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楡の木の下で


 よく晴れた夏の昼下がりだった。

 先週、本土を襲った豪雨が嘘のように、空が澄んでいる。カミラがこの世の無常というものを感じたのは、たぶん、あれが初めてだった。


 人目を憚り、校舎の裏にある森へ抜ける楡の木の下で一人、カミラはこっそり泣いていた。

 眼下には凪いだ海と薄汚れた海岸があり、パン屑を落としたように小さな人々が船に乗り込んでいるのが見える。

 ロケットペンダントを握りしめる手が震えた。両手の爪が甲に食い込んでいても、離すことなどできなかった。

「やっと見つけた……」

 耳慣れた声に顔をあげれば、いつもの涼しい顔に少し汗をかいたユヒルが立っていた。むかしは小さかった天才少年は、あの頃には身長すらカミラを追い越していた。

「何でここなわけ?」

「……あなたこそ、何でいるのよ」

 涙を見られまいと、顔を海の方へ向ける。

 今日も今日とて首席を掻っ攫った彼は、閲覧が開始された最新号の魔術学雑誌を読みにまっさきに図書室に行ったものと思っていたのに。

 また何かしでかして出禁でも食らったのか。

 ユヒルは大きくため息を吐いて、隣にどかっと座り込んだ。あぐらに肘をたて、カミラの足元に置かれた、かなり使い込まれた本を勝手に取る。パラパラと捲りながら

「先に読んだら君、怒るだろ」

 ユヒルはボソッと答えた。

 本があったらとりあえず読んでしまうのは活字中毒の習いなのだろうか。でも、初等科の古い辞書なんてユヒルはつまらないだろう。さして興味もなさそうに惰性に任せてページをまくる様子に、カミラは腹が立った。

 彼女は奪い返そうと手を伸ばす。

「返して」

「待ってよ」

「面白くもないでしょう」

「新しい発見はないけど」


 手を遠くにやってユヒルは最後まで読んでから本を閉じた。


「下手な誤魔化しもない。丁寧で誠実な、とても良い辞書だね」


 そう評して、本の向きを整えてからカミラに返した。


 カミラが7歳で魔術学院に受かった時に、両親がお祝いにと送ってくれた大切な辞書だった。魔術には疎いからと、長年の友でもある辺境伯のつてで色んな人を頼って、良いものを選んでくれたといっていた。

 奥付けには〈私たちの小さな天才、宝物のカミラに愛を込めて〉と書かれてある。


 はらはらと涙を落とす彼女に、けれどもユヒルは真面目な顔で言った。

「帰路の受付、まだ済ませてないんだろ」

「……しばらく帰れないの」

「どうして」

 カミラは出航しはじめた船を見下ろした。

「うちは辺境伯に付随した伯爵領だから、第一の目標は、他国の侵攻を防ぐこと。でも、同時に身内から寝首を掻かれないように警戒しなくちゃいけないわ」

 周辺の領地や王都から、世俗騎士団の派遣が始まっている。その中には火事場泥棒よろしく伯爵家を乗っ取ろうと動く輩も集まってくるのだと聞いた。土砂災害で道もない、そんなところに血筋だけはある娘が帰って、いいことは何もない。

「あとのことはお祖父様と辺境伯にお任せして、わたくしはここで待つしかないの」

 両親は一人娘であるにも関わらず、カミラの才能をよろこんで惜しむことなく魔術学院へ送り出してくれた。ゆくゆくは女伯爵として婿を迎えるか、縁者から養子をもらうつもりであったろう。

 だが、今、カミラが奪われたら財産だけ吸い取られて伯爵家はなくなってしまう。

 孤島の魔術学院ならそこそこの身の安全は保障される。だからカミラは帰れない。ここから動けない。帰っても、両親はいない。


 もやと消えてゆく船尾を見つめて泣くカミラは、両親の写真が入ったペンダントを握りしめて、小さく謝った。 

 カミラを天才だ、すごいぞと褒めそやしてくれた大好きな両親の言葉に応えたかった。俺には魔術の才はないからなあと言った父は、それでもカミラの話を嬉しそうにいつまでも聞いてくれた。領民の為に働いて土砂崩れに呑まれた二人の死は無駄ではないと、証明したかった。

 それがどうだ。こんな体たらくで、これから何の為にカミラは頑張れるのだろう。


 ひとしきり泣いて、泣いて、いつの間にか眠っていたカミラは目を覚ました。

 隣では、ユヒルも寝こけている。見れば、彼女の握りしめた手にユヒルの手が絡んでいた。カミラの指先を握り込むように両手とも、だ。理由が分からなくて、とりあえず身を起こせば、ユヒルも目を開いた。

「……おはよう」

 めずらしくユヒルから声をかけられたカミラは、視線で手の意味を尋ねた。彼はややバツが悪そうに彼女の手を開かせてから離した。

「あんまり強く握ってると、壊れる」

 ペンダント、と指す。

 そうか、だから手を繋いでいたのか。

 カミラはただ、ふうんと他人事のように受け止めて、海の方へ目を向けた。

 いつの間にか水平線に夕陽が足をつけていた。それほど美しいとも、哀しいとも感じない。健康に育ったお腹は空くし、喉も渇いた。悲劇のヒロインは、案外、生き汚いのかもしれない。


 カミラの手の甲が綺麗に治っていると気がついたのは、その夜。眠りにつく間際だった。




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