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終戦列車―乗客は十三人、定員は十二。誰かを降ろさなければ前へ進めない。  作者: 妙原奇天


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第五話 見えない乗客

 夜半、列車がかすかに沈んだ。


 ほんの数ミリ。床板が鳴っただけと言われればそれまでの揺れだったが、凪の足裏はそれを敏感に拾い上げた。寝台代わりの座席の下、鉄の骨がきしむ感触が皮膚越しに伝わってくる。


「……今の、分かったか」


 運転席から顔を出した御子柴が、眉間に皺を寄せていた。暗がりの中でも、その表情の固さははっきり分かる。


「減速じゃ、ないですよね」


 凪は立ち上がり、手すりを握った。車両の揺れは、速度を落とした時のそれとは違う。下から突き上げるような、何かがぶら下がったような重さがあった。


「重さが、減っていない」


 御子柴は短く言い、煤で黒くなった手を計器へ伸ばした。


 圧力計。ブレーキの系統。重量を示す針。


 そこには、篠目と小山田が降りる前と、ほとんど変わらない数字が並んでいた。


「おかしいな。二人分、軽くなってなきゃおかしい。ざっと百キロ以上は減ってるはずだ」


「……十三人分のまま、ってことですか」


 凪の問いに、御子柴は無言で頷いた。


 客車の奥から、紙を閉じる音がした。


「灰の切符、いったん中断」


 朝比奈が立ち上がる。切符帳をぱたんと閉じ、その表紙を軽く叩いた。


「重量の棚卸しをしましょう」


「棚卸し?」


 楽士が寝転がっていた座席から顔を出した。


「今さら、何を数えるんだい。切符か? 毛布か? それともため息の数か?」


「列車に乗っている“もの”を、全部、表に出すのよ」


 朝比奈は冷静に言った。


「切符で増えた小袋、束ねた布、配給の壺。見える重さを全部一度中央に集めて、どれだけ増えたか、どれだけ減っているかを確かめる。それでも説明できない重さがあるなら、それは“見えない乗客”の分」


「見えない……」


 由衣が赤子を抱きかかえなおしながら、不安げに周囲を見回した。


「幽霊ってこと?」


「そんなロマンチックなもんじゃねえだろ」


 御子柴がうなり、車内灯を少し明るくした。


「さっさとやるぞ。眠いやつは後回しだ」


 床の中央にスペースが作られた。毛布を端に寄せ、座席の下に隠していた荷物を引っ張り出す。切符と交換で手に入れた食料の袋、包帯を束ねた布、壺に入った水。


「全部、ここに」


 吉良が、古い秤を引っ張り出してきた。かつて駅の売店で使われていたのだろう、錆びてはいるが、まだ針は動く。


「順番に量ります。ついでに残量も把握する」


「医者の仕事がどんどん増えていくな」


 楽士が冗談めかして言うと、吉良は肩をすくめた。


「生き延びるための仕事なら、何でも引き受けますよ」


 切符を入れた小袋がひとつ、秤の上に乗る。針がわずかに揺れ、老女がメモに数字を書き留める。包帯の束、水の壺、毛布の枚数。ひとつずつ量られ、書かれていく。


 積み上げられた荷物の山は、思っていた以上に大きかった。切符経済が生んだ小袋や整頓された布が、車内のあちこちに「増えた重さ」として貼り付いていたのだ。


「それでも、だ」


 御子柴が呟く。


「二人分の重さには届かねえ。せいぜい一人分さ」


「残りは……?」


 凪は、床を見下ろした。


 鉄の骨が、暗い。


「床下を見てくる」


 凪はそう言って、通路の端にある点検口の蓋を外した。錆びた金具が嫌な音を立てる。冷たい空気が、下から吹き上がってきた。


 顔を近づけると、灰の匂いが肺に刺さる。喉の奥がむず痒くなり、咳がこみ上げたが、凪は歯を食いしばって飲み込んだ。


 懐中灯を受け取り、狭い四角の穴に身体を滑り込ませる。鉄の梁が縦横に走る空間は、思ったより狭く、膝と肘をぶつけながらにじり進むしかなかった。


 光を前方に向ける。


 梁と梁の間に、何かが挟まっている。


 木箱だった。


 煤けた板が互い違いに組まれた古い木箱が、鉄の骨に噛み込むようにして固定されている。側面には封蝋が貼られていたが、半分剥がれ、乾いた紅色が黒い煤に飲み込まれかけていた。


 その中心に、見覚えのある印が押されている。


 軍の印章。


 凪は、喉の奥がひやりと冷えるのを感じた。


「御子柴さん!」


 這い戻りながら叫ぶと、上から御子柴の顔が覗き込んだ。


「何かあったか」


「木箱が。床下に。軍の印がついたやつです」


「……ああ」


 御子柴は短く舌打ちした。


「あれが残ってやがったか」


「知ってたんですか」


「終戦の前から積まれていたやつだ。俺が乗る前からな。だから“知らん”に等しい」


 言い訳のようにそう言い、御子柴は自分も点検口から顔を突っ込んだ。


「ロープをくれ。無理やりでも引き上げる」


 兄が走ってロープを持ってきた。凪が再び狭い空間に潜り込み、木箱にロープを回す。汗が冷えて、背中がぞくりとした。


「いいぞ、引け!」


 御子柴の声に合わせ、車内の全員がロープを引いた。木箱が梁から外れ、鉄と木が擦れる音が車体に響く。


 ごとん。


 鈍い音とともに、木箱は床の穴から顔を出した。


 煤けた板。剥がれかけた封蝋。消えかけた軍の印章。


 近くで見ると、箱の横には鉛筆で数字が書かれていた。乱雑だが、確かに誰かの手で刻まれたものだ。


「一、二、三……」


 朝比奈が指でなぞる。


「最後に、“十三”」


 客車の空気が重くなった。


「十三人分、ということですか」


 吉良が低く問う。


「多分ね」


 朝比奈は短く答えた。


「この箱には十三の何かが入っていて、それが“終戦後もずっと”この列車に乗っていた」


「開けるぞ」


 御子柴が言うと、誰も止めなかった。


 釘抜きで蓋の端をこじる。乾いた木が割れ、細かい破片が床に散った。蓋を持ち上げた瞬間、乾いた匂いが広がる。


 腐敗臭ではない。長い時間をかけて水分だけが抜けた、粉っぽい匂い。線路の砂利に似た、どこか懐かしいようで、ぞっとする匂い。


 箱の中には、硬い布袋がいくつも並んでいた。


 吉良がそのひとつをそっと持ち上げる。布越しに、中身の形を確かめるように指を滑らせる。


 ぎざぎざとした感触。曲がった細い棒。壊れた輪。


 布を開くと、灰と、砕けた白いものがこぼれた。


 骨だった。


 細かく砕かれた白い欠片と、それでもまだ形を残している指の骨や肋骨。中には、明らかに子どものものと思われる小さな節も混じっていた。


「……」


 誰も声を出せなかった。


 木箱の側面に並ぶ数字。その最後の「十三」が、布袋の数と一致していることに、全員が気づいていた。


「遺骨だ」


 吉良が静かに言った。


「戦死者か、病死者か、それとも……。いずれにしても、十三人分の“誰か”だった人たち」


「この箱ごと、ずっと積まれてたってことか」


 楽士が唇を噛む。


「篠目さんと先生が降りる前から、十三人と十三人分……」


「列車は、“人の代わり”も数える」


 朝比奈がつぶやいた。


「生きている体だけじゃない。遺骨も、重さも、名前の束も。全部“乗客”として扱ってる」


 その時、掲示板がじわりと光った。


 暗い客車の中で、白い文字が浮かび上がる。


 定員調整。交換対象:木箱一。代替不可。


「……そう来たか」


 御子柴が低く笑った。


「この箱を降ろせってことだ」


「置いていく、ってこと?」


 由衣が震える声で呟く。


「こんな形で……」


 老女は胸の前で祈りの印を切った。どこの宗教のものかは分からないが、しわだらけの指が空に描く軌道には、長い年月が染み込んでいる。


「置いていかなきゃ、列車は動かないの?」


「表示がそう言ってる」


 御子柴は短く答えた。


「ブレーキもスロットルも、あの文字と連動してる。無視すりゃ、さっきみたいに勝手に重さを“戻される”」


 吉良が、布袋のひとつを手に取った。


 布越しに、骨の形を確かめる。小さな指の節。細い肋骨。大人のものに混じって、子どものものが確かにある。


「少しだけ、分けて持っていけませんか」


 吉良は、息を整えて言った。


「全部を置いていくんじゃなくて、ほんのひとつまみでいい。誰かがここにいた証拠だけでも、一緒に連れていけないでしょうか」


「重さは変わらん」


 御子柴が目を細める。


「箱ごと置くか、全部持ち続けるかの二択だ。そんな中途半端は……」


「分かんないわよ」


 朝比奈が口を挟んだ。


「列車が数えているのは、“木箱一”なのかもしれない。箱という形、軍の印、封じられた状態。それが一つの“乗客”として扱われているのなら、箱を壊して中身を分配すれば、別の扱いになる可能性はある」


「可能性って……」


 凪が言いかけると、朝比奈は続けた。


「規則は、“箱一”を嫌っている。だったら、箱の形を壊す。全部は置いていく。でも、それとは別に、各自のポケットに“ひとつまみ”だけ持つ。記憶として、責任として。重さは等分されるし、規則もきっと満たす」


「そんな理屈で、通るもんかね」


 楽士が呟いた。


「理屈の通りやすい世界なら、そもそもこんな列車走ってないさ」


 老女が静かに言った。


「少しでも、あたしたちにできる“ましな選択”があるなら、試してみなきゃねえ」


 小山田のノートの最後の行が、凪の脳裏をかすめた。


 誰かが数えておかないと、失われたものは簡単に値引きされてしまう。


 今ここで、この木箱をただの「余計な荷物」として置いていくのは、何かを間違えることになる気がした。


「やりましょう」


 凪は頷いた。


「箱を降ろす前に……全員で、少しずつ」


     ◇


 木箱の中身が、床の上に広げられた。


 布袋の口が少しずつ開けられ、中から灰と白い欠片が覗く。吉良が手袋をはめ、一袋ずつ均等に広げていく。


「指先だけでいい。つまんで、握って、ポケットか何かに入れてください」


 吉良の声は、いつもより少し低かった。


「どの袋からでも構いません。子どもか大人かなんて、ここで選ぶべき話じゃない」


 凪は、布袋の一つに指を差し入れた。


 粉のように細かい灰が指先を包む。冷たい。温度としては他の灰と変わらないはずなのに、皮膚に触れた瞬間、背筋をなぞるような寒さが走った。


 指の腹が、何か硬いものに触れる。


 つまみ上げると、米粒より少し大きい欠片だった。光に透かすと、うっすらと白く光る。


 これが誰かの骨で、誰かの体の一部だったのだと考えた途端、喉が詰まった。


「……」


 何も言えないまま、その欠片と灰を握りしめ、ポケットに入れる。


 朝比奈も、黙って灰をつまんだ。彼女は指先を見つめたまま、小さく息を吐く。


「重い?」


 凪が問うと、彼女はかすかに笑った。


「軽いわよ。問題は、こっちの話」


 朝比奈は胸のあたりを指で叩いた。


 楽士は、誰にも見えないように顔を背けながら灰に触れた。指先が震えているのを、凪は横目で見た。


 老女は目を閉じ、布袋にそっと手を差し入れた。


「名前が分かれば、呼んであげられるんだけどねえ」


「分からないままのほうが、いい時もあります」


 吉良が静かに返した。


「名前を知ってしまうと、もっと手放しづらくなる」


「そうかねえ」


 老女は苦笑しながら、握りしめた灰を小さな布袋に移し替え、胸元にくくりつけた。


 由衣は、赤子を膝に乗せたまま、片手だけで灰をつまんだ。


 指先に付いた粉を見つめ、それからおそるおそる赤子の額に触れる。


 灰で描かれた、小さな丸。


「覚えていようね」


 由衣は囁いた。


「ここに誰かがいたこと。わたしたちが置いていってしまったこと」


 赤子は意味も分からず、くしゃみをひとつした。


 兄妹もそれぞれのポケットに灰を入れた。兄の方は無言で、妹は少し泣きそうな顔をしていた。


 楽士が、ケースから楽器を取り出した。


「最後に、少しだけ」


 弦に触れる指が、短い旋律を紡ぐ。


 明るくも暗くもない、不思議な調子の曲。葬送曲には似ていないが、どこか「送り出す」ための音だった。


 誰も歌わないのに、心のどこかで昔聞いたような言葉が蘇る。


 老女が目を閉じ、失われた名前を探すように唇を動かした。


 小さな儀式は、ほんの数分で終わった。


 木箱は、もう空っぽではなかった。底に少し灰が残っているだけで、大部分は乗客たちのポケットや袋に「散って」いた。


「行くぞ」


 御子柴が短く言い、ロープを箱にかける。


 今度は逆に、箱を点検口の方へと引きずっていく。梁の隙間から、線路脇へと降ろすためだ。


 ぎぎ、と鉄と木が擦れ合う音。箱は床下へ消え、凪の視界からも見えなくなる。


 外に出た兄が、ロープをたぐり、箱を線路脇にそっと横たえた。


「……さよなら」


 妹が小さく呟く。


 箱の上に、老女が拾った小石がひとつ置かれた。墓標にもならない印だが、何もないよりは、ずっとましだった。


     ◇


「重さ、どうだ」


 客車に戻ってきた御子柴が、すぐに計器を覗き込む。


 重量の針が、ほんのわずかに下がっていた。


 篠目と小山田、一人分には届かない。けれど、「箱一」の分だけは、確かに軽くなっている。


「……通ったな」


 御子柴は、安堵とも諦めともつかない笑いを漏らした。


「規則は満たされた。箱はもう“乗客”じゃない」


「中身は、どう扱われていますかね」


 吉良がポケットを押さえながら問う。


「それは、たぶん」


 朝比奈が自分の胸元を見た。


「“責任者一人分の重さ”として、わたしたちの中に分散されたんでしょうね」


 掲示板は沈黙していた。


 凪は、窓の外を見た。


 線路脇に置かれた木箱が、少しずつ遠ざかっていく。薄い月明かりに照らされて、その輪郭がじわじわと小さくなる。


 列車は、重さをひとつ手放して前に滑り出した。


 それでも胸のどこかは、鉛のように沈んでいた。


「印は増やした?」


 朝比奈の視線が、凪の手元に落ちた。


「え?」


「さっき、床下を見てきた時。梁の位置や、傾き。ちゃんと“印”をつけた?」


「ああ……はい」


 凪は頷いた。


「梁の間隔と高さ。木箱が挟まっていた位置も。印をひとつずつ」


 客車の柱、窓枠、床板の目地。


 そこには、朝比奈と凪のつけた小さな印が、すでにいくつも並んでいる。点。線。矢印。数字。


 方角。風向き。車輪の偏った磨耗。停車位置のズレ。


 すべてが、列車の「癖」として記録されていた。


「あんたたち、最近ずっと落書きしてると思ったら、そんなことしてたのか」


 楽士が呆れたように言うと、朝比奈は肩をすくめた。


「落書きじゃないわ。地図よ」


「地図?」


「線路と、列車と、この中にいる人たちの“癖”を写した地図」


 朝比奈は、印のひとつを指でなぞる。


「わたし、終戦間際は鉄道通信兵だったの」


「鉄道……通信兵?」


 凪が思わず聞き返す。


「負傷者列車の誘導。爆撃で線路がどこまで使えるか、どこで減速するべきか、どこに隠れれば空から見つかりにくいか。そんな情報を、毎日、線路と一緒に“読む”仕事をしていた」


 朝比奈の目が、遠くを見る。


「線路の癖は、人の癖と似てる。曲がりやすいところ、折れやすいところ、頑固にまっすぐなところ。ちゃんと見ていれば嘘をつかない」


 凪は、彼女が時折窓の外をじっと見つめていた理由を、ようやく理解した。


「掲示板の文字も、癖を持ってるんですか」


 凪が問うと、朝比奈は首を横に振った。


「あれは癖のない字よ。線の太さも、間隔も、いつ見ても同じ。筆圧も、個性もない。人が書いたものじゃない」


「じゃあ……」


「誰かが“条件”だけをどこかから送り込んで、あの板が勝手に文字を浮かべてる。線路の遥か先から、あるいは地の底から」


 朝比奈は掲示板を見上げた。


「印が残らないやり方で、ね」


「書いてるやつの顔が見えねえってのが、一番気持ち悪いな」


 楽士が吐き捨てるように言う。


「こっちが名前を削ってるのに、向こうはずっと“名無し”のままってわけだ」


「どっちでもいいさ」


 御子柴が割って入った。


「書いてるのが人間だろうが鉄の箱だろうが、俺たちは走らにゃ凍える。条件が出れば、飲むか、死ぬかだ」


 乾いた現実が、会話を締めくくった。


 切符の束が再び配られ、夜の当番が決められる。巡回一時間。見張り二時間。看病。抱っこ。読み聞かせ。心のレートは少しずつ調整されながらも、そこに確かに残り続けていた。


 その夜、凪は見張りの順番を引いた。


 客車の端。割れた窓を板で塞いだ隙間から、冷たい風が入り込む。遠くでレールが鳴る音と、機関室から漏れてくる火の音だけが、夜と世界を繋いでいた。


 ポケットの中の灰が、指先に触れる。


 線路脇に置いてきた箱の中身が、風に乗って舞い上がり、いつかこの車内にも戻ってくるような気がした。


 重さは減ったはずなのに、胸の奥はほとんど軽くならない。


 むしろ、誰かの骨を握りしめた分だけ、余計に沈んでいるように感じた。


     ◇


 明け方前、遠くに淡い光が見えた。


「……見て」


 朝比奈が凪の肩を軽く叩く。


 灰色の夜の向こうに、揺れる灯り。線路を挟んだ少し離れたルートを、別の列車が走っている。


 煙は薄く、速度は遅い。それでも確かに動いていた。


「生きてる列車だ」


 兄が小さく息を呑む。


「俺たちだけじゃ、ないんだ」


「同じ規則に縛られているなら」


 朝比奈の目が細くなる。


「向こうも、どこかで誰かを降ろしてきたはず。箱を置いていったか、名前を置いていったか、心を置いていったか」


 列車同士の距離は一定のまま、少しずつ平行に進んでいく。互いに手を振るには遠すぎて、ほとんど幻のようだった。


 競争する相手なのか。救いの合図なのか。あるいは、罠なのか。


 凪は喉の奥でその問いを転がしながら、言葉にしなかった。


 そのタイミングで、掲示板がじゅっと音を立てた。


 鉄に熱を押し当てたような音。白い文字が、ゆっくりと浮かび上がる。


 次停車、特殊交換。


 名札一、燃料半籠。


「名札……?」


 妹が読み上げ、首をかしげる。


「名札一つで、燃料半籠?」


「名前を、差し出せってことか」


 楽士が低く言った。


「誰の。どの名前を」


 客車の空気が、再び沈んだ。


 誰もまだ持っていない名札。すでに失われてしまった名も、これから奪われようとしている名も、この列車のどこかに固まっている。


 凪は胸のポケットの日誌を握りしめた。


 小山田の字で埋められたページ。その余白に、これから新しく書かれるはずの名前。


 次の駅で問われるのは、今度は「重さ」ではなく、「名」だ。


 誰の名前を、列車に食わせるのか。


 窓の外のもう一つの列車も、遠くで同じ白い光を浴びているように見えた。

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