69 灰青の告白と淡桜の名乗り
「ルル、ブルーベル様を庭に案内してさしあげなさい」
そう父であるダニエルに言われ、現在ルルはシエルと二人きりで庭にいる。
正確に言えば、父の言葉を受けたシエルが立ち上がり、優雅に、それでいてルルに圧をかけるように左手を差し出したため、その手を取らざるを得ない状況に追い込まれたのだ。
一度は好きだと自覚したが、その後色々あって諦めた人……
ルルは隣を歩くシエルをチラリと見ると、視線を戻して口を開いた。
「フェリシティ様と婚約するのではなかったのですか?」
ルルの言葉にシエルは少し考えた後、その噂は間違っているのだとルルに説明してくれた。
そして、その噂にはブルーベル公爵家、ウォード公爵家、ハイドレンジア伯爵家、クランベリー伯爵家の四家が絡み、公言されていない事情もあったため、関係者も否定することが出来なかったのだとも教えてくれた。
フェリシティと婚約話が出ていたのは、シエルではなく従兄弟のレオンであったこと、そしてそのレオンはメイベルの恋人であったことを聞き、ルルは驚いてしまった。
そして、レオンとメイベルの婚約は無事成ったけれど、皆が事態の解決に向かって動いている時に一人蚊帳の外だったという疎外感……
「では、なんであの時、否定しなかったんですか?」
「あの時?」
否定できなかったと言われたばかりなのだ。
だから、これは八つ当たりなのだと、ルルは自分で分かっていた。
分かっていたけど、シエルの全く心当たりがないというような態度に、ルルはだんだん腹が立ってきた。
あの日、馬車止めで偶然会って言葉まで交わしたというのに、そのことを忘れたというのだろうか。
彼の中でルルがその程度の存在であるのなら、彼はなぜこのような手段をとってまでルルの元に現れたのか。
「私の友人が婚約のお祝いを言った時、しなかったでしょう? ──否定……」
理由は色々あったけど、シエル本人がフェリシティとの婚約を否定しなかったことが、折れかけていたルルの心に止めをさしたのは確かだ。
なのに、なぜ……何のために、シエルはルルの婚約者としてここに立っているのだろう。
シエルはしばらく逡巡し、「格好悪いから言いたくなかったんだが……」 と口を開いた。
そして、本当に言いたくないようで、更に考える素振りを見せるとチラリとルルを見て、やっと観念したのか
「正直言うと──君の友人の声は、ほとんど頭に入ってこなかった……」
と小さな声で言った。
シエルは、キアラが好んで育てている菫の花壇の前で立ち止まると、ルルの手を取ったまま、意を決したように灰青の瞳でルルを真っすぐ見て言った。
「君がはじめて俺を呼んでくれた名が、ブルーベル公爵令息様、だったから……」
(それって……)
それはまるで、ルルに名を呼んで欲しかったと言っているように聞こえた。
最初にシエルに名乗られたとき、胃痛がひどく極限状態だったルルは、彼の長く聞きなれないカタカナの名前を聞き取ることが出来なかった。
だから心の中ではずっと『ハンカチ男』と呼び続けて来た。
それから幾度となく助けられ言葉を交わしていくうちに、ちゃんと彼の名前は覚えたけれど『高位貴族で眉目秀麗、カラフルな髪と瞳に肩書付』の彼とはすぐに縁を切らなくてはいけなかった。
そのため、名乗ることも、名を呼ぶことも避けていた。
──名を呼べば、縁が出来る。
そして、きっと惹かれるのだと、心の奥で感じていたのかもしれない……そう、今なら思える。
「シエル、と呼んでくれないか? チェリーパフ。俺は君のことが──」
ルルはシエルのエスコートの手を離すと、彼の言葉を遮るように横に首を振った。
シエルの瞳に、切ない光が宿る。
「違います。──私の名前はルルと言います。ルル・パックスです。
“チェリーパフ”だなんて桜色のシュークリームと同じ愛称で呼ぶから、ずっと……すごく、恥ずかしかったんです。
ちゃんとルルって呼んでください」
シエルはただ、自身が名乗らなかった為、マナーに則り名を呼べなかっただけなのだと、ルルは知っている。
それでも、それを棚どころか天高く上げて、ルルは頬を朱に染めシエルを上目遣いで睨みつけた。
彼に対する胃痛が、別の痛みに変わったのはいつからだっただろうか。
「自分だけ名前を呼ばせようとするところも、すり替えたハンカチを利用するところも、ずるい、です」
ハンカチの利用に関しては、ルルのことが心配で過保護になりすぎている女性の入れ知恵のおかげであったりもするのだが、ここで彼女の名を出すのは無粋というものだろうと、シエルは思う。
シエルはルルの口から発せられた懐かしいお菓子の名と、彼女の名乗りによって漸く与えられたその名を呼ぶ権利に、嬉しそうに微笑んだ。
「ルル」
はじめてシエルから呼ばれた名は、甘く切ない響きがした。
シエルが再びルルの手を取り、もう逃がさないとばかりに指を絡めた。
合わさる掌から、体温が伝わってくる。
「──強引な真似をして申し訳なかった。
けれどもう俺は『婚約者』という形で、君を手に入れてしまった…………もう逃がしてあげられない。
そんな卑怯な手を使った俺を、君がどう思っていようと構わない。
だけど、申し訳ないけれど──
頼むから、全てを諦めて俺を受け入れてくれないか──────」
……十分だった。
だって、いつからかルルも、誰といるよりも安心できるシエルに惹かれていて、ずっとそばにいて欲しいと思ってしまっていたから。
「──シエル様……」
三華サロンが信条のひとつに掲げる菫の花言葉は『貞節・愛』。
その菫の花の前で、三人目のヒロイン、ルル・パックスは望む未来を掴み取る。
「……私、ずっと前からシエル様のことが大好きだったみたいなの」
「! ──俺も、君が大好きだ!!」
菫の華が見守る中、シエルはルルの華奢な身体を力いっぱい抱きしめた。




