8-4.焦
本来いるはずの二人の姿が、そこにはいなかった――だが、私にとってそれは“想定の範囲内”だった。
胸の奥で、じんわりと鈍痛が広がっていく。嫌な予感が、形を持ちはじめる。遠くの海で唸る波が、すぐ目の前の岸へ押し寄せようとしているように。
宮野と叙歌も、すぐに異変に気づいた。何も言葉を交わさないまま、視線だけで全てを理解した。
空気が、一瞬で凍る。微かな息づかいさえ、罪悪のように響く。ランプの灯がゆらりと揺れ、部屋の影が伸びた。その動きが、生き物のように蠢く。
藍時の喉から、震える声が零れた。それは、耐えきれずに崩れたガラス片のようだった。
エ、エースと……ササキが……い、行っちまったんだ……
その一言で、部屋の中にあった“秩序”が壊れた。叙歌が目を見開き、宮野の肩がぴくりと動く。誰もが次の言葉を求めながらも、恐れていた。
灯の届かない廊下の奥。そこには、黒い闇が沈黙していた。ただ静かに、しかし確実に――“何か”が息づいている。夜が呼吸をするたびに、影がゆっくりと形を変える。
藍時の唇は震え、言葉が喉で詰まる。目が泳ぎ、額の汗が頬を伝って落ちる。その全てが、単なる驚きではなく恐怖の色を帯びていたし、記憶の拒絶のようでもあった。
……え?どういうこと、ジャック。
叙歌の声が、鋭く空気を切る。その声には、焦りと、圧倒的な緊張が混ざっていた。
誰も、動かない。空気が止まり、炎の揺れだけが時間を進めていた。
そ、それが……エースが――
藍時の喉がひくつく。唇が動くが、声にならない。彼の目は、遠くの何かを見ていた。
雀野様、落ち着きましょう。ゆっくりで構いません。
宮野が静かに言った。しかし、その声すら冷気に溶けて消えた。外では風が唸り、窓が震える。壁の隙間から忍び込む潮の匂い。
そして、ランプの炎が小さく跳ね、影が床を這った。何かが、こちらを見ているようだった。
エ、エースが……ササキを、つ、連れ出したんだ。ふ、二人で話したいことがあるって……で、ササキも、それに応じて……
言葉が、最後まで続かない。声の余韻だけが空間に残り、やがて沈黙がそれを呑み込んだ。そこには、不可解な確信があった。
――何かが起きる。
いや、もう起きている…?
で?二人は、どこに行ったの?
叙歌の声が震えた。強がりの裏で、焦りが脈打っている。唇が白く、指先が冷たい。彼女の呼吸が浅くなり、肩が小刻みに揺れる。それでも崩れなかった。彼女は、理性という細い鎖一本で、自分を繋ぎ止めていた。
……分かんねえ。行き先を言わずに出てったんだ。恋さんを置いていくわけにもいかねえし、俺は追いかけられなかった……
その瞬間、時間が止まった。外の風も、屋根の軋みも、世界そのものが息を潜める。ただ、壁の時計の針の音だけが響いていた。一秒ごとに、空気が淀み濃くなっていく。
……とにかく、今は探しましょう。雀野様は、引き続き吉岡様の看病をお願いいたします。
わ、わたしも行く……じゃないと、み、みなぎちゃんが……
恋さんのうわ言のような声が、夢の底から漏れ出した。その手を取ると、血の流れさえ止まっているように冷たい。私はその手を包み込み、視線で藍時に告げる。
(頼んだぞ!)
雀野様、恐れ入りますが、もう一つお願いがございます。
宮野の声は、より低く、より硬い響きがあった。藍時は無言で頷き、深く頭を下げる。その姿には、覚悟と、微かな絶望が滲んでいた。
*
夜の風が頬を打つ。潮と鉄の匂いが混ざり合い、どこか腐臭を帯びていた。空を見上げると、薄い雲が月を覆い隠している。
光があるのに暗い。闇のほうが、むしろ生き生きとしている。砂利道を踏むたび、靴底の音がやけに大きく響く。
背後で同じ音が返ってくる錯覚に襲われ、思わず振り返る。誰もいない。それでも、何かがいた気がした。
でも……どこを探せば……
叙歌の呟きが風に攫われ、形を失う。焦りが喉を焼く。唇の内側を噛み、鉄の味が口に広がる。
二色様は、食堂でお待ちになっては?お疲れのようです。
宮野の声は優しかった。けれど、その優しささえも痛みに変わる。叙歌の顔は蒼白く、唇は乾いていた。それでも彼女は、首を横に振った。
私は、見届ける。だって、同好会の一員だから…
その言葉は、灯火のように静かだった。恐怖も疲労も焼き尽くして、残ったのは意志だけ。その小さな決意が、この闇の中で唯一の光だった。
……分かりました。でも、どうかご無理はしないでくださいね。
宮野が頷き、叙歌は車のドアを開ける。その音が夜の静寂を裂く。エンジンが唸り、ヘッドライトが闇を切り裂く。白い光が、濡れた道を照らし出した。風が吹くたび、木々の影が生き物のように揺れた。
車内には、エンジンとタイヤの音だけがあった。
……間に合うかな。
叙歌の声は、消え入りそうに小さかった。私は答えられず、ただ祈る。
(どうか――間に合って)
時計の針が進むたび、焦りが胸を締めつける。一秒が、永遠に伸びていく。時間そのものが、私たちを嘲笑っているようだった。
闇の中を進む車は、光を失った彗星に似ている。狭い島道が蛇のように続き、木々が頭上を覆い隠す。ヘッドライトが照らす枝が、時折、人の腕に見えた。その度に、叙歌が小さく息を呑む。
私は拳を握りしめ、爪で皮膚を切る。痛みで、辛うじて意識を繋ぎ止めた。
海都と彩が、今どこにいるのか。
あの夜が、どんな結末を迎えたのか――
まだ誰も知らなかった。ただ、島のどこかで“何か”が動き出している。その気配だけが、確かに、夜の底に潜んでいた。




