66 淡桜の焦燥、灰青の黒い笑み
とうとう春季休暇に入った。
男爵家からの迎えの馬車に揺られながら、窓の外を眺める。
結局ルルは、ダニエルからの手紙に返事を出せなかった。
バルトは公爵家の後継だった男だ。
ルルを支え、男爵領を運営できる実力はあるのかもしれないが、彼は欲望のためなら平気で暴力を振るう一面がある。
彼がパックス男爵家に入ることになれば、間違いなく両親は不幸になるだろう。
ルカも公爵家からの申し出であれば、男爵家は断ることができないと言っていたし、今回、ルルの気持ちを確かめることなく、婚約が締結されたことからもよくわかる。
思いやりや、人のことを考える気持ちなど微塵も持ち合わせていないあの男は、公爵家の権力を使い、強引にダニエルに婚約を了承させたに違いないのだ。
──ルルは、あの“父からの手紙”を受け取ったあと、一人考え抜いた末にある決心をしていた。
「帰ったら平民に戻りたいと、お父様にお願いしてみよう」
ルルがパックス男爵家の娘で無くなれば、バルトの婿入り自体が白紙になるはずだ。
その後なら万が一ルルがバルトに捕まったとしても、両親に迷惑が掛かることはない。
両親との縁が完全に切れるのは悲しいけれど、二人がルルのせいで不幸になることは無いと考えたのだ。
こんな時に……いや、こんな時だからだろう。
ふと、ルカの言葉を思い出した。
「私は君を泣かせることはしないと誓ったが、『君を幸せにする』とは誓っていない。
それを誓っても、それは多分、『私が考える君の幸せ』であって、『君自身の幸せ』ではないからだよ」
フェリシティにも似たようなことを言われた。
もう、分かっている。
これは、ルルの思う両親の『幸せ』なのだと。
両親の気持ちなど微塵も考えていないのはルルの方だ。
でも。それでも、ルルのせいで両親を不幸に──迷惑をかけたくはなかった。
「ただいま帰りました」
「待っていたよ、ルル」
帰宅後すぐに執務室に行くと、父は立ち上がり、ルルを抱きしめてくれた。
「やぁ、ルル。久しぶりだね。手紙は読んだかい? 驚いただろう。
こんなに早くルルの婚約が決まるとは思わなかったから、私も驚いているんだよ。
好いた人ができたら教えてくれるように言っていたはずだが……さすがに親にそれを話すのには勇気が必要だったのかな?」
“好いた人”──?!
ルルはバルトが公爵家の権力を使って婚約をねじ込んだとばかり思っていた。
だから、ダニエルは平民に戻りたいというルルの要求も、渋々ながらでも呑んでくれるだろうと踏んでいたのだ。
しかし、どうやらダニエルはルルがバルトのことを好いていると思い込んでいるようだった。
──一体、どうやって?
いや、そんなことを考えている場合ではない。
今からでも話をして、除籍してもらわなければ──
「あの、お父様にお願いがあるんです」
「それは急ぎかい? 今、公爵令息がルルに会うためにお見えになっているんだよ」
「え? 今ここに来ているのですか?」
「あぁ、ルルが今日学園から戻って来ることを告げたら会いたいからと……」
ルルの顔が蒼白になる。
そんなルルの様子に、ダニエルが怪訝そうな顔をする。
「ルルと心を通わせていると思ったから婚約を受けたのだが……もしかして私の勘違いだったのかな?」
ルルには心を通わせている令息などいない。
どうやらダニエルは、ルルがバルトに心を預けていると確信したため、この縁談を受けたらしい。
バルトはどうやってダニエルを欺いたのか──
「どうしたんだい? ルル。顔色が悪い、公爵令息には断りを入れて今日はもう休むかい?」
「いいえ、彼は今どちらに?」
「応接室でキアラがお相手をしているよ」
「お義母様が!?」
それを聞いた瞬間、ルルは応接室に向かって走り出した。
あの日、繰り返し行われた噴水での暴力を思い出し、体が震える。
(お義母様……どうか無事でいて!!)
マナーなど気にしている場合ではない。
バンッ!!
ルルは廊下を全力疾走すると、ノックもせずに応接室の扉を勢いよく開けた。
「はぁ、はぁ……──」
肩で息をしながら、縋るようにキアラの姿を探す。
「まぁ、ルルちゃん。一刻も早くお会いしたかったのかもしれないけれど、身だしなみくらいは整えてからでないと失礼よ」
そこへ、ルルの心境とは真逆の、のんびりした彼女の声が、ルルの耳に届いた。
そして──
「いえ、私は構いませんよ。慣れていますし、そんな彼女のことも愛しいと思っていますから」
「………………え?」
続く言葉に思考が凍りついた。
声の主──キアラの向かいに座る男性が、あの傲慢なバルト・ルメール公爵令息などではなかったからだ。
「……あ、あれ……?」
いや、でも彼にはフェリシティとの婚約話があったはずだ。
彼ならきっと大好きなフェリシティを幸せにしてくれる……そう思ったから、ルルは彼を諦めて、ルカの手を取ったのだ。
「……あ、れ?」
(でもフェリシティ様は第三王子殿下と……)
「申し訳ありません、ブルーベル様。貴方がいらしていると聞いた途端走り出してしまって……」
後ろから追いかけて来たダニエルが、申し訳なさそうに彼に声を掛ける。
「ふふ、私が忙しくしていたので、卒業式でもろくに話ができませんでしたからね。
こんなに喜んでくれて、とても嬉しいですよ」
そう、男爵邸の応接室で優雅にソファーに腰かけてキアラと談笑していたのは、いつもの学園の制服ではない、無駄な装飾を廃した漆黒の正装に身を包んだ男性──
その均整のとれた体躯を完璧に際立たせ、自身の魅力を知った上であえて暴力的な──心底愛おしそうに、それでいて真っ黒い笑みを浮かべてルルを見ている、シエル・ブルーベル公爵令息だったのだ……
「……あれ……?」




