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終戦列車―乗客は十三人、定員は十二。誰かを降ろさなければ前へ進めない。  作者: 妙原奇天


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第2話 灰の切符

 列車が坂を上り切った時だった。床下の響きが軽くなり、客車全体に、わずかに浮き上がるような感覚が走った。さっきまでの重さがひとつ抜けたのだと、誰もが気づいていた。だが、その理由を誰も口にはしなかった。


 降りたのは一人。残ったのは十二人。そして赤ん坊一人。


 凪は窓の外を見つめていた。灰の丘はまだ薄暗く、風が吹くたび砂粒のような灰が舞い上がる。篠目が走り去った方角に、まだ黒い影が見えた気がしたが、次の瞬間には風に溶けて消えた。


 列車は進む。進まなければ、意味がない。


「さて、次の問題だ」


 朝比奈が静かに立ち上がった。列車の揺れでコートの裾が揺れ、通路の明かりを切り裂くように影が伸びる。


「問題?」


 吉良が問う。包帯を乾かしていた手を止め、耳を傾けた。


「このままじゃ、また同じことになる。次の交換でも、その次でも。必要なのは、負担を均等にする仕組みよ」


 朝比奈は、鞄から紙片を数枚取り出した。灰にまみれた手つきだったが、動作は妙に器用で速い。


「名付けて、灰の切符」


「切符……?」


「あなたたちが提供できるものを、全部“単位”にするの。水一杯、力仕事一回、警戒当番一時間、看護、読み聞かせ、抱っこ代行、歌、話し相手、情報……」


 列車が上下に揺れ、小山田の眼鏡の奥が鋭く光る。


「人間の優しさまで、通貨にするのかね?」


「通貨にしなきゃ、奪い合いになる」


 朝比奈は一歩も引かなかった。


「誰かが何を差し出して、誰がどれだけ受け取っているのか。それを“見えるもの”にしないと、人は自分だけが損をしていると思い始める。善意は、数えられないと、すぐ壊れるの」


「数えることで壊れることもある」


「壊れる前に、均す手段が必要なの」


 議論の途中、乳児が咳をした。すぐに由衣が抱き直し、布で口を覆う。


「……わたしは賛成です」


 由衣はかすれた声で言った。


「抱っこも、授乳も、看病も、今は全部わたしがやっている。でも、誰かに手伝ってって言うと、わたしが甘えているみたいで……。切符があれば、助けてもらいやすくなる気がする」


「由衣さん……」


 凪が声をかけかけた時、御子柴が運転席から顔を出した。


「切符なら、恩も借りも明確だ。曖昧な善意は争いを生む。やるなら早いほうがいい」


 意外にも御子柴が賛成したことで、車内の空気が変わった。


「では、一人ずつ。自分の“出せるもの”を切符に書いて」


 朝比奈が言うと、みんなが紙片に向かった。


 吉良は包帯を丁寧に切り分け、小袋に詰めて「応急処置一回」を一枚にした。楽士はケースから小さな笛を取り出して、「夜の演奏十分」を一枚に。老女は針と糸を出し、「ほつれ直し一着」。


 兄妹は力仕事の手伝いを数枚、凪は「巡回」と「見張り」。凪の丸い字を見て、朝比奈が小さく笑う。


「あなたの字、真面目ね」


「そうですか」


 凪は照れるでもなく返した。戦地では、字を書く時間などほとんどなかったが、母から教わった筆の癖だけは忘れていなかった。


「御子柴さんは?」


「運転は交換不可だ。代わりはいねえ」


「それで十分よ。存在そのものが切符の上位互換だしね」


 朝比奈は彼女自身の紙を掲げた。


「わたしは“情報”を出すわ。次の駅の位置、停車の兆候、線路の状態の読み。欲しい人には切符で渡す」


 楽士が眉を上げる。


「情報ねえ。どこから仕入れてるんだ?」


「秘密よ」


 その言い方は軽いのに、どこか本気の匂いがあった。


 凪はふと、彼女の指先の黒い汚れに気づいた。煤が薄く筋になって残っている。あれは……機関室に入った時につく汚れだ。


 誰にも許されないはずの場所に、朝比奈は出入りしているのか?


 疑問が胸に溜まるが、今は聞けなかった。


────────────────────

◆ 停車場の条件

────────────────────


 二時間ほど進んだところで、列車は速度を落とした。鉄くずを噛むような音が車輪に走り、御子柴が深刻な顔で声を張り上げる。


「次の積み下ろし場に入るぞ。準備しろ」


 窓の外に見えたのは、小さな廃駅だった。駅舎は傾き、屋根は落ちかけ、古い貨物リフトだけが奇跡的に残っている。


 掲示板には、新しい文字が浮かんでいた。


 水三壺と引き換えに、石炭一籠。


「また交換か」


 凪は思わずつぶやいた。


「水三壺って……」


「無理だよ。ほとんど残ってないのに」


 由衣が赤ん坊を抱き締めた。赤ん坊の頬は乾ききっており、泣く気力すらないように見えた。


「ここ……タンク残ってる」


 吉良が駅舎脇の影を指差す。そこには確かに巨大な水タンクがあったが、半分ほど凍りつき、底には濁った灰が沈んでいる。


「濾過しよう」


 吉良が言い、砂と布と炭で急造の濾過器を組み始めた。手際が良い。どうやら医療だけでなく、災害時の生活知識も豊富らしい。


「じゃあ、汲みに行くぞ」


 凪は巡回係として立ち上がり、兄妹、楽士、老女に声をかける。


「交代で行きましょう。一度に全員いなくなると危ない」


 積み下ろし場には、かつての貨物の匂いが残っていた。木箱の破片、油の染みた布、凍りついた縄。凪たちは交代で水を汲み、吉良の濾過器に流し込み、壺に移した。


 朝比奈はひたすら時間を計っていた。腕時計はもう止まっているはずなのに、彼女は目盛りを読むように時計盤を見続ける。


「“群れ”はまだ遠い。今のうちに」


 指示は迷いがなかった。


 小山田は駅舎の壁にもたれ、日誌をつけていた。彼は環境の変化に敏感で、乗客たちの視線が互いを値踏みするように変わっていく瞬間を、痛いほど正確に观察している。


「人は……こんなに早く、人を計算するようになるのか」


 つぶやきは誰の耳にも届かない。


────────────────────

◆ 優しさの価格

────────────────────


「……わたし、本当にこれを“切符”にしていいのかな」


 由衣が、乳児を抱いたまま凪に問うた。濾過作業がひと段落し、休憩のために座った時のことだ。


「抱っこ代行一回って、書いたけど……わたしの子を“負担”に換算してるみたいで」


「誰もそんなふうに思わない」


 凪は即答した。


「みんなが助けられるきっかけになるなら、切符は悪いもんじゃない。手伝ってほしい時に、頼みやすくなるだろ」


「……そう言われると、少し楽になります」


 由衣はかすかに笑った。だがその直後、赤ん坊がまた咳をし、すぐ表情が曇る。


「もう少し。水を持ち帰れば、少しは楽になるはずだ」


 凪が言った時だった。


「できたぞ!」


 楽士が声を上げ、濾過器の下の壺を掲げた。透明とは言えないが、飲める程度には澄んでいた。


「三壺、確保だ」


「よし、運ぼう」


 全員が力を合わせ、壺を列車へ運んだ。


 御子柴がその量を確認し、硬い顔を少しだけ緩める。


「これで……一籠、手に入る」


 だが、その時。


 掲示板の文字が、じわりと滲んだ。


「……今、見た? 書き加えられた?」


「いや……誰も近づいていないはずだが」


 文字は、まるで指でなぞられたように輪郭がかすれ、筆圧のムラが怪しく揺れていた。書かれたばかりのような生々しさだった。


 朝比奈が近づき、滲んだ部分を指でそっとなぞる。


「この筆圧……内部の人間が書いたものね」


「どういう意味だ」


「外部に書けるわけない。寒さで凝固した灰の膜の下に書かれている。誰かが自分の手で、列車が停車した瞬間に書き換えてる」


 車内に緊張が走る。


「誰が……?」


「いつ……?」


 誰も答えられなかった。


────────────────────

◆ 終着のない列車

────────────────────


 石炭一籠を積み、列車は再び動き始めた。凪は、朝比奈の横で小声で問いかける。


「なあ、本当に……行き先を知ってるのか?」


 彼女は笑った。寂しげで、どこか達観した笑みだった。


「知っているわけじゃない。ただ、終着がある列車は途中で“人を奪わない”。これは、奪うために設計された列車よ」


「設計……?」


「誰が、とは言えない。けれど、乗る人数を調整し続ける列車なんて、普通は存在しない」


 背筋が冷えるような感覚が、凪の中を走った。


「つまり……篠目さんの降車も?」


「ええ。最初の“調整”。次もあるわ。たぶん、また次も」


 列車の外、灰の海が続いている。空はどこまでも白く、世界の端まで同じ景色が続くように見えた。


 小山田は倫理の講釈をやめ、ただ窓の外を見つめていた。静かに、諦めたように。


 その時、凪の視界の端で煙が揺れた。


「……あれ」


「どうした?」


「別の線路から……煙が上がってる」


 遠く、別のレールの上に、黒い煙が一筋立ち上っていた。ゆっくりと移動している。煙の濃さから見て、別の列車だ。


「まだ……生きてる列車があるのか?」


「かもしれない。でも、追うべきか、避けるべきか……」


 朝比奈は目を細める。


「答えは、次の交換が決めるわ」


 凪は拳を握り締めた。


 交換が続く限り、この列車は誰かを奪い続ける。


 そして、次の駅がどんな交換を要求してくるのか、それはまだ誰も知らない。

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