馬糞靴とダンスレッスン
2.
———あ、ダンゴムシ。
水はけのいいツヤツヤしたオレンジ色のタイルの白い溝に、すっぽりはまったそれにカミラは気が付いた。
大通りにカフェーが出来たと教えてくれたのはユヒルで、メニューを見て朝食を食べたいと言ったのはカミラだった。
とっくにモーニングタイムは終わり、街路に面したテラス席でカミラは三杯目のコーヒーに口をつけてからちょっぴり飲みすぎたと後悔した。カフェインの摂りすぎは胃に良くない。
それもこれも、すべてユヒルのせいだ。まあ、約束の時間通りに彼が来るはずもないことはカミラもわかっていたし、そもそもユヒルが話を聞いていたのかすら怪しいけれど。
カミラはコーヒーを脇に追いやり、書きかけの書類に向き直る。入庁したときは肩が外れるほどたくさんの書類があったが、辞めるのに必要なのはたったこれだけか……。なんだかあっけない。
数え間違いがないか改めて枚数を確認した。もちろん、辞める時期はもう予め相談していた。カミラはこれを書き終えたら、研究に夢中で引きこもりの家に行こうと決めてもう一度哀れなダンゴムシを見やる。結局、溝から動かなくなったらしい。まるでユヒルみたいだと思った。
夢中になるとダンゴムシのように長身をまるめて、猫背になるから。
◇
結局、学院を卒業するまでカミラが首席の座を奪い返すことは叶わなかった。
負けるたびに悔しがってみせたが、子どもの頃のような熱量はなくなっていった。だって天才は掃いて捨てるほどいる。その証拠にカミラが次席をキープし続けるのは難しくなっていった。
というか、ユヒルもずっと首席でいた訳ではなかった。学年が上がり、研究と実験が主になるにつれ、成績が純粋な才能とは結びつけられなくなっていった。
魔術は机上の理論にとどまらない、生きた学術なのだという最初の教えが身にしみた。
だが、学年が上がるごとに、ユヒルに文句をつける者は増えた。ようは、嫉妬で腐しているのだ。カミラに言わせれば、自分の凡人ぶりを認められない未熟者のすることだった。
それでも、ユヒルの研究はカミラにいつも新鮮な驚きと好奇心を与えてくれた。
魔力に干渉して魔獣を無力化する魔術は卒業論文として注目を集め、また同時に物議を醸した。これが対人になった場合の影響はどれほどのものなのか。そもそも扱える魔術師がユヒル以外にいるのか。国内外で相当な議論が交わされ、国としてこの研究を認めるべきか問われた。
天才をすぐそばで見続けてきたカミラにもその恐怖は分かっていた。好奇心に突き動かされれば人は簡単に倫理の垣根を飛び越えられる。
でも、そんなのユヒルに限った話じゃないわ。
人間は誰しも自分を正当化して人を人とも思わない所業を犯せる。その後ろめたさを軽くしたいから、人々は突いても文句を言われない平民のユヒルを特別に冷酷な魔術師に仕立て上げる。
彼が口さがない連中に「卑しい商人め」「平民のくせに」「凡人に成り下がった」と吐き捨てられるたび、カミラは何だかユヒルに試験で負けるよりよっぽど悔しくてたまらなかった。
ユヒルは「こんなもんだよ、平民相手にしたお貴族さまなんて」と気にもしていない。それもまた腹が立った。カミラたちより上級生の貴族子息に「化け物」や「非人」と揶揄われていると知った時は、我慢が限界を超えた。
何もできないユヒルの代わりに、貴族らしい仕返しをすることにした。
貴族とは表立って罵倒されると大事にしなければならない生き物だ。だが、逆に、裏で家名を傷つけない程度の嫌がらせなら許されるという摩訶不思議ルールもある。
ユヒルは「キリがない」と面倒臭がったが、カミラは引かなかった。だって、ユヒルは化け物なんかじゃない。
まず、あらゆる姑息な手で、標的のすっと高い鼻を鼻炎で利かなくさせた。
次に、卒業パーティー当日に給仕役のユヒルに、わざと標的の靴を汚させて、本番直前で履き替えさせるよう誘導した。カミラが控えの間で、馬糞に浸した革靴と入れ替えて、標的に履き替えさせる。グニュとかグニャとならないように慎重に量を考える徹底ぶりだ。
そうして、嗅覚の死んだ標的は何の疑問も持たず馬糞靴でダンスパートナーの前に戻った。
標的、もとい年頃の男子生徒は、さっきまで良い雰囲気だったパートナーに触れるなり、いきなりワインをかけられて、暴漢よろしく悲鳴を上げられた。いろんな方面から罵倒が飛び、学友からも最後まで「馬糞男」と呼ばれ、恥ずかしい記憶に残った。
ちょっとやりすぎたかなとも思ったけど、ユヒルと二人でお腹を抱えて笑った。
断片的な話を合わせると、ユヒルはずっと孤独であったらしい。深い両親の愛情に包まれて育ったカミラとは全く違う、人の優しさや父母の愛とはほど遠い人生だったようだ。そんな中でたまたま魔術書と出会い、才能が開花し、その芽に大成の兆しを見出した大商人の養い親と出会った。それまでのユヒルの人生にいたどんな大人たちよりよほどいい養父母であったという。
けれど、才能を見込まれることは無条件の愛とはいえないとカミラは思う。
それに、才能を磨けば磨くほどユヒルはさらに冷たい孤独の中に身を投じることとなるだろう。そんな彼に、カミラは父母から注がれた愛情や人間の可能性を知って欲しかった。
単なるユヒルへの同情や友人としての優しさゆえではなく、両親を亡くした日に寄り添ってくれた彼への恩返しと、カミラの大好きな父母を、父母の教えを誰かにも覚えていて欲しかったのだ。
ユヒル・ヴェディエットが天才であることは一目瞭然だ。それは身分ごときで蔑ろにされていいものではない。
独学での基礎魔術理論の読解と実践、応用ていどの並の神童でもできることを指して、彼を天才と言っているのではないのだ。基礎魔術の理論そのものを分解し、数量化し、新たな理論を打ち立てた偉業は後世まで語り継がれるだろう。
彼の生み出す新しい魔術研究と予測不能な思考回路は、一度はなれかけたカミラを再び魔術世界に引きつけ、とらえ続けている。
それなのに、周囲のやっかみでユヒルがただの天才に成り下がられては困るのだ。ましてや揶揄い半分の呪いの言葉で、彼を本物の怪物にさせるわけにはいかない。
勝手な理想を押し付けていることは、カミラにも分かっている。だからユヒルにうざがられようとも、彼の行儀作法や身なりに口を出し手を出して、いずれユヒルがただの魔術師なり研究員なりになっても、または官吏になっても困ることはないように、最低限の教養を与えてきた。
それに、ユヒルなら一代限りの男爵位くらいは堅いと、カミラは確信していた。そうなったときに頼りにならないで困るのは、のちのち迎え入れた奥方だろう。
ユヒルが誰かと結婚するなんて想像できない。でも、もし、ユヒルが他の誰かの手を取ったら……。カミラの胸はずくずくと痛んだ。
馬糞靴から数年。
自分たちの卒業パーティーまで半年を切ったところで、ユヒルが踊ったことがないという衝撃の事実を知った。
驚いたカミラは、思わず彼の顔をわしっと掴んだ。
「せっかく顔が良いのに!」
「かお」
「もったいない!」
すぐに彼から本を取り上げて、ダンス特訓時間を作った。
やる気の全くないユヒルは、ぬるく逃げ回って、形ばかりの抵抗をした。だが長い付き合いだ。カミラが一度やると決めたら譲らないとユヒルにも骨身にしみて分かっていたらしい。
カミラが手を取れば、ユヒルも渋々ながらいつだって立ち上がり、付き合ってくれた。
その頃にはもう、ユヒルとの身長差は頭ひとつ分以上開いていたから、カミラは何度も彼の胸板におでこをぶつけつつ、めいっぱい手を伸ばして教えた。
「わかったっ?」
ひとり息を切らせながらユヒルを見上げると、彼は必ず目を離さずに見つめ返していた。
そのせいでカミラの胸はよけいにドキドキと早くなって仕方なかった。
「聞いてるの、ユヒル」
「んー、いまいち」
「もう!」
ユヒルはやる気さえあればすぐに呑み込めるのだ。やる気さえあれば。
だが、カミラが教えることにはきまって最低三回は聞き流してしまうみたいで、彼女は根気よくくりかえし教えた。
「もう一回やるから、ちゃんと見ててよね」
カミラが睨むように「いい?」と見上げて催促すれば、ユヒルも「うん」と優しく答える。お返事どおり彼の目だけは、カミラの一挙手一投足を見逃すまいと、いっときも離れない。なのに、覚えてくれない。でも、見てはいる。だからカミラは怒るに怒れないし、熱い眼差しを逃したくなくて何度も教えてしまうのだ。
ただ、彼女の脚が本格的に悲鳴を上げたころになると、ユヒルは完璧に踊れるようになった。へとへとになるカミラが面白くてわざとやってるんじゃないかと、彼女は疑ったものだった。
ともかく、カミラの目標は達成した。
出来がいいんだか悪いんだかよく分からない弟を育て上げた気持ちになったカミラは、満足感に満ち溢れていた。
そして、大事なことを忘れていた。ユヒルにかまけて、自分のお相手探しを忘れていたことに遅まきながら思い出したのだ。
誰に頼めばいいのかとカミラが慌てた頃、ユヒルから同伴のお誘いが届いて大いに驚いた。
だって、ユヒルに手紙の書き方、同伴の誘い方、花の選び方、貴族子女なら親戚の指南役に教わることを教えたのはカミラ自身だ。
一般的にはこうだけど、お相手の好みに合わせなさいねと言い添えるたび、
「カミラは何が好きなの」
とユヒルが必ず聞くので、カミラは馬鹿正直に答えていた。
だが、まさかそれを全て揃えて誘いに来るとは思わなかった。
その頃にはもう、ユヒルへの恋心を自覚していたカミラはとっても嬉しくて舞い上がった。と同時に、まさか誰を誘ったらいいか分からなくてカミラに決めたのかと、先生としては教育不足に焦った。
カミラはちょっとユヒルのお姉さんのような気分だったのだ。




