8-3.問
テーブルの上に置かれた一枚の紙が、場の空気を完全に変えた。その瞬間を、誰も言葉で説明できなかった。ただ、室内の温度が一度下がったように感じたのだ。窓の外では風が木々を揺らし、軋む音が宿の壁を震わせる。古びた建物の呼吸のように。
こんな物を見つけました。……三年前の宿泊者リストです。
海都は低く、しかし驚くほどはっきりとした声で言った。その指先が紙を押さえたとき、淡い湿気を帯びた跡が残る。紙の端は少し焼け焦げたように変色しており、まるで長い時間、誰かの手の中で秘密のまま温められてきたようだった。
明らかに、いつもの爽やかな男子学生の顔ではなかった。そこには、怒りも焦りもない。ただ冷徹な確信と、ほんのわずかな決意が滲んでいた。
口調が変わった。
声の深度が、一段階、下がっている。
……キング、クイーン、そして――“あなた”の名前も、ありましたよ。
室内の空気が音を立てて軋んだ。まるで床下に潜む氷が、一斉にひび割れたような感覚。誰も息をしていない。微かな呼吸音だけが、かろうじてこの世界を現実に繋ぎ止めていた。
おい、海都!
藍時が、低く唸るように言った。
いないと思ったら……勝手にそんなもん漁ってどういうつもりだ!?俺ならともかく、お前は“良い子”だろうが。
怒鳴り声――のように聞こえたが、実際には狼狽と焦りが入り混じっていた。藍時自身、何に対して怒っているのか、うまく整理できていない。だが確かにそこには、恐怖があった。
――この少年が、今までとは違う"顔"を見せ始めたことへの。藍時がこの三ヶ月ほぼ毎日大学で会っていた彼とは全くの別人の表情、声、風格がそこにはあった。
海都は小さく微笑んだ。それは、誰かの最期を見届ける聖職者のように、穏やかで、首を横に振ると、灯りがその瞳に反射して光を宿した。
ジャック……僕は、“良い子”なんかじゃありませんよ。
藍時は息を呑む。その笑顔の奥から、もう一人の海都が覗いていた。それは、長い時間をかけて巧妙に隠されてきた“何か”の片鱗。人当たりの良さも、明るい声も、すべてが仮面だったのか――そんな疑念が、脳裏をかすめる。
音もなく、歯車が噛み合った。その瞬間、藍時は理解した。世界の流れが少しずつ方向を変え始めているのだ。
それがどうしたの?海都。
沈黙を裂いた彩の声に、温度はない。強い意志をもってはいるが、淡々と言葉を投げかける。
海都は答えず、ゆっくりと紙の一行を指でなぞった。
あなたの苗字……今と違いますね。“佐々木”じゃない。
彩の表情は、まるで一枚の仮面がひび割れる瞬間のように歪んだ。彼女は一度瞬きをし、息を整え、淡々と口を開いた。
ああ……そうよ。一年生の途中で、母の姓の“佐々木”に改姓したの。
――何かあったんですか?
海都の声は、深く、穏やかで、しかし妙に重かった。それは“質問”というより、“尋問”で、その沈着さが逆に不気味だった。
藍時は堪えきれずに口を挟んだ。
お、おい海都……今じゃなくてもいいだろ?そんな込み入った話――
今だからこそ話してもらう必要があるんですよ。
海都の声が鋭く、空気を貫いた。視線は彩に釘付けで、一切の揺らぎがない。
高校の時に父が亡くなったの。
彩はゆっくりと語り始めた。
でもすぐに苗字を変える決心がつかなくて……少し遅れて、改姓した。それだけの話よ。
説明は整然としていた。感情の波がない。けれど、どこか――整いすぎている。誰かにこう答えるために何度も練習したような、完璧な文章だった。
海都は頷き、囁くように言った。
本当に?それも、“計画”の一部じゃないんですか?
彩の顔から血の気が引いた。藍時が反射的に立ち上がりかける。
おい海都!やめろ、それ以上――!
だが海都の目が、冷めた光を帯びた瞬間、誰も動けなくなった。その眼差しは、人の罪を測る秤のようだった。容赦も、情もない。
藍時は本能的に感じた。この二人を放っておけば、何かが壊れる。それは人間関係ではなく、“物語”そのものかも知れなかった。
佐々木彩さん――僕と、一緒に来てくれませんか?ここではゆっくり話せないようですので。
静寂の中で、海都の声だけが異様に澄んで響いた。まるで世界の音を全て吸い込んでしまったかのように。彩は一瞬だけ彼を見た。その瞳の奥に、恐怖ではなく――諦めのような光が宿っていた。
……いいわ。それで、あなたの気が済むなら。
それじゃあ、ジャック――
海都は微笑んだ。だがその笑みは、人間的な感情の一切を排除したものだった。
短い間でしたが、親しくしてくれて、本当にありがとうございました。あなたと過ごした学生生活は楽しかったです……僕は行きます。
藍時の胸を、激しい不安が貫く。
おい!なんだよそれ…お前は入学したばかりだし、俺もまだ二年生だ。もっともっと、一緒に楽しめるぞ。だから、最後の挨拶みたいな言い方すんな……行くな、海都!
海都は穏やかに首を振った。
すみません。ジャックは吉岡さんをお願いします……僕が、巻き込んでしまった方ですから。
"巻き込んでしまった”――その一言が、胸の奥に残った。意味を問う暇もなく、全身がぞわっとする。
い……いち……かわ……さん……いったら……ダ、メ――
恋さんが、青ざめた顔で身を起こしかけた。声にならない声。喉が焼けるように震え、息を吸うたびに苦痛が漏れる。海都がそっとその肩に触れた。だが、そこに宿るのは優しさではない。
……無理に喋らないでください。きっと、もうすぐ助けが来ます。それまで、安静に。
その言葉には、温度がなかった。人工的で、訓練された響き。まるで“優しい人間”を演じる俳優のように。彼の口元がゆっくりと上がる。その笑顔は爽やかだった。だが、爽やかすぎた。闇を照らす光ではなく、闇の中でだけ輝く偽りの光。
恋さんの声が掠れて消えた。天井の梁に影が揺れる。その影が、まるで二人の背中を包み込むように伸びていく。
さあ、行きましょう。佐々木彩さん、いや――
海都が振り返る。その瞳に、もはや光はなかった。藍時は悟った。
――ここから先は、戻れない。
床の下から、不吉な音が響く。世界の“歯車”が、完全に噛み合った音だった。止めようとしても、もう遅い。
それは、“真実”という名の地獄へと向かう序章だった。




