第1話 「空白の一席」
灰は、雪みたいには美しくなかった。
夜がほどけかけた廃駅のホームで、凪は軍靴の紐をほどき、片足ずつ抜き取ると、そのままレールに素足を下ろした。冷たさというより、硬さが骨に伝わってくる。油も血も、何度燃やされても染みついたままの鉄の感触だった。
息を吐くと白くはならず、代わりに灰がふわりと舞い上がる。遠くで燃え残った家屋がまだ燻っているらしく、焦げと薬品の匂いが風に混じる。ここはもう駅ではない。ただ、戦場を通り過ぎてきた列車が、たまたま止まった場所にすぎなかった。
ホームの端。色褪せた掲示板に一枚だけ残った貼り紙が、風に揺れている。
定員十二名。安全を確保して乗車せよ。
文字の上から、誰かが鉛筆で雑に線を引いていた。十二の横に、幼い手つきで書き足された「+1」が、いまはみすぼらしく黒ずんでいる。
「定員オーバー、なあ」
背後から聞こえたしゃがれた声に、凪は振り向いた。
機関士の御子柴が、車両の影にもぐり込むようにして、汽笛の弁をいじっている。油で黒く光る手がテコを引くと、短くしゃあっと蒸気が漏れた。汽笛は鳴らない。燃料が足りないのだと、音のしない音が告げている。
「石炭庫、見せてください」
凪が言うと、御子柴は渋い顔で顎をしゃくった。
「見るだけ無駄だがな」
貨車を改造した客車の後ろ。開けっぱなしの石炭庫の中は、凪が思っていた以上に心許なかった。黒い塊が底に張り付くように少しと、砕けた粉が薄く被さっているだけだ。
「これじゃ、次の給炭所までは持たない」
「給炭所なんて、もうどこにも残っちゃいねえよ」
御子柴は肩をすくめた。煤けた顔に、煤とは違う深い皺が刻まれている。
「軽くしなきゃ進めない。貼り紙にもそう書いてあったろ。定員十二名、安全を確保して乗車せよ。十二ってのは、そういう数字だ」
そう言って顎で示された先、ホームに停まっている客車を凪は見た。
鈍い色の車体。割れた窓を板で塞いだ即席の装甲。ドアは片側だけが半開きで、壊れかけた喉から「待て」と言うみたいな軋んだ音を漏らしている。
その中に、十三人の人影がある。
凪は靴を片手に持ち、もう片方の手で車体を押さえながら、半開きのドアをくぐった。
車内の空気は暖かかった。暖かいと言っても、暖房が効いているわけではない。十三人分の体温と、しばらく燃やされていない石炭炉の残り火の名残が、わずかな湿り気となって肺にまとわりつく。
窓際、扉の近くに立っていた男が振り向いた。髪を短く刈り込み、軍用コートの上から私物らしい布を巻いている。肩の線がまっすぐで、腰に吊るされたホルスターの癖が、凪には見慣れたものだった。
「戻ったか」
篠目が言った。声は淡々としているのに、指先だけがかすかに震えているのを、凪は見逃さない。
「線路の先は?」
「灰。いつも通り」
凪は短く答えると、車内中央の掲示板に目をやった。
そこには、本来なら旅館の広告や、観光ポスターが貼られていたはずだ。いまは剥がされた紙の跡がまだらに残っていて、その上から、白い何かが浮かび上がっているように見えた。
チョークだった。誰かが、さっきまで書いていたような生々しさで、文字を走らせている。
定員十二。余剰一。交換条件:降車一名、もしくは石炭二籠。
凪は思わず息を呑んだ。
「……いつ、これ」
「さっきだよ」
低い声で答えたのは、通路側の座席に腰掛けていた女だった。深く被った帽子の下から覗く目が、凪を上から下までなぞる。
「あなたが線路を見に出ていったすぐ後。気がついたら、こうなってた」
朝比奈。年齢は凪より少し上か。軍の服ではないが、背筋に自然と余計な力が入っていないあたり、ただの民間人ではないと分かる。
「石炭二籠なんて、どこにもねえ」
御子柴が車内に入ってきて、ぼやくように言った。
「一籠分でやっと、さっきの駅まで逃げてきたんだ。二籠あったら、とっくに海まで行ってる」
「じゃあ」
誰かの喉が鳴った。凪がそちらを見ると、通路側の座席に小さく身を縮めた老女がいた。その膝には幼い男の子が座り、老女の袖を握りしめている。
「じゃあ、誰かが降りるしか、ないんだねえ」
老女の声は震えていたが、目は意外なほどに澄んでいた。
「わたしが降りようか」
孫の肩を抱きしめたまま、老女はそう言った。車内の空気がきゅっと縮む。
「駄目です」
真っ先に遮ったのは、通路の反対側にいた男だった。眼鏡の奥の目が血走っている。小山田、と皆が呼んでいる男だ。元教師だと聞いたが、いまはその肩書きも灰の下に埋もれている。
「倫理は、多数決ではありません。弱い者が先に犠牲になるような選択を、わたしたちは許してはいけない」
言いながら、小山田は自分の言葉の鋭さに怯えたように目を伏せる。唇が噛みしめられ、白くなっていた。
「でも、誰かが……」
「だからこそ、決め方が必要なのよ」
朝比奈が椅子から腰を上げ、通路に出た。長いコートの裾が揺れる。
「くじにするのか、体力検査にするのか、技能評価にするのか。方法によって、選ばれる人間は変わる。方法を決める前に、結果を急げば、それこそ弱者から切り捨てられていく」
「そんな時間、あるのか?」
篠目が静かに言う。その視線は窓の外、まだ薄暗いホームの先を見つめていた。
「外を見てみろ。あれがここを見つけるまで、あとどれくらいか」
凪もつられて窓の外を見た。
線路の先、灰でできた砂丘の向こう。黒い影が、うごめいている。
人か獣か、影だけでは判別できない。けれど、その動きは迷いなく、一定の速さでこちらに近づいてくる。風に乗って、何かが擦れるような音が聞こえた。かつては人だったものが、飢えと病と戦火に形を変えられてしまった存在。彼らを、誰かは「群れ」と呼び、誰かは「難民」と呼ぶ。
名前が変わっても、脅威であることだけは変わらなかった。
「駅に止まっていれば、ここはすぐに群れの餌場になる」
篠目が淡々と告げる。
「誰が降りてもいい。だが、誰も降りなければ、ここにいる十三人と、一人の赤ん坊は、等しく食われる」
窓際の席で、由衣がぎゅっと腕の中の乳児を抱きしめた。赤ん坊は咳をひとつして、か細い泣き声を漏らす。隣に座っていた吉良が慌てて布を取り出し、小さな口元を覆った。
「すみません、咳が……。でも、この子は、連れていかなきゃ」
由衣は自分に言い聞かせるみたいに繰り返す。目の下に濃く刻まれた隈が、徹夜続きの看病を物語っていた。
「赤ん坊のいる人は、残すべきだ」
凪は気づけば口を開いていた。
「この先がどうなってるか、誰も知らない。だけど、少なくとも、あの群れよりは、車両の中の方が安全だ。せめて、未来のあるやつから守らないと」
その言葉に、車内の視線が一斉に凪に集まる。安堵の色と、反感の色と、どちらも混じっていた。
「じゃあ、未来のないやつから降りろってこと?」
楽器ケースを膝に抱えた男が、皮肉っぽく笑った。楽士だと名乗ったその男は、ついさっきまでは穏やかな表情で口笛を吹いていたのに、いまは目の奥に薄い棘を隠している。
「音楽家とか、教師とか、役に立たなそうなのから順番に」
「そんなつもりで言ったんじゃ……」
凪は言いかけて、言葉を飲み込んだ。喉のあたりが熱い。戦場では、もっと多くのものを捨ててきたはずなのに、今さら、たった一人を選ぶことがこんなにも苦しいとは思わなかった。
「……決め方が要るのは、確かだな」
御子柴が頭をかいた。油で固まった髪が、がさがさと音を立てる。
「だが、どんな決め方でも、恨みは残る。くじを引けば、運を恨む。体力なら老いを、技能なら生き方を。それでもやるか?」
「やらなきゃ、全員凍える」
朝比奈が静かに言った。彼女の目は、誰を見るでもなく、掲示板のチョーク文字を見つめている。
定員十二。余剰一。交換条件。
外から、かすかに金属の擦れる音が聞こえた。線路の上を、何かが這い寄ってくる音かもしれない。時間が、確実に削れている。
「時間切れだな」
篠目がぽつりと言う。その声に誰も反論しなかった。
「交換するしかない。誰か一人、ここに残るか。全員で凍えるか」
車内の空気が、ぎしりと軋んだ気がした。
老女が、そっと立ち上がる。
「やっぱり、わたしが……」
膝の上の孫がぎょっとした顔で老女を見上げる。
「おばあちゃん、やだよ。いっしょに行くって言ったじゃん」
「ごめんねえ。でもねえ……」
老女は孫の髪を撫でる。その手が、かすかに震えている。
由衣が席を立ち、老女と孫の間に手を差し入れた。
「待ってください。おばあさんが降りる必要はありません。孫さんから、家族を奪うなんて」
「いいや、家族を奪うのは、ここにいる誰かだ」
低い声が割り込んだ。篠目だった。
彼は老女の肩にそっと手を置き、その体を静かに座席へ戻していく。
「俺が行く」
凪は思わず、篠目の顔を見た。
「ちょっと待て。なんで、あんたが」
「理由が必要か?」
「理由なしで死にに行くなよ」
「死ぬとは限らないさ」
篠目はわずかに笑った。その笑みは、冗談には見えなかった。
凪の目が、無意識に篠目の装備をなぞる。軍用のコート。擦り切れてはいるが、まだ防風性は保たれている。腰にはホルスター。中身は空っぽだが、ホルスターの癖が、彼が最近まで銃を持ち歩いていたことを示している。背負った鞄からは、折り畳み式のスコップと、いくつかの缶詰が覗いていた。
兵の装備だ。他の誰よりも、外で生き延びられる可能性がある。
「外で群れを引きつける。こっちと逆方向に。そうすれば、あんたらはこの列車で、反対側へ逃げられる」
「そんなことをして、あんたは……」
「俺のことより、赤ん坊のことを考えろ」
篠目は由衣の腕の中を一瞥した。乳児は疲れたように眠っている。頬はこけているが、それでも小さな胸は規則正しく上下していた。
「それに」
篠目は、わざと軽い口調で続けた。
「俺は軍を抜ける時、上官に言われたんだ。お前みたいなやつは、どうせいつか勝手に命を捨てるってな。そう言われたまま終わるのも癪だから、せめて誰かの役に立つ場所で捨てさせてもらう」
「そんな理由、認めない」
小山田が震える声で言った。
「自己犠牲は美徳じゃない。あなた一人が正義を引き受けることも、免罪符にはならない。わたしたちは、ちゃんと話し合って……」
「話し合っているうちに、外が追いつく」
篠目の冷静な一言に、小山田は言葉を詰まらせる。
窓の外の黒い影は、さっきよりもはっきりと輪郭を持っていた。腕や足の形が見える。何人も、何十人もが、何かを求めてこちらへ手を伸ばしながら、重なり合い、倒れ、また起き上がっている。
朝比奈が、静かに目を伏せた。
「……御子柴さん」
「なんだ」
「篠目さんが降りたら、この列車は、次の駅まで行けますか」
御子柴は一瞬だけ目を閉じ、石炭庫の残量を頭の中で計算するような顔をした。
「行けるかどうかは、分からん」
正直な答えだった。
「だが、今のままでは確実に無理だ。ここの坂を上り切るだけの余力がねえ。軽くすりゃ、可能性は増える」
「可能性」
朝比奈がその言葉を繰り返す。
車内の誰もが、その言葉にしがみつきたくなっていた。可能性。まだ見ぬ駅。まだ燃え尽きていない街。まだ消えていない誰かの名前。
「分かりました」
朝比奈は顔を上げ、篠目を真っ直ぐ見た。
「あなたが行くなら、わたしは止めません。その代わり、これは、わたしたち全員の決定です。誰か一人が勝手に飛び降りた、という話にはしない」
そう言って彼女は、車内を見回した。
「反対の人は?」
沈黙が降りた。
誰も、手を挙げない。挙げられなかった。
凪は拳を握りしめた。心のどこかで、誰かが反対してくれることを期待していた。しかし、自分自身も、手を挙げることはできなかった。
自分が代わりに降りる、と言うことも。
「……ずるいな、俺たち」
楽士がぽつりとつぶやく。誰も、その言葉を否定できなかった。
「じゃあ、決まりだ」
篠目は短く言った。
「御子柴。石炭を少し、俺にくれ」
「石炭を、か?」
「火を起こす。煙が上がれば、群れはそっちに引き寄せられる。この列車が見つかる前にな」
御子柴は迷った末に、石炭庫からひとかたまりを取り出した。篠目の掌に乗せると、黒い粉がぱらぱらと床に散った。
「こんなもんしかねえが」
「十分です」
篠目は石炭を布に包み、鞄に押し込んだ。
「次の駅まで、行け」
御子柴にそう告げる声は、命令でも懇願でもなく、ただ事実を述べるように平坦だった。
凪の目が、篠目と合う。
「本当に、行くのか」
「お前が止めてくれりゃ、やめるかもな」
篠目は冗談めかして言う。その目には、期待も、恐れも、何も浮かんでいないように見えた。ただ、何度も死を見てきた人間の、静かな諦めだけが宿っている。
凪は唇を噛んだ。
戦場で、何度も引き金を引いた指が震える。あの時は、銃口の向こうにいたのは顔も知らない敵だった。今ここで、引き金を引くことはできない。だが、引き金から指を離していることも、また誰かを殺すことになる。
「……ごめん」
やっと絞り出せた言葉は、それだけだった。
「謝る相手を間違えるなよ」
篠目は、ほんの少し笑った。
「謝るなら、生き延びた後で、誰かにしてくれ」
そう言って、扉の方へ向き直る。
御子柴が運転席に戻り、ブレーキを少しだけ緩めた。車輪が短く泣き、車体がわずかに前へと身じろぎする。その動きに合わせて、全員の視線が前へ引っ張られた。
線路の先。灰の砂丘の上を、黒い群れがなおも近づいてくる。
時間は、もうない。
「開けるぞ」
御子柴が叫び、扉のレバーを引いた。
錆びた金具が悲鳴を上げ、扉が外に向かって開く。灰の冷たい匂いが、一気に車内へ流れ込んだ。
篠目は一歩、外へ踏み出す。
灰が足首まで積もっている。踏み込んだ瞬間、細かな粒がかすかに音を立てて舞い上がる。彼は深く息を吸い込んだ。肺の中まで灰が入り込んでくる感覚に、咳き込みそうになるのをこらえる。
「じゃあな」
誰に向けた言葉かも分からないまま、篠目はそう言って、群れとは反対の方向へと駆け出した。
重さが一つ、列車から外れる。
凪には、その瞬間が、身体ごとぐらりと傾くように感じられた。実際に揺れたのは列車の方なのに、自分の方が落ちそうになる。
御子柴がブレーキを解放する。蒸気が軽くなり、連結器がかちゃんと鳴って、車輪がゆっくりと回り始めた。
「出るぞ!」
運転席から御子柴の怒鳴り声が飛ぶ。
列車が、廃駅を離れていく。
窓の外で、篠目の背中がだんだん小さくなっていく。灰の中を走るその姿は、すぐに黒い群れの影と紛れて見えなくなる。
朝比奈が、窓ガラスにそっと指を伸ばした。指先で、小さな印をつける。丸でも、十字でもない、小さな点のような印だった。
「それ、何ですか」
凪は思わず問う。
「数えた印よ」
朝比奈は窓から目を離さずに答える。
「失ったものを、忘れないための」
凪はその意味を、まだ深くは理解できなかった。
ただ、列車の軋む音と、遠ざかっていく廃駅と、胸の奥に残った重さだけが、やけに鮮明だった。
これは、始まりの交換だ。
帰れない線路に、もう戻らない魂を置いてきた。誰も拍手はしなかった。歓声も、涙もない。ただ、誰もが前を向くことを選び、後ろを見ないふりをした。
静かに走り出した列車の中で、御子柴だけが計器をにらみつけ、朝比奈は指先でつけた小さな印をなぞり続けていた。
凪は裸足のまま、冷たい床に立っている。
撃たないと決めた指が、まだ震えていた。




