10-2.助
――おーい!ここだーーっ!!
その叫びは、まるで誰かの代わりにこの世へ産声を上げたかのように、空気を震わせた。藍時の声は、夜の群青を引き裂くように飛び、木々の間を幾重にもすり抜けていく。
ここから声が届くことはない。それでも、信じた。この叫びが、恋さんの命を繋ぐ唯一の糸だと。
喉が焼ける。肺が裂ける。息を吐くたび、胸の奥で針のような痛みが走る。けれど止めない。その瞬間に、全て終わってしまう気がした。血の味が舌に広がり、唇の端から滲み出す。だが、それすら気にならなかった。
恐怖も、寒さも、疲労も置き去りにして――ただ叫ぶ。両腕を掲げ、振る。腕はもう自分のものではないように重く、肩の関節が悲鳴を上げる。
それでも、絶やさない。闇に飲まれたこの島で、その小さな灯りだけが“生の証”だった。それ消すことは、希望を殺すことと同義だった。
暗雲を切り裂く一条の光。それはもはや、彼の魂が、命そのものが、夜気へと放たれているようだった。心臓が同じリズムで脈打ち、燈も、鼓動も、止まることを強く拒んでいた。
彼が立つ空き地は、風の海だった。ロビー棟の裏手に広がるその場所は、膝丈ほどの草が波のようにうねり、風の向きが変わるたび、黒い潮流のように姿を変える。
月はまだ昇らず、山影が空を覆っている。視線の先は、ただの闇だ。人の気配は、どこにもない。息の音すら、時折、風にかき消された。世界の中心にいるのは、自分一人――そう錯覚するほどの孤独が、そこにあった。
(――頼む、見つけてくれ。頼む……!)
その祈りは、声の形をした涙だった。その瞬間、空が低く唸った。大気そのものが震えている。巨大だが低く鈍い音が、天を満たした。
彼は息を止めた。耳を澄ます。風が巻き、草が倒れ、夜が揺らいだ。そして――遠く。聞こえた。確かに聞こえた。回転音。最初は点だった。やがて線になり、面へと広がる。音が近づく。早い。確実に、こちらへ向かってくる。
……来た……!
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。安堵か、興奮か、あるいは――全身を走るのは、電流のような衝撃。足元の地面が震え、空気の層が捻れ、音が全てを飲み込んでいく。
気付けば、身体中が痙攣していた。それはもう、理性の行為ではない。そうすることでしか、自分の存在を保てなかったのだ。風圧で何度も体勢を崩す。膝をつき、砂にまみれ、汗や涙、鼻水が混ざり、視界は塞がれ声も出ない。
けれど、失うわけにはいかなかった。"ここにいる”――それを証明する唯一の手段だからだ。倒れても、すぐ立ち上がる。その動きに、全精力を使い果たしていた。
やがて――闇を破るように、銀色の機体が姿を現す。巨大なローターが渦を巻き、草を吹き飛ばし、暴風となる。
光、音、風――三つの力が夜を支配した。藍時の全感覚が白く塗り潰される。世界が、その一点に集中する。機体が旋回を始め、地面に刻まれた螺旋模様が照らされる。
彼は叫んだ。
こっちだ――!ここだっ!!
サーチライトが彼を捉える。白光が一気に彼を包み、影を消す。昼間のような明るさの中、瞳から出た雫が宙に散った。それは恐怖ではなく、確信――“救い”の輝きだった。
ヘリが高度を下げる。爆音が地面を震わせ、風圧が服を引き裂かんばかりに暴れる。彼は立ち上がり、全身で会話を続ける。最後の瞬間まで。
――ドスン。
地面が鈍く沈み、辺りが静まり返る。その瞬間、肩が落ち、膝が笑う。呼吸が荒れ、視界が霞む。立つことも、ままならない。
機体の扉が開き、白衣の男が降り立つ。足元に目を落とすことなく、真っ直ぐ地面を踏みしめ、駆け出した。その目には迷いがなかった。
藍時は、その姿に“救い”という言葉の意味を見た。
こっちです!この建物の食堂で休んでいる女性を助けてください!
彼が叫ぶと、医師は頷き、一言も発さずに走り去った。闇に飲まれていく背を見つめながら、唇を噛んだ。震えていたのは、寒さではない。張り詰めた糸が切れたあとの――静かな余韻だった。
夜が戻る。彼はその場に仰向けに倒れ込む。無限の空に吸い込まれそうだ。漸く終わったのだ。その確信が胸に広がる。だが――どこかで、小さな違和感が疼いていた。
……?"これで本当に、終わったのか?”
跫音が聞こえた。彼は何とか上半身を起こす。
二人の男が駆け寄って来た。一方の男がジャケットの内ポケットから顔写真付きの証明書を見せた後、短い言葉を投げる。
車は?
ここには、ありません。
……追うぞ。
はい。泥濘に轍が残ってます。
警官たちは頷き合い、ライトを構え、闇へと消えた。その姿を見送りながら、藍時は拳を強く握りしめる。
――誰も、まだ終わりを告げていない。何も、まだ終わっていない。
草の匂い、焦げたオイルの匂い、潮の匂い、血と汗と涙の匂い…それらが混ざり合って、胸の奥を締めつけた。
彼は、立ち上がり、歩き出す。ロビー棟の灯りが見える窓の中で、白い光が瞬いていた。それだけが、夜の中の希望だった。
足を止め、じっと見つめる。安堵、疲労、無力感、焦燥、全てが胸の中で渦を巻いていた。
空を見上げれば、雲が散り、星々が現れる。安穏とした世界。けれど、決して"平穏”とは思わなかった。
その確信が、背筋をひやりと撫でた。心の奥底で、騒めきが木霊する。次の波がどこかで息を潜めているようだ。
深く息を吸い、ロビー棟の扉に手をかけた。金属の取っ手が冷たく、掌が震えた。押し開くと、背後で夜風が音もなく閉じる。世界が一瞬、息を呑んだように静まり返った。
救いは訪れた。だが、全てではない。
彼は、今誰よりも深く理解していた。
だが、この瞬間、胸に芽生えた不安が、後に島全体を覆う“第二の夜”の予兆となることを、彼もまだ、知らなかった――。




