2 灰青の献身とすり替えられたハンカチ
「ほら、大丈夫か?」
「うぅ……ありがとうございます」
耐えられずに嘔吐いてしまったルルだったが、ここ数日満足に食事ができていなかったことが幸いしてか吐くモノがなく、乙女としての最低ライン(?)は死守することができた。……たぶん。
(“不幸中の幸い”という言葉はこういう時に使うのかなぁ……)
全然幸せな感じはしないけれど、ルルは胃痛と恥ずかしさから気を紛らわせるために、ひたすらそんなことを考えて現実逃避をしていた。
だって三年生らしい彼は、さすが生徒会役員なだけあって、嫌な顔ひとつせず甲斐甲斐しく、そんなルルのお世話をしてくれているのだ……
──そう、してくれているのだが、彼はまず手慣れた様子でルルの手を取ると(ひっ!)、桜の木の下──桜下のベンチへと誘導した。
ルルはその時も取られた手はもちろん、背中に添えられた手に(ひぃっ!)、心配そうに覗き込まれた至近距離の顔に(ひいいいっ)と、ずっとドキドキ(?)しっぱなしだったのだ。
なのに、さすがイケメン! 彼はその程度の触れ合いでは全く動じないらしく、始終ルルを心配そうに覗き込んでいる……ひいぃ……
彼が教えてくれたベンチは、ちょうど小道に背を向け、植木の影に隠れるような形で設置してあり、座って見上げると青空と桜の花が見えるという絶景スポットだった。
(こんな時じゃなければ、もっと楽しめたかもしれない。絶対また来よう)
「ハンカチを濡らしてくるから、ちょっと待っていて」
(はっ?!)
ボーッとしてそんなことを考えていると、彼がそう言って立ち去ろうとしたので、ルルはとても驚いた。
(アナタ、世話好きなのかも知れませんが、優しすぎやしませんか?!)
「え!? じ、冗談じゃないっ! イエ、あ、そうだ、私のハンカチを使ってください!!」
急な提案に焦ったルルは、慌てて自分のハンカチを取り出すと、彼の手に押し付けた。
だって、彼のハンカチを借りてしまうと
A.洗って返す
B.新しいハンカチを返す
の、二択になってしまう。
そしてそれは、『もう一度彼に関わる』ということに他ならない。
『高位貴族で眉目秀麗、カラフルな髪と瞳に肩書付』
これがルルの避けなければならない人物の特徴だ。
そのうちの三つに当てはまる彼に、ルルは既に借りを作ってしまっている。
それだけでもマズいのに、借り物までなんて、とんでもない!
咄嗟の判断としては『グッジョブ!』だったと思う。
ルルは彼と早々に縁を切るための、最後の一線(?)を死守することに成功したのだ。
戻って来た彼から差し出されたハンカチを受け取る。その瞬間、指先が彼に触れて、またドキリとする。
(ひぃっ!)
「……まだ顔色が悪いぞ。医務室に行かなくて大丈夫か? 動けそうになければ横抱きにして運ぶが……」
横抱き……ソレって、もしかして『お姫様抱っこ』のこと……?
イケメンの癖に、全世界の乙女の夢を偶然会っただけの新入生相手に──それも公衆の面前で披露しようというの……?!
絶対この人ヤバい人だ!
それを目撃されたルルが後でどんな目に遭うかなんて、これっぽっちも考えていない!
そもそも心配してくれている彼には申し訳ないが、ルルのこの異常な体調の悪さは十中八九この男が原因なのだ……
そんなことをされれば逆効果なのは目に見えている。
……そうとは言えない以上、ここはルルが立ち去るしか道はない。
「もう大丈夫です。迷子ではないので一人で行けます。ご迷惑をおかけしました」
迷子対策として、学園の敷地見取り図は頭に入っている。
ルルはそう言って、気力で立ち上がると彼に頭を下げた。
本当はもう少し座っていたかったが、ここで休むより彼と物理的に距離をとった方が胃に優しいと判断したのだ。
「待て。体調の悪そうな令嬢を一人で行かせるなんてことはできない。俺と一緒に……」
なぜそこで食い下がる……その有り余る優しさは別の人に発揮してほしい。
親切で声を掛けてくれている人に対して、とても失礼な行為だとは思ったけれど、これにはルルと家族の将来がかかっている。
ルルは「ありがとうございました」と言い捨てると、その場を早歩きで後にした。
──走り去る体力は残されていなかったのである。
「──確かに『桜』と言っていたな……
名前は教えてくれなかったが……あの桜色の瞳とふわふわしたブラウンの髪──何かに似ているような……」
逃げるようにその場を立ち去るルルの後ろ姿を見守りながら、彼はそう呟き、軽く握った拳を口元に当てて黙考した。
「あぁ、『チェリーパフ』だ──」
ルルは知らない。
彼がそう言って満足そうに笑っていたことも、桜を見下ろす校舎の窓から二人の出会いを見つめている者がいたことも──
*--*--*
濡れたハンカチで口元を押さえながら、ルルは一人教室までの道のりを急いだ。
幸い時間に遅れることはなく、遅刻して目立つということは避けられたものの、当然教室に辿り着いても体調不良が劇的に改善することはなかった。
「あなた、顔色悪いわよ。大丈夫? ここの席が空いているから座って」
ルルが空席を探して教室内をキョロキョロ見渡していると、一人の令嬢がそう言って隣の席を勧めてくれた。
「ありがとうございます。あの、私ルル・パックスって言います」
ルルはほっと息をつき笑顔でお礼を伝えると、その席に座った。
「チェルシー・ピピンよ。あなたのことはルルって呼んでいいかしら。私のことはチェルシーって呼んでちょうだい。で、大丈夫なの? 医務室に行くのならついていくわよ?」
チェルシーはそう言って心配そうにルルの顔を覗き込んだ。
ブラウンの髪と瞳──安心安全なモブ令嬢だ。
「大丈夫。緊張して眠れなかっただけなの……ありがとう」
現に教室の中で『一生徒』という日常に紛れることができたことに安心したのか、気分はだいぶマシになってきている。
ルルはチェルシーにそう告げるとハンカチを口に当てたまま大きく息をついた。
「ん?」
そこで気付く。
なんだかハンカチからいい香りがする……
濡れているから気付かなかったけれど、手触りも良い気がする。
サイズ感もいつも持ち歩いているモノとは違う気が……
「……」
ルルは恐る恐る、手の中のハンカチを開いた。
(あ゛あ゛あ゛……なんで……)
ルルのハンカチを持つ手が小刻みに震える。
だって手の中にあったのは、使い慣れ、見慣れたモノではなく、C.Bというイニシャルが刺繍された、どう見ても男物のハンカチだったのだ……




