32 安堵の香りと覆われた視界
「おかしなことをおっしゃるのね。ビアンカ様と共に雇い入れて欲しいというくらいですもの。既に生計を共にしていらっしゃいますのでしょう」
恐らく図星だったのだろう。
そう言ってコテン、と頭を傾げるマノンにフリードリヒが焦ったように言い募る。
「ビ、ビアンカとは別れる。元よりそのつもりだったんだ。あいつは愛人で構わない。だから頼む──」
「アイゼンブルグ様──いえ、ご結婚なさっているのであれば、ロゼッタ様とお呼びした方が良いのかしら。
申し訳ありません、ロゼッタ様のご事情は存じ上げませんが、無理ですわ。
貴方はそれでかまわないのかもしれませんが、わたくしは初婚。それに、わたくしの婚姻は商会にとっても重要な意味を持ちますの。
あなたとの婚姻は商会のプラスにはなりそうもありませんし、わたくしがロゼッタ子爵家の婿を奪ったとなれば、商会にとって、よくない噂が立ってしまいますもの。
ふふ、プラスどころかマイナスですわね」
お前ではマノンの婿として不足だと婉曲に言われたフリードリヒは、羞恥で顔を赤くした。
そして、
「っ! つべこべ言わずに僕を受け入れればいいんだ!!」
そう叫び、マノンのその柔らかな腕を掴もうと手を伸ばした──
ここで、これまでフリードリヒのどんな言動にも動かなかった商会員がサッと動いた。
その反応を目の端で捕らえていたルルはマノンの危機を悟った。
パンッ!!
元々フリードリヒの勝手な言動に爆発寸前だったルルは、商会員の動きに反射的に反応し、その感情の赴くまま、彼の腕を叩き落としてしまったのだ。
「あ。」
「っ!」
「まぁ」
(あ……しまった……)
それぞれが三者三様の反応をする中、最初に復活したのはフリードリヒだった。
「貴様っ! 無礼だぞ! アイゼンブルグ侯爵家の次男たる僕に、そんな無礼を働いていいと思っているのか!?」
怒りで真っ赤になったフリードリヒ。
その叩き落とされた腕が、ルルの胸倉に伸びてくる。
貴族令嬢とは思えないルルの行動に驚いた商会員は、フリードリヒのその怒声で正気に戻るが、一歩出遅れる。
慌ててフリードリヒに駆け寄ろうとするが間に合わない。
(婿に入ったんなら、もう侯爵令息じゃ、ないじゃない……!!)
気持ちはこれ以上ないほど焦っているが、体は何かに縫い留められているかのように微動だにしない。
それなのに、頭の中ではそんな突っ込みがよぎる。
「このアマッ!」
(殴られる!)
心臓の鼓動が速くなる。
侯爵令息とは思えない乱暴な物言いと迫りくる男の薄汚れた手に、ルルがその身を固くした。
その時──ルルの桜色の瞳が後ろから伸びてきた手に覆われ、そのまま後ろに引き倒された。
閉ざされた視界によって何も見えなくなったルルだったが、不思議と怖くはなかった。
パフッと、何かに後頭部が当たった瞬間、あの安心できる香りに包まれたから──
何故、彼がここに──?
ルルは恐怖によって速くなった心臓の鼓動を落ち着かせようとするが、一向に収まる気配がない。
ルルの瞳を押さえていた手に力が入り、自然とルルの顔が上を向く。
「大丈夫かい? チェリーパフ。何か問題でも?」
解放された瞳に入って来たのは思った通り、彼の持つ灰青の色だった。




