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終戦列車―乗客は十三人、定員は十二。誰かを降ろさなければ前へ進めない。  作者: 妙原奇天


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第3話 「交換の祈り」

 夜は、列車の外側から少しずつ染み込んでくる。


 客車の灯りは心許なく、天井から吊るされた裸電球がひとつ、弱々しく揺れていた。窓ガラスの内側に息を吹きかけると、さすがに白く曇る。昼間はまだましだった寒さが、レールを伝ってじわじわと床を冷やしていた。


 床板の上に毛布が敷かれ、その上で老女が膝を抱えて座っている。由衣は乳児を胸に抱き込み、吉良がその肩に古びたコートを掛けた。楽士は楽器ケースを開き、手入れの行き届いた小さな弦楽器を取り出す。


「じゃあ、やるか」


 楽士が短く言って弦を弾いた。音はこの世界に残された数少ない“贅沢品”だった。金属がこすれる軋みでも、遠くの爆音でもない、人の指が選んだ音。


 低く始まった旋律は、すぐに客車全体に染み渡る。誰も歌わないのに、歌詞が聞こえてくるような旋律だった。凪は床に座り、背中を壁に預けて目を閉じる。夜の冷たさと音の温かさが、喉のあたりにぶつかって渦を巻いた。


 楽士の演奏が終わると、自然と誰もが息を止める。


 ここからが、もうひとつの“儀式”の始まりだった。


「では、今日の交換で失くしたものの確認から」


 小山田が、膝の上のノートを開いた。眼鏡の奥の目が、一日分の疲れと、それでもまだ何かを守ろうとする意地の光で揺れている。


「まず、篠目さんの名」


 静寂が、客車の隅々まで降りた。


 誰も口には出さなかった名前を、小山田が低く読み上げる。今日この列車がここにいるのは、誰か一人の降車のおかげだ。その事実を、言葉にして確認する。


「篠目。外で囮として走り、戻らず」


 ノートに書き付けられた文字は、もう消せない。誰かの判断で、交換条件の一行で、なかったことにはできない。


「次に、水三壺」


 吉良が小さくうなずく。


「石炭一籠と引き換えに、濾過済みの水三壺を差し出した。残りの水は、全員で分けて使用」


「包帯二巻」


「はい」


 吉良が自分の膝に置かれた布袋を指差した。


「濾過器に使う布と、凍傷になりかけていた人の足の処置で、二巻を消費しました」


「睡眠三時間」


 老女が苦笑した。


「昼の見張りに出た二人が、交代で眠れなかった分だねえ。これは……数えても返ってこないね」


「返ってこないからこそ、数えるんです」


 小山田が言って、ペンを走らせる。


「抱っこ二回分の肩の痛み」


 由衣が顔を上げる。


「それは……」


「書きます」


 小山田は淡々と続けた。


「由衣さんの肩の痛み。切符として他人に渡した分と、自分で背負った分。取るに足らないと思われがちな負担ほど、記録されにくい。だからこそ、書いておく」


 誰かが笑いかけて飲み込んだ気配があったが、茶化す声は上がらなかった。最初の晩にこの儀式を提案した時には、楽士があからさまに肩をすくめ、兄妹が困ったように笑っていたものだ。


 けれど、三日目にもなると、誰もがこの時間に何かを期待するようになっていた。


 値札をつけられた心は、確かに傷つく。水三壺に、包帯二巻に、人の名前に、“いくら分”という数字がつくわけではない。


 それでも、名前を呼ばれた犠牲は、少しだけ守られた気がした。


「最後に、“返せないもの”」


 小山田が言うと、客車は本当に静かになった。


 誰も口を開かない。言葉を口にした瞬間、それは比べられ、測られ、交換の対象になってしまう気がしたからだ。


 代わりに、小山田はペンを止め、ページの余白に小さく線を引いた。


「今日奪われたもの。言葉にならなかった分だけ、沈黙として記録します」


 沈黙を数える。そんな馬鹿げた真似が、なぜか誰かの涙を食い止める。


 凪は目を閉じたまま、指先で床板の感触を確かめる。冷たい板の上に、誰かの足跡と、朝比奈の指の跡が残っていた。


 ふと視線を上げると、車内のあちこちに小さな印がついているのが分かった。


 窓枠の隅に小さな点。壁板の継ぎ目に短い線。床板の角には、かすかな矢印。


 凪は目を細めた。最初は落書きかと思ったそれが、決して無意味な配置ではないことに気づく。


「朝比奈さん」


 儀式がひと段落したところで、凪は小声で呼びかけた。


「この印、全部あなたのですよね」


 朝比奈は少しだけ肩をすくめた。


「よく見てるわね」


「方角の印ですか。ここが北。こっちが東。あと、これ……」


 凪は壁に描かれた矢印と数字を指差した。


「停止位置の癖。ブレーキをかけるタイミングのズレ。御子柴さんの“クセ”ですよね」


 朝比奈は軽く笑う。


「そう。線路の傾斜、レールの歪み、車輪の磨耗。全部を合わせて、どこでどれくらい減速するか測ってるの。そうすれば、次にこの列車がどこで止まるか、ある程度は予測できるから」


「占いじゃないんですね」


「占いに見せかけた技術。情報の切符って、そういうものよ」


 朝比奈の指先には、薄い黒い筋がいくつも走っている。石炭と鉄と油の匂い。機関室に出入りする者だけが持つ汚れだ。


 凪は、彼女がこの列車の“中身”を読もうとしているのだと改めて理解した。


「じゃあ、この列車が次に止まる場所も」


「だいたい、分かるわ」


 朝比奈はそう言って、天井の低い客車を見回した。


「問題は、そこに何が待っているか、だけど」


 楽士が弦を撫でる。音はもう流れない。夜はますます深くなり、灯りの外側で風が唸る。どこか遠くで、群れの声が微かに混じっていた。


 誰かが小さく咳をする。誰かが毛布を引っ張り合い、また分け合う。祈りというには頼りない儀式は、それでもこの夜を、どうにかひとつ手前で留めていた。


 沈黙が数えられているという事実だけが、今にも崩れそうな心の床を支えているようだった。


     ◇


 明け方、列車は無人の補給所に滑り込んだ。


 空は灰と同じ色で、夜と朝の境目ははっきりしない。ただ、冷たさの種類が変わった。静止した冷気から、動き出す冷気へ。凪はその変化で、夜が終わることを知った。


「次は……ここか」


 御子柴が運転席から出てきて、掲示板を睨みつけた。


 補給所と言っても、駅舎らしい建物はほとんど崩れている。かつて貨車の積み下ろしに使われたであろうプラットフォームだけが辛うじて残り、その端に立てられた掲示板に、白い文字が浮かんでいた。


 定員調整。十三名は不可。


 交換対象:乗客一名。


 物資による代替不可。


「ふざけてんのか」


 楽士が思わず口にした。誰も咎めなかった。


「物資では代替できない、って……」


 由衣が赤ん坊を抱きしめる腕に力を込める。


「ここまで来て、また誰かを降ろせって言うの?」


「言ってるのは、あの板切れじゃなくて、線路の向こうにいる誰かさ」


 御子柴はそう呟いた。目は笑っていない。


「だが、表示に従わなきゃ、この列車は動かねえ。ブレーキも、バルブも、勝手に固まる」


「ここで、決めるしかないのね」


 朝比奈が掲示板から視線をそらさないまま言った。


「どのみち、十三人のままでは先に進めない」


「だったら、私が……」


 由衣が震える声で言いかけるのを、吉良が止める。


「駄目です。赤ん坊を置いていく気ですか」


「でも、この子がいるから……」


「この子がいるからこそ、あなたは降りてはいけない」


 吉良はきっぱりと言った。いつもの柔らかさが消えた医者の声に、由衣は口をつぐむ。


 沈黙を破ったのは、小山田だった。


「公平のために、抽選を提案します」


 ノートを抱えたまま、彼は言葉を続ける。


「誰か一人を選ぶ必要があるなら、その選び方は“恣意”から最も遠いものであるべきだ。誰かの価値判断でなく、運に委ねる。そうでなければ、残された者は必ず誰かを恨む」


「運に任せても、恨みは残るわよ」


 朝比奈が静かに反論した。


「公平だからといって、納得できるとは限らない。投票も同じ。多数決で一人を選んだって、票を投じた指の重さは消えない」


「だからこそ、わたしは自選を募るべきだと思う」


 朝比奈の声は落ち着いているが、その奥に小さな苛立ちが見え隠れしていた。


「自分で選んだなら、恨みを向ける先は自分一人で済む。誰かのせいにしなくていい」


「そんなの、綺麗事だよ!」


 由衣が叫んだ。涙で目が赤くなっている。


「自分から降りますなんて、言える人がどれだけいるの? それを期待すること自体が、残された人に“罪”を被せることになる。自分を犠牲にしなかったのかって」


 客車の空気が一瞬凍った。


 凪は、由衣の言葉が正しいことを認めざるを得なかった。自分から“降りる”と名乗り出る勇気を持てる人間がどれだけいるか。それを期待してしまうこと自体が、何かを歪ませる。


「じゃあ、どうする」


 御子柴が短く問う。


「時間はない。ここでうだうだやってる間に、日が高くなれば、群れが動き出す」


 補給所の向こう、灰の丘の陰で、確かにいくつかの影が蠢いていた。まだ遠いが、太陽が上がれば、あいつらは匂いを頼りに集まってくる。


「抽選……だけ、でも駄目だ」


 凪は絞り出すように言った。


「技能の重さを、考えないと」


「技能?」


「看護。運転補助。警戒。乳児の世話。針仕事。音楽。どれも、生き延びるために必要だ」


 凪は車内の顔を一人一人見た。


「誰か一人が欠ければ、列車の形は変わる。だから、全員を同じ一票で扱うんじゃなくて……たとえば、最低限必要な役割には“免除票”を配るとか」


「最低限必要かどうかは、誰が決める」


 朝比奈が問う。


「あなた? わたし? それとも、多数決?」


「……それは」


 言葉が詰まる。結局、どこまで行っても、価値判断から逃れられないのだと、凪は嫌でも思い知った。


「贅沢品は、最初に切られる」


 楽士が自嘲気味に笑う。


「音楽なんてそうだろ。戦場でも、避難所でも、いちばん最初に削られるのは娯楽だ。俺が降りれば、他の技能は残る」


「音楽は、贅沢品じゃないよ」


 老女が首を振った。


「夜、音があると、眠れる。眠れなきゃ、朝には誰かが壊れるよ。壊れた人が一人出ると、それだけで全部が危うくなる。歌も音も、贅沢どころか、命綱みたいなもんさ」


 楽士は黙った。誰も、老女の言葉を否定できなかった。


 静寂の中、赤ん坊が小さくくぐもった声で泣いた。由衣が揺らし、吉良がその額に触れる。微熱。水と休息が必要だ。


「……最終的に、抽選でいい」


 朝比奈が沈黙を断ち切った。


「技能の重みを考えて、誰かを“外す”ための議論に入ったら、時間が足りない。あれが動く」


 彼女が顎で指した先、灰の丘の影がじわじわと増えている。


「そうね」


 御子柴がうなずいた。


「ここは、箱に頼ろう」


「箱はここに」


 兄の方が、壊れた木箱の一部を差し出した。中をきれいにして、小さな木片をいくつも削る。手先の器用な妹が、それぞれの木片に印を刻むための小さな傷をつけた。


「自分の木片に、好きな印をつけてください」


 吉良が説明する。


「ただし、他人に分からないように。自分だけが分かる印にして。抽選の時、不正があったかどうか確認できるように」


 凪は、自分の木片に薄い線を一本だけ刻んだ。木目と重なるように、ぱっと見では分からない位置に。万一誰かがすり替えを試みたとしても、触れれば分かるように。


 木片は一つずつ箱に落とされていく。コトリ、コトリ、と木のぶつかる音が、奇妙に規則的に響いた。


 全員の分が入ったのを確認すると、小山田が箱を両手で抱え、ゆっくりとかき混ぜる。


「誰が引きますか」


「わたしが」


 朝比奈が一歩前に出た。


「……公平じゃない、と思うなら、止めて」


 誰も声を上げなかった。凪は喉の奥が焼けるように痛くなりながら、それでも口を開けなかった。


 決めなければならない。誰か一人を。


 朝比奈の手が箱に入り、中を探る。木片が指の間を滑り落ち、そのうちのひとつが、彼女の指先に引っかかった。


 ゆっくりと引き上げられた木片。刻まれた印を、彼女は一瞬だけまじまじと見つめた。


 そして、名前を呼んだ。


「……小山田さん」


 ノートを抱えた男が、わずかに目を見開き、それからすぐに笑った。


「そう、きたか」


 誰かが何かを叫びかけて、やめた。


 自分の木片に刻んだ印と、朝比奈の手の中のそれが同じであることを、小山田は一目で理解していた。凪もまた、自分の木片ではないと分かった瞬間、体から力が抜けた。


「不正は?」


 御子柴が短く問う。


「ありません」


 朝比奈はきっぱりと答えた。


「箱は、わたしと小山田さん以外、誰も触っていない」


「そうか」


 小山田は、ゆっくりと立ち上がった。


 膝の上のノートが滑り落ちそうになるのを片手で押さえ、もう片方の手で眼鏡を直す。


「じゃあ、このノートの後は……」


 彼は周囲を見回し、凪の顔で止まった。


「君に、預けよう」


「え?」


 凪は目を瞬かせた。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。俺なんかより……」


「見ていたから」


 小山田は穏やかに言う。


「君は、印に気づいていた。朝比奈さんの印も、自分の指の震えも、人の視線の揺れも。記録には、そういう目が必要だ」


 ノートが、凪の胸の前に差し出される。


「続きは、君が書いてくれ」


 ページの端には、細かな字で、この数日間の出来事と交換の記録がぎっしりと詰まっている。その重みは、紙よりもずっと重い気がした。


「待ってください。まだ、戻る方法が……」


「戻る方法を探すのが、記録だよ」


 小山田は笑った。


「誰が、何を、いつ、どうやって失ったのか。全部書き残しておけば、いつか誰かが“間違い”に気づくかもしれない。間違いを見つけられれば、やり直す道も見つかる」


「でも……」


 凪はノートを受け取ったまま、首を振る。


「俺は、そんな大層な……」


「謙遜は日本の美徳だけどね」


 小山田は冗談めかして言った。


「今は、誰かが引き受けなきゃいけない。美徳より、役割が先だ」


 由衣が声を上げて泣いた。


「行かないでください。先生。まだ、教えてもらってないことがたくさんあるのに」


「君に“先生”って呼ばれたの、初めてだな」


 小山田は少し照れたように笑い、それから由衣の方を向いた。


「最後に、赤ん坊を抱かせてもらってもいいかい」


 由衣は迷い、震えながらうなずいた。


「でも、これは、その……」


「切符にしなくていい」


 小山田はそっと言った。


「これは勝手にする助けだ。支払う側も、受け取る側も、何も数えなくていい」


 由衣の腕から赤ん坊を受け取り、小さな体を胸に乗せる。赤ん坊はぐずりながらも、すぐに泣き止んだ。眠いだけなのだ。この世界の仕組みがどうなっていようと、眠い時は眠りたい。ただそれだけだ。


 吉良がそっと小山田の背に手を置く。


「血圧も脈も……問題ありません。外に出ても、しばらくは走れます」


「ありがたい。最後に役に立てそうだ」


 小山田は笑って赤ん坊を由衣に返した。


「さあ、時間がない」


 御子柴が短く言った。窓の外、灰の丘の影が少しずつ増えている。太陽が雲の隙間から顔を出し始めれば、群れは日向へ集まり始めるだろう。


「手順を確認するわ」


 朝比奈が言う。声は感情を挟まないほど冷静だった。


「一、対象者の降車。二、扉の閉鎖。三、発車。躊躇えば躊躇うほど、列車の動き出しは鈍くなる」


「あなたは……」


 由衣が震える声で叫ぶ。


「どうしてそんなふうに、淡々と……!」


「誰かが、進行役をしないと」


 朝比奈は由衣の視線を真正面から受け止めた。


「気持ちを挟めば、いつか誰かを優先してしまう。その方が、ずっと冷たい結果になる」


「分かってるけど……分かりたくないよ」


 由衣は泣きながら言った。感情と理屈の両方が正しくて、どちらも痛い。


 御子柴が視線で「早く」と促す。彼の手はすでにブレーキにかかっている。凪はノートを胸に抱いたまま、足が床に縫い付けられたように動けなかった。


「じゃあ、行ってくる」


 小山田は、誰も見ないところで小さく息を吐き、扉の前に立った。


 金具がきしみ、扉が開くと、朝の冷気が一気に流れ込んでくる。灰の匂い。燃え残りの匂い。外の世界の匂いが、まだこの列車と繋がっている証拠だった。


 ホームに降り立った小山田は、一度だけ振り返った。


 誰も手を振れなかった。振った瞬間、それは別れを認めることになる。認めたくなかった。


 それでも、扉は閉まる。


 御子柴がレバーを引き、金具が嚙み合う音が響く。車体がかすかに震え、ブレーキが解放される。


「出すぞ!」


 機関室から声が響き、列車がゆっくりと動き出した。


 凪は窓に額を押し当てた。冷たさが皮膚の内側まで染み込んでくる。


 ホームに一人取り残された小山田が、小さく手を振る。その口が、何かを言った。


 凪は唇の動きだけを読む。


 書け。


 それだけだった。


 灰の風が、小山田の姿を薄くしていく。補給所の影、群れの影、世界の雑音に紛れて、その姿はやがて見えなくなった。


 凪はノートを強く胸に抱きしめた。


 記録は、重い。ページをめくるたびに、人ひとりぶんの重さが喉を通らずに引っかかる気がする。


 けれど、誰かが数えておかないと、失われたものは簡単に値引きされてしまう。


 水三壺。包帯二巻。睡眠三時間。抱っこ二回分の肩の痛み。


 そして、人ひとりぶん。


 小山田のページの次に、凪は震える手でペンを走らせた。


 第三回定員調整。交換対象:乗客一名。氏名、小山田。役割、記録者。


 返せないもの。沈黙。


 インクが紙に染み込む音が、しばらくのあいだ、列車の軋む音よりはっきりと聞こえていた。

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