10-1.揺
月は弓なりに細く、頼りない光を闇の皺に垂らしていた。その光は硝子の粒のように小さく、足元や顔の輪郭を緩やかに撫でるだけで、十分に物事を映し出さない。
互いの位置を、声と輪郭だけで辛うじて把握する。つまり、この闇の中では、姿を隠そうと思えば誰にでも可能だった。全員が疑心を纏い、探り合う状況下にいる。
そして、はっきり見えないからこそ、人は最も恐れるものを自分の想像力で埋めてしまうものだ。
風は殆ど動かず、木々の葉は低い囁きで情報を交換しているようだった。誰かの呼吸、靴底が砂利を噛む音、遠くのどこかで落ちたらしい枝の短い爆ぜる音。その断片が夜の中で互いにぶつかり合い、意味を持たないまま増幅されていく。こうして、小さな音が狼の遠吠えのように聞こえる夜になる。
僕は、ロビー棟の名簿を確認しました。これまでの宿泊者の記録です。
海都の声は、夜気を押し分ける矢のように鋭く、しかし一定の抑揚を欠いていた。
そこには、大学一年の頃からここの施設を利用している三人の名前がありました。高石央太、木佐響子、そして……
――馬場彩
ば、馬場…彩?
思わず叙歌がすぐさま繰り返す。
空気が軋む。闇が一層深く感じられる。風が頬に当たる度、誰かの心拍音が余計に大きくなる。
はい。これが、彼女の"秘密"です。
彩はゆっくりと顔を上げた。あの静かな、しかしどこか硬質な表情。石像のように動かないが、その瞳は乾いた火を宿していた。表面からは温度を感じないが、内側には熱の残滓がある。
――私の、旧姓よ。
彩の声は落ち着いていた。旧姓を公表されても、それに動揺した風は見せまいとしている。だが指先に微かに力が入り、掌紋が白くなっているのを私は確かに見た。その落ち着きは計算か、或いは自分の中で恐怖を何層にも塗り固めて、外へ漏らさないようにしているのかも知れない。
海都は名簿のページを指で押さえ、淡々と続けた。言葉は解説のようだが、その一つ一つが誰かの感情を揺さぶる。それはナイフで紙を切るように、簡単で、確実だった。
"馬場彩"という名前を見た時、僕は思ったんです。少なくとも一年生の入会時から合宿の時まで、彼女の苗字は"馬場"だった。"佐々木"じゃないのだから、ニックネームも"ササキ"ではなかった。ここまでは間違いない。
推理は鋭く、精細さも欠いてはいなかった。一つずつ事実を積み上げ、確実にまだ見ぬ答えを導き出そうとしている。
では、彼女はなんと呼ばれていたのか――馬場…ババ……そう、"ジョーカー”だった。それが僕の辿り着いた結論でした。
今の話を聞いて思い出した! 私がジョーカーのニックネームを貰ったとき、キングが少し引っかかってた。今思えば、あれは私の前にジョーカーがいたからだったのかも…
その声は明るかったが、震えていた。不安の印だが、同時に何かを掴もうとする努力の現れでもある。彼女の言葉は糸口となり、そこで微かな期待と不安が混ざり合う。海都は頷き、目を細める。全員の視線が次第に彩へと集中していった。
そして、もしそうなら、クイーンのダイイングメッセージが示す真犯人は――佐々木彩さん…あなたではないかと、考えたのです。
海都の言葉の重心は明確だった。空間に置かれた宣告は、重さを持つ。彩の肩の線が一瞬崩れる。無理に引き上げると、何かが剥がれ落ちそうだ。
例えば、撲殺なら、犯人が立ち去った後、まだ生きてた被害者が最後の力を振り絞ってダイイングメッセージを残す…そんなシチュエーションは想像できます。しかし、絞殺の場合、犯人は被害者が確実に死ぬまで首を絞めるはず…つまり、右手に握られたジョーカーに、犯人が気付く可能性が高い。もし叙歌先輩が犯人なら、明らかに自分を示すダイイングメッセージをそのままにしておく理由がない。だから、僕は最初から叙歌先輩以外の人物が犯人だと考えたていたんです。
彼女は立ち上がり、木の幹から背を離す。星空を仰ぐその動作は、祈りにも挑発にも見えた。だが私が見たのは、その所作に混じる小さな“揺れ”だ。それは意図せぬ動作であり、心の中の不確かさを露呈する。
(効いてる!)
私は、シンプルにそう思った。
…どんなに辻褄が合ってるように聞こえても、証拠がなければ、ただの無駄話。想像の域を出ないわ。それに、さっきも言ったけど、脅されたからあなたに合わせて望む答えを言っただけ。全部ウソよ。
言葉の切れ味は良い。だが、どこか乾いている。彩は自らの声で自分を守ろうとしているが、防壁の隙間から、脆さがちらつくのは否めない。
――もういいでしょ。これ以上話していても意味がないわ。藍時だけに吉岡さんの看病を任せるのは不安よね?早く戻りましょう。
一見気遣いのようにも思える。恋さんが心配ではないと言えば、嘘になる。しかしその中には刃があり、見えない形で首筋に触れる。彼女が言いたいことは一つだけ。
"これ以上踏み込むな"
裏を返せば、私たちは少しずつ核心に迫っていて、彼女が徐々に追い込まれていることを肌で感じていた。そこへ、宮野が静かに口を挟む。
もし、あなたがもう一人のジョーカーであれば、ここには"二人のジョーカー"が存在することになります。
宮野の言葉は正鵠を射る。彼女の視線が背後をなぞると、彩の心臓が一拍、二拍と速まるのがわかる。
つまり、お嬢様が残した"二枚のジョーカー"と符号するということです。
全員の喉が同時に鳴る。その音は宣誓にも似て、場の密度を一層濃くする。叙歌が弾むように一歩前へ出る。彼女の表情はもう後戻りを許さない決意に満ちていた。
そういうことか!私にもやっと分かったよ、古本さん♫
赤いジョーカーが上位を示すことを踏まえると、服の中から見つかった"黒"は、二色様を示し、右手に握られていた"赤"は一学年上の佐々木様、あなたを示していることになります。
……何を言われたって、私の答えは変わらないわ。全部あなたたちの空想。どんなに上手な説明をしても、それは証拠じゃない。話は堂々巡り。もう終わりにしましょう。
彩の主張の表面は整っていた。しかし、その背中の筋肉は硬直している。彼女の瞳の奥に、まだ出し惜しみされた“奥の手”の影がちらつくのを私は見た。
夜は深い。だが、何かを隠す余地は与えない。真実は、圧力に耐えかねてやがて割れ目を作る。私の仕事は、それを見逃さず、光を差し込むことだ。紆余曲折の先に、必ず答えはある。
彩にはまだ"切り札"がある。まだ、終わらせることはできない。謎は、闇の最深部で牙を研いでいる。ここからが本番だ。
――この事件、一筋縄ではいかない。




