20 図書館の騒乱と救いの手
『退学』。
脳裏をその言葉がよぎったその瞬間、ルルの視界が黒く染まり、次いで、『香り』を感じた。
ルルはこの香りを知っている。
大丈夫だよと、ルルを心配し、語りかけてくれている、そんな香りだ。
そこで、頭に何かが被せられたのだとはじめて気づく。
ルルが水を被った直後に掛けられたそれは、髪から滴り落ちるブラウンの染料とそれで汚れたルルの顔、大きなシミのできた制服さえ隠すほどに、大きな──
(……制服の、上着……?)
茶色い雫と共に、両親の笑顔がこの両手から零れ落ちてしまわないように、ルルは泣きそうになりながらも、それに縋るように自身に引き寄せた。
まるで、それが染料と一緒にルルの涙も不安も吸い込み、包み込んでくれているように感じたから。
その大きな上着はルルをその秘密ごと護り、その香りはルルに落ち着きと安心感をもたらしてくれていた。
「貴様、一体どういうつもりだ」
シエルの声が響き、静かだった学習スペースにざわめきが広がる。
ルルが上着の隙間からみると、ドレスシャツにベスト姿のシエルがルルの前に立ちはだかっていた。
(──ハンカチ男の上着だったの?!)
まさか、ルルを護ってくれたのが彼だったとは──ルルは驚いていた……いや、わかっていたのかもしれない。
「まぁ、どういうつもりかなんて……手が滑っただけですわ」
おおかた前子爵辺りから聞き出し、ルルが髪を染めていることを知るに至ったのだろう。
そして、ブリジットは思い通りに動かないルルを学園から追い出すことにしたのだ。
その動機は三華サロンか、それとも高位貴族か。
「これはただの水。この陽気であればすぐに乾きます。なのでブルーベル様の上着をそのような者のために汚すことはありませんわ。あたくしが洗って後日お屋敷にお返しに上がりますわね」
ブリジットがルルに掛けられたシエルの上着に手を伸ばす。
ブリジットの近寄ってくる気配に、ルルが身を固くしたその時、より一層周囲のざわめきが増し、第三者の声が割って入った。
「──それには及びませんわ、ドロワット子爵令嬢。ルルは三華サロンの一員。お借りした上着に関しても私が責任を持って手配致します」
ルルの震えが止まる。
上着の下から覗くと、学習スペースに群がる人垣が割れ、一本の道が出来たのが見えた。
問題の学習スペースに彼女が静かに立ち入るのを、皆が固唾を呑んで見守っている。
三華サロンの華の主、フェリシティ・ウォード公爵令嬢である。
彼女は場を一瞥すると、椅子に掛けたままのルカに一礼した。
「──第三王子殿下、ブルーベル公爵令息。上着を掛けていただいたとはいえ、このままではルルは風邪をひいてしまいますわ。
──連れていっても構いませんわよね」
誰にも否とは言わせない──
そんなフェリシティの圧をピリピリと感じる。
「構わないよ」
「──彼女を宜しくお願いします」
ルカが笑みを浮かべて、シエルが悔しそうにそれに応じる。
二人からの返事に満足そうに頷くと、フェリシティはルルに声を掛けようとした、その時──
「お待ちください! ウォード様、あたくしもお連れください!」
ブリジットがフェリシティに声を掛けた。
「──何故かしら?」
フェリシティの視線が、ルルからブリジットに移る。
「あたくし、そこのルル・パックスの親戚なのです。彼女がウォード様にご迷惑をおかけしないよう同伴するのは何も不自然ではありませんわ」
「あら、可笑しなことを言うのね。パックス男爵家と現ドロワット子爵家に親戚関係などない筈よ」
「パックス男爵とは直接関係はありません。ですが、あたくしとルルは従姉妹のようなものなのです」
ブリジットの言葉に、フェリシティが扇を広げ、口元を隠した。
シエルの上着に守られたルルには何も見えないが、耳に届いたその音でフェリシティが臨戦態勢に入ったことがわかった。
「──人伝に聞いたわ。貴女、三華サロンへの入会を希望しているのですってね」
フェリシティの言葉に、『そんなことを知ってくれているのか』と、ブリジットは喜色を浮かべて返事をした。
「っ! はいっ。──ですからルルなどよりも、三華サロンへの入会を目標に、日頃からマナーのレッスンに励んでいるあたくしの方が、三華サロンにふさわし──「ここには沢山の貴重な資料や参考書が置いてあるのよ。ご存知?」
“自分の方がふさわしい”。
そう言いかけたブリジットを遮り、フェリシティが問いかける。
いつの間にか図書館には再び静寂が訪れていた。
「え? いえ、そうですが、今はそんなことよりあたくしのサロン入会の話を……」
「ふふ。貴女、とっても面白い方ね」
そう言って微笑みかけるフェリシティに、ブリジットの顔が朱に染まる。
しかし次の瞬間、呆れたように言葉を紡ぐフェリシティに、紅潮したその顔色は一転、真っ青になった。
「それを知っていながら図書館に水筒を持ち込み、不注意であろうともこのような無作法を働く者が我がサロンにふさわしいなどと口にできるなんて、本当に面白いことをおっしゃるのね……
覚えておきなさい。
このような公共の場で、名も名乗らずに高位の存在に声を掛けるなどという愚行をおかす常識のない貴女を、我がサロンが迎えることはありませんわ」
叱られている訳でもない。
指導を受けているわけでもない。
ただ、淡々と衆人環視の中でその愚かさとマナーの悪さの指摘を受ける。
静寂の中に、失笑と嘲弄の音が混ざり、ブリジットは一歩、後ずさった。
「では殿下、御前失礼致しますわ。ルル、ついてきなさい」
「このような姿で申し訳──「構わないから風邪を引く前に乾かしなさい」
ルルが、上着を被ったままルカに退席の挨拶をしようとするのを止め、ルカが気遣わしげにそう言った。
「このお礼は改めて──」
ルルはルカに一礼すると、シエルにそう言い残し、いそいそとフェリシティの後についていった。
シエルはルルが無事にこのフロアから出ていくのを見届けた後、ルカに一礼すると、ブリジットには目もくれずにその場を立ち去った。
「さて、君はパックス男爵令嬢の“従姉妹”だって?」
ブリジットはルカに話を振られ、先程のショッキングな出来事などどこかへ吹き飛んだかのように身を乗り出さんばかりの勢いで返事をした。
「ええ、そうなんです。あ、いえ……私とルルは親戚で、従姉妹のようなもので……──」
さすがのブリジットも話していて気付く。
雲行きが怪しいと。
「……君は王族の前で虚偽を口にすれば、罰せられるということを知っているかい?」
「あ、あたくしは嘘など……──」
ブリジットの背中に冷たい汗が流れる。
「そうかい?……あぁ、そうだ。話は変わるが──」
ルカはそう言うと足を組み、何かを思い出したようにブリジットに尋ねた。
「エディス・ミラーは達者にしているかい?」
「? ──あたくしは存じ上げませんが、そちらの方はどなたですの?」
話の流れが変わったことに安心したブリジットは、突然振られた知らぬ人物の名に深く考えずに答えてしまった。
ルカはそれを聞くと、目を丸くして口を開いた。
「何を言っているんだ。君の“親戚”じゃないか。エディス・ミラーは女性の身でありながら王宮で文官長補佐を務めあげているこの国屈指の有望株で──
君の曾祖父の末妹……君とは従姉妹のようなものじゃないか──」
「え?親戚?」
「曾祖父の末妹の家系って……それはもう他人じゃ……」
「殿下は何を……」
「え?まさかドロワット子爵令嬢は、そんな遠縁とも言えないようなパックス男爵令嬢を従姉妹だと言っているのか?」
「遠縁であることには変わりはないが、従姉妹だというのは虚偽の発言だな」
周囲が騒めく。
ルカがブリジットに言わんとしていることを察している生徒もいるようだ。
「今日の私は気分がいい」
ルカはそう言って立ち上がるとブリジットに背を向け言った。
「だから大目に見てあげるよ」
王族であるルカと公爵令息であるシエルの会話を遮ったことを。
ブリジットの不注意でこぼしてしまった水の一部が、ルカの私物の一部を汚したことを。
よくルルと共に勉強をしていると虚偽の発言をしたことも──
ルカが去り、そこには床に座り込んだブリジットだけが残った。
許可を得ることなく王族に近づき声をかけたこと。
第三王子であるルカや高位貴族であるシエルの会話を遮り、その前で失態を働いたこと。
ウォード公爵令嬢であるフェリシティから公衆の面前でマナーを指摘され、拒絶されたこと。
例えルカ本人に「大目に見る」と言われたとはいえ、自身の未来が閉ざされたのだということだけは、ブリジットにも分かった。




