50 淡桜の生還、氷晶に苛立つ灰青
生徒会室から急ぎ向かった中庭は、誰もいないのかと思わせるほど、静まり返っていた。
皆の視線は一か所に集まっており、シエルの視線も自然とそちらに向かったが、その灰青の瞳に信じられない光景が飛び込んで来た。
噴水前、苛立った様子で立ち尽くすバルトと足元に蹲り、スカートが捲れることも厭わず必死に何かを拭っている令嬢。
そしてそこに横たわる人影──
「っ!! ──お前たち!何をしているんだっ!!!!!」
シエルは瞬時に横たわる人影が誰なのかを悟った。
その場に立ち尽くす生徒たちを押しのけ、シエルはルルへと続く最短距離を進む。
そして、ブリジットの肩を掴むと、勢いよくルルから引きはがした。
相手が令嬢であることを考える余裕など、あるはずがない。
そして、急ぎルルの横に跪くと、その様子を確認した。
ブラウンの髪から流れ落ちる滴と乱れて濡れた上着。
反面乾いたスカートと足元を見れば、何をされたのかが容易に想像できた。
閉じられたままの桜色の瞳。
何枚も着こまれた制服の胸からは、浅い呼吸の上下が見て取れなかった。
シエルはルルの冷え切った頬に 温もりを探すようにそっと触れると、僅かな息使いを確認するためにルルの口元に耳を寄せた。
「!」
その時、小さな囁き声が、聞こえた。
「──お願いがあります。ここから連れ出してくれませんか?」
気のせいかとも思ったが、ルルの左手がシエルのズボンを軽く握っているのが見えた。
シエルは、反射的にルルを横抱きにすると、勢いよく立ち上がった。
「バルト・ルメール。ルル・パックス男爵令嬢に接近しただけでなく、危害まで加えてしまったお前は、もう終わりだ」
聞こえて来たルカの声を気にすることなく、シエルは医務室のある校舎まで駆け出した。
「ブルーベル公爵令息!」
校舎に入ったところで、シエルは肩で息をするメイベルと出会った。
(まさか、華のひとりとして憧れの的であるクランベリー伯爵令嬢が、走ってきたのか?)
思わずそんなことを考えるが、今はそれどころではない。
一刻も早く医師にルルを診せなけば……
しかし、メイベルは焦るシエルを無視してさっとルルの様子を確認すると、「……もしかしてシミュレーションが役に立ったのか?」 と呟いた。
ルルはシエルの腕の中で目を閉じたまま、小さな声で 「はいぃぃぃ……怖かったし、死にかけましたけど、大丈夫ですぅ……」 とだけ答えると、再び口を閉じてしまった。
「そうか……ブルーベル公爵令息。申し訳ないが、ルルをそのままサロンまで運んでくれないか?」
「しかし、医務室に連れて行かないと……」
「なんだ? ここで押し問答でも続けて少しでも長くルルを抱きしめていたいという魂胆か──?」
「は?」
「──それであれば協力してあげたいのはやまやまだが、このままではルルが風邪をひいてしまう。君の制服も濡れていることだし──潔く諦めてさっさと動いてくれないか?」
同学年ではあるが、シエルはメイベルと 話をしたことが無い。
その氷晶の瞳に全く揶揄する色が滲んでいないことが、余計に腹立だしかった。
(な、なんてデリカシーのない令嬢なんだ!)
憤慨したシエルは、腕の中のルルが頬を朱に染めていることに気付かず、無言でメイベルの後を追いかけた。
ルルを横抱きにしたまま長い廊下を早歩きで進むと、重厚な扉の前に到着した。
そこには真鍮製のサインプレートが掛けられており、黒文字で『三華サロン』と書かれていた。
(──噂には聞いていたが、ここが噂の三華サロン……俺が入ってもいいのか? ──って、は!? か、『漢字』──?)
シエルは二度見こそしなかったが、その黒文字の下方に右寄せで、フォレストグリーンで控えめに『三華倶楽部』と漢字で書かれているのを発見し、言葉を失ってしまった。
その代わり、なんとか心中で収めた驚きは、混乱となって頭の中を駆け巡っていた。
「ようこそ、三華サロンへ。
ブルーベル公爵令息、お待ちしていましたわ。……ブルーベル公爵令息?」
内側から開けられた扉。
シュクレ子爵令嬢が、小首を傾げてシエルの顔を覗き込んでいた。
室内に目を向けると、そこは華の城と言っても過言ではない空間だった。
これまでは周囲の女性といえばシエルの家柄に惹かれ、何かと媚びてくる女性ばかりであった。
そのため、女性とは基本的に必要事項しか話さない。
笑いかけただけで勘違いされ、大変な目にあったこともあるため、基本無表情だ。
シエルが一、二年の頃、立て続けで不祥事が起こり、クラス編成が爵位及び男女別になった。
その原因の一端である侯爵令息に婚約破棄を告げられたマノンには申し訳ないが、シエルにとって、それは僥倖であった。
しかし、ここは清浄な空気に満ちている。
僅かな香水の匂いが、漂う紅茶の香りを邪魔していない。
シエルは腕の中のルルが身じろぎをしたのを合図に、ルルを毛足の長い絨毯の上に降ろした。
「ルルは風邪をひく前に着替えてらっしゃい」
「はい。──あの、ありがとうございました。どうやってあそこから離脱しようかと思っていたのでとても助かりました」
ルルがペコリと頭を下げて、続き部屋のほうへ消えていく。
それを確認し、シエルは口を開いた。
「このサロンは部外者の入室は許さないのだろう? であれば俺はここで失礼する……」
シエルがそう告げ、踵を返そうとしたとき、奥からそれを咎める声が聞こえた。
「お待ちになって」
シエルが声のした方へ視線を向けると、そこには扇で口元を隠したフェリシティが、窓際にセッティングされたティーテーブルの五脚の椅子のひとつに座ったまま、こちらを見ていた。
「入学式から何度もルルを助けてくれている貴方を、このまま何のおもてなしもせずに返せとおっしゃるの? 貴方は、私をそのような礼儀知らずにするおつもり?」
フェリシティはそう言って扇をピシャリと閉じると、敢えて微笑みシエルに言った。
「さぁ、お座りになって」




