扉が開いた。


 中には、石炭が入っていた。だが、籠に満ちてはいなかった。半分だけだ。


「半籠かよ」


 楽士が思わずつぶやく。


「半分しか評価されなかったね」


 朝比奈が肩をすくめる。


「市場は残酷」


 凪は苦笑した。


「夜のことだから、ですかね」


「かもしれないし、“一番温かかった”っていう条件から少し外れてるのかもしれない」


 朝比奈の言い方は淡々としていたが、目はわずかにやわらいでいた。


「でも、半分は通った。つまり、半分は本物ってことよ」


「半分評価されただけでも、上出来だ」


 御子柴がそう言って石炭半籠を受け取り、機関室へ運んでいく。


 得た石炭と水を合わせて、焚きは安定した。火力が上がり、蒸気の圧も回復する。列車はまた、灰の海をかき分けるだけの力を取り戻す。


 だが、その一方で。


 窓から離れた老女が、首をひねっていた。


「あれ……」


「どうしました」


 吉良が近づく。


「さっき書いた、パンの匂いの朝。顔は覚えてるんだけどねえ……何のパンだったか、思い出せなくて」


 老女は苦笑した。


「孫が笑った顔も、少しぼやけた。何となく、あったかかったことだけ覚えてるんだけど」


 兄妹も、紙を出した後、少し妙な顔をしていた。


「遠足の朝……誰と同じ班だったっけ」


「覚えてるよ。あの、背の高い……」


「名前が、出てこない」


 由衣は、お腹に手を当てていた。


「お腹の中で動いた朝は覚えてる。でも、何週目くらいだったか、曖昧になってきちゃった」


 彼らは、自分の最も温かい朝を手放したまま、少し空洞になっていた。


 大事な記憶の輪郭が薄くなり、「あったかかった」という温度だけが残る。具体的な匂いや色や音は、少しずつ削られ、交換窓の向こう側へ流れていった。


 心のレートは、見えないところで変化していく。


 誰かの中身が、少し軽くなり、誰かの中身が、逆に重くなる。


 凪は胸元の日誌を開いた。


 ページの隅に、小さく書き足す。


 第四回交換。条件:最も温かかった朝の記憶。結果:石炭四籠半、水三壺。失われたもの:具体的な匂い、顔、名前。残ったもの:温度だけの記憶。


 その下に、もう一行。


 私たちは進むために、少しずつ自分を安く売っている。


 書きながら、凪は思う。


 売ったのは「安かったから」ではない。生き延びるために、そうするしかなかった。


 それでも、誰かの一番温かかった朝が、石炭一籠ぶんと同じ値札で並べられている事実は、どうしようもなく苦かった。


 列車は走る。


 灰の海の上を、交換と喪失と、心のレートを揺らしながら。

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