40 桜下のお弁当と名乗らない名前
「す、すみませんっ! なんとか綺麗にしてお返ししますっ!」
ルルはそう叫ぶと、しわくちゃになったシエルの上着を一生懸命手で撫で付けた。
当然この程度で元に戻る訳がない。
シエルはヒョイとルルの手から上着を取り上げ自身の肩にかけると、少し不貞腐れたように告げた。
「そんなことより、腹が減った……」
「あ、お弁当!」
そこでルルは思い出したかのように植込みに駆け寄り、その中から隠してあったお弁当箱を取り出した。
万が一バルトに会った場合、絶対にお弁当に興味をもたれる。
これもよくある物語パターンなので容易に想像できた。
最悪持ち去られてしまう可能性を考え、ルルはここにお弁当を隠しておいたのだ。
結果、お弁当を奪われるよりひどい目に遭ってしまったが……
決して特別な関係ではないのだとしても、男性に手作り弁当を食べさせるというのは緊張するものだ。
(いや、違うよね。特別な関係でない男性に手作り弁当を食べさせる機会なんて、普通はないよね)
しかも相手はルルが最も避けるべき男性の条件を全て満たしている男である。
「凄い、卵焼きが入っている!」
弁当を出した途端、いつも冷静な印象のシエルがそう言った。
いや、叫んだと言っても過言ではない。
こっちでは見たことがなかったから、”無い”ものだと思っていたけれど、もしかしたら貴族が食べるような高級料理だったのだろうか。
そうであるなら男爵令嬢ごときが作ってきたお弁当に入っていたら驚くだろうけれど……
──卵焼きが高級?
「……」
無いな。と思い直し、シエルとの会話に戻る。
「えっと、私は甘い派なんですけど、一応塩味も作ってきました」
ルルが説明し終えるのを待たず、シエルはフォークを卵焼きに伸ばした。
「いただきますは?」
「え?」
咄嗟に出てしまった言葉に、シエルが驚く。
(あ、この世界には「いただきます」もないんだった)
不便だなぁと思いながら、ルルは適当にごまかした。
「あ、すみません。これは昔々、私の家だけでまかり通っていた、食前の挨拶なんです。つい癖で──」
「……いただきます」
苦しい言い訳だったかなと思ったけれど、シエルは気にならなかったらしい。
ちょっと嬉しそうに両手を合わせてそう言うと、卵焼きを口に運び、大切に噛み締めると名残惜しそうにそれを飲み込んだ。
「チェリーパフは料理が得意なんだな。とてもおいしかったよ、ありがとう」
ルルにはシエルの事がよくわからない。
『高位貴族で眉目秀麗、カラフルな髪と瞳、生徒会役員という肩書付』。
背も高く、持っている色のせいか、少し冷たく見える。
それでいて気分が悪そうな新入生のためにハンカチを濡らして来てくれて、背中で守ってくれる、優しさがある。
なぜハンカチをすり替えたのかはよく分からないけれど、高位貴族の癖にルルが作ってきた庶民弁当を美味しいって食べて、ルルのことを桜色のお菓子の名前で呼ぶ。
ルルは優しく迎えてくれた父ダニエルと義母キアラのためにも、地味に目立たず、平穏無事に三年間を過ごさなければならない。
だから、縁を切るために指定した、消えモノのお礼……
お弁当を食べて、ハンカチを交換しておしまいのはずだった。
結局シエルはまた、ルルのハンカチを持ってきてないからと言って、自分のそれも受け取ってはくれなかった。
ルルはその後、入学式では断った校舎への道のりを、シエルと一緒に歩いた。
「じゃ、チェリーパフ──ごちそうさま。美味しかったよ」
『私の名前はルル・パックス』
そういうのは簡単だけれど、ルルはとうとう名乗れなかった。
大きな背中が、男子生徒の集う校舎のある道へと去っていく。
絶対に返そうと決めていたハンカチが、制服のポケットの中で沈黙していた。




