68 灰青は胃痛持ち令嬢のために自由を手放す
「ルル、ブルーベル様を庭に案内してさしあげなさい」
彼女の父ダニエル・パックスが、彼女と同じ桜色の瞳を潤ませながらそう言った。
申し訳ないが、彼とドロワット子爵令嬢だったセシルの悲恋は調べさせてもらった。
結果、貴族家の当主として彼は『甘い』と思わずにはいられなかった。
しかし彼が『甘い』おかげで今回『ハンカチの逸話』を利用した、チェリーパフ不在での婚約の締結という暴挙がまかり通ったので、文句はない。
但し、キアラ夫人は──
俺はスイと立ち上がるとようやく手に入れた、愛しい彼女に左手を差し出す。
にっこりと微笑んで見せたのに、何故か彼女は顔を引き攣らせてその手を取った。
「では、失礼します──(チェリーパフ、)行こう」
男爵夫妻に退室の挨拶をすると、久しぶりに俺だけの呼び名を口にする。
「あぁ、久しぶりに会ったのだから積もる話もあるだろう。二人でゆっくりしておいで」
そう言ってパックス男爵が、少し寂しそうに彼女に手を振る。
引き取って一年しか経っていない愛娘だ。仕方がないだろう。
そして──
貴族夫人として一歩引き、微笑みながらそんなパックス男爵を見守るキアラ夫人。
その夫人の視線が、不意に、俺に移動した。
「──(にっこり)」
「…………(にっこり)」
うん。やはりキアラ夫人は侮れない。
おそらく夫人はチェリーパフにそんなつもりがないことも、俺が『ハンカチの逸話』を利用しているだけであることも気付いているのだ。
ただ、俺にパックス男爵家に対する害意が無いことが分かっているから、黙っているだけで。
夫人がパックス男爵を支え、俺が婿入りすれば、パックス男爵家の未来は盤石だ。
彼女が望む恩返しができる未来が確定する。
レオンとメイベルの一件で解決の糸口を模索している時、俺は自分とウォード公爵令嬢の婚約話という滑稽な噂とともに、第三王子がパックス男爵令嬢との婚約に向けて動いているという情報を掴んだ。
(……チェリーパフが第三王子の求婚を受けた?!)
出会ったばかりの頃に比べ、彼女の警戒が解け、かなり距離が近付いたと自負していた。
そんな時に彼女の口から出た、「ブルーベル公爵令息様」という言葉。続いて耳に入って来た第三王子との婚約話。
彼女の記憶に残るようにと、出会ったその日、確かに名乗った名前を、何故か彼女は頑なに口にすることは無かった。
『ブルーベル公爵令息様』
婚約者でも何でもない彼女の口から出た“家名”。
それは当たり前のことだ。
なのにあの時の見当違いなショックを思い出した俺は、悔恨の思いに耐えられず、レオンとメイベルの件で動いていること、三年生が自由登校であることを理由に、学園に──桜の木に近寄ることを避けたのだ。
バルトが学園から姿を消したことで……彼女との距離が縮まったことで、油断していた。
「あぁ、こんなことなら強引に奪っておけば良かった────」
その後、ウォード公爵令嬢が動いたことで、第三王子と彼女の婚約話はパックス男爵の耳に入る前に立ち消えになった。
ウォード公爵令嬢とクランベリー伯爵令嬢、そしてシュクレ子爵令嬢には、まだ罵倒してくれた方がマシだと言えるような、物凄い目で見られてしまったが……
もう彼女を逃すことはしない。
あの空虚の中で過ごした数日間を──あんな気持ちを二度と味わわないで済むように、動く。
その為ならば、公爵の名は元より、手に入れるはずだった自由を捨て、貴族社会に身を置き続けることになっても構わない。
俺がパックス男爵家への婿入りを考えていることを伝えると、両親はとても喜んでくれた。
幼い頃から卒後は平民になるのだと言っていた俺を、彼らは思った以上に心配していてくれたらしい。
両親は彼女が三華サロンの華の一人であることを知っていたらしく、直ちにパックス男爵家に先触れを出すと、話をまとめて来いと言って俺を送り出してくれた。
それからのことは──話すまでもないだろう。




