56 フェリシティの原点と『揺り籠の休息』
「なぜそのような結論に達したのかは尋ねないけれど、貴女の気持ちはわかったわ。
でもその申し出を、わたくしでは受けることが出来ないの。それはサロンの主であるフェリシティ様に、貴女自身の口から直接伝えなければならないことよ」
会いたくないからフェリシティが不在のうちに伝えたのに、マノンにそのように言われ、ルルの気持ちは沈んだ。
ルカは王族だ。
当然その婚約は本人同士の口約束だけでは成り立たない。
婚約が成立するまでに時間は要するが、ルカはそれまでの間も三華サロンに代わり、バルトの執着から男爵家とルルを守ると約束してくれた。
おそらくマノンが連絡してくれたのだろう。
「久しぶりね、ルル」
翌日の放課後、ルルはフェリシティに呼び出された。
サロンにはメイベルの姿も、マノンの姿も見当たらない。完全に二人きりだ。
「フェリシティ様、申し訳ありませんが三華サロンを退会させてください」
ルルはサロンに足を踏み入れフェリシティに向き合うと、開口一番に立ったまま頭を下げてそう告げた。
「ルル、立ったまま話すのは無作法よ。私は貴女にそのようなマナーを教えたつもりは無いわ。お座りなさい」
フェリシティはルルが口にした“退会”という言葉に言及せずに、優しく諭した。
フェリシティが手ずから淹れた紅茶が、着席したルルの前に置かれた。
ルルを癒そうとする、優しい香りが漂う。
「今日の紅茶は揺り籠の休息よ」
ルルのためにフェリシティが選んでくれた紅茶──
ルルは一拍おいてカップを手に取ると、震える手で口に運んだ。
出された紅茶を直ぐに飲むことも、そしていつまでも飲まないこともまた、無作法なのだと教えてくれたのはフェリシティだ。
「卒業式まであとわずかよ。何故、このような時期にそのような考えに至ったか話してもらえるかしら……」
「──まだ、口約束ですが……一生男爵家を守ってくれるという方の、求婚を受けました」
意を決してそう告げたルルの言葉に、珍しく、フェリシティの息を飲む音が、聞こえた。
*--*--*
フェリシティ・ウォード公爵令嬢にはバルト・ルメール公爵令息という婚約者がいた。
幼い頃はまだマシな関係性だったと思う。
しかし、年月を重ねフェリシティが美しく成長するにつれ、バルトはフェリシティに興味を示さなくなった。
後にそれは単にフェリシティの容姿がバルトの好みの範疇外にあったということだと分かったのだが、それを知らぬ頃は何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうかとそれなりに悩み、傷付いていた。
それでもバルトとは婚姻をし、子を儲けなければならない。
フェリシティは公爵令嬢だ。
物心つく頃にはあった遥か昔の記憶にある『愛し愛される関係』に夢など持ってはいなかったが、学園で同じ世界の記憶を持つメイベルに会ってからはその考えが、少しだけ変わった。
いきなり現れた彼女は、皆に遠巻きにされていた初対面の公爵令嬢に臆することなく話しかけ、自身の運命を変えるため、手を貸して欲しいと懇願してきたのだ。
運命を変える──フェリシティは自分では成し得ない、これまで考えたこともなかったその言葉に向かって進もうとしているメイベルに、自分の消化しきれない思いを託すことにした。
三片の恋標──これから自分の前に現れるであろうメイベルをはじめとする三人のヒロイン。
『持てる力を全て用いて、そのヒロインたちが小説に左右されないよう、そして自分の意志で望む未来を掴み取れるよう手助けしよう』
この時、フェリシティはそう、心に決めたのだ。
公爵令嬢としての生き方も矜持も捨てられない、自分自身の代わりに──
「──フェリシティ、様?」
黙り込んでしまったフェリシティを気遣い、ルルが声を掛けた。
「ごめんなさい、少し、驚いてしまって……失礼なこととは承知しているのだけれど、その方は、貴女がお慕いしている方、なのかしら」
理性で隠せぬほど動揺しているようなフェリシティに、ルルは困った様な顔をして答える。
「いえ、でもその方は私が誰を思っていても構わないし、男爵家に婿養子に入って、家族を守ってくれるって言ってくれたんです」
その切なそうなルルの笑顔に、フェリシティの中でのシエルに対する評価がマイナスにまで下がった。
ルルの想い人はシエル・ブルーベルで間違いない。
物語に巻き込まれたくないという一心で、衝撃的な出会いをした彼を避けていたため本人に自覚はないかもしれないが、その心の機微は、ルルが入学したときからその幸せを願い、見つめてきたフェリシティだから分かる。
そして、恐らくはシエルも──
家族を護りたいという気持ちは、ルルとはじめてあった時にこのサロンで聞いたことだ。
なのでその気持ちは尊重したい。
したいのだが、それは、好きな相手と結ばれることとは両立できないものなのだろうか。
フェリシティには、自身の恋心に蓋をして、ルルが好きでもない男と結ばれようとしていることがどうしても許せなかった。
「以前にも話した通り、私は貴女たちヒロインが望む未来を迎えることを望んでいるし、そうなるように動いているつもりよ。
それがここ、三華サロンの──私の在り方だから。
ねぇ、ルル。その方との未来は貴女が心から、望んでいるものなのかしら……」
フェリシティにそう問われ、ルルの中で、何かが決壊した。
(それが、もう、無理なんです──)
「もう、いいんです。実は私、失恋したんですよ。だから、もう、いいんです」
えへへ、と無理に笑って見せるルルが痛々しい。
(やはり、あの時私たちに気付いていたのね……)
フェリシティの脳裏に白いホールケーキに散った、アッシュブルーの残骸が蘇る。
(けれど、マノンからは貴族家のお家事情が絡んでいるから今はまだ話せないと伝えていると聞いているし、学園の噂は不確かなものばかりだから鵜呑みにしないようにと教えていたはずなのに──なぜ? ルルに何があったというの?)
フェリシティはルルの思い詰めた様子から、ルルに何かがあったのであろうということは察することができた。
しかし、それを知るための情報が手の内に無かった。
(ルルになにが──?)
懸命に思考を巡らせるフェリシティであったが、次なるルルの言葉が、彼女の心に寄り添おうとするフェリシティの心の静寂に罅を入れた。
「それに、私は、私のために生きることを望んでいません。家族やフェリシティ様が幸せでいてくれたら、それでいいんです」




