8-2.悶
恋さんが不在――それならば、代役を立てなくてはならない。なぜなら、私一人では、"推理ショー"の幕を開けることができないからだ。
そう。それはまるで、あの国民的なミステリー漫画の探偵と少年のように…
だが、それよりも先に考えるべきことあった。
それは――この瞬間、島の中の誰が、何をしようとしているのか……
"彼ら”からの調査報告が、頭の中で鮮やかに再生される。点と点が、ゆっくりと一本の線になり、やがて幾何学のような精密さで思考の中心へと繋がっていく。そこに浮かび上がった結論は、ただ一つ。
(次の事件が――起きようとしている……!)
その違和感は、言葉にできないほど曖昧で、それでいて、私の心の奥だけが、なぜか確固たる“形”を持ち、逃げようのない確信を帯びていた。僅かな傾きが、やがて致命的な崩壊を呼ぶ――その未来を、私はなぜかもう知っていた。
それは理屈ではなく、“直感”と呼ぶにはあまりに具体的な恐怖だった。まるで、誰かの意思が私の中に流れ込み、未来の断片を見せているかのように。
夜の空気は重く、湿気を孕み、雨の気配が濃かった。木々の葉が騒めき、遠くで雷鳴のような音が低く響く。それは自然現象というより、何かがゆっくりと動き出す“前触れ”のように思えた。
私は宮野に、ロビー棟へ向かうよう静かに告げた。それだけで十分だった。彼女は何も尋ねず、無言のままアクセルを踏み込む。タイヤが地面を削り、エンジンが低く唸る。車体が揺れ、窓の外の闇が矢のように流れていく。
宮野の横顔には、張り詰めたものが宿っていた。彼女もまた、言葉にできない“異変”を感じ取っていたのだろう。
バックミラー越しに、叙歌の顔が揺れる。
……未凪ちゃん、また、何か起きるの?
その声は、恐怖と祈りの間を彷徨っていた。私は答えなかった。答える言葉がなかった。もし、私がいま握っている“事実”を積み上げていくと…
――誰かが、死ぬ。
そんな予感が、氷柱のように胸の奥を貫いていた。映画ならば、探偵役が全てを暴けば物語は終わる。犯人は逃げ、あるいは暴力に走り、最悪の場合、自ら命を絶つ。観客は拍手を送り、夜空が映り、エンドロールが流れる。
しかし、現実はそうはいかない。誰も“脚本どおり”には死なないし、人生は、演出どおりにはならない。実際には、探偵も、犯人も、ただの人間だ。感情があり、恐怖があり、そして――救いを求めている。
真実は、凶器になる。それを扱う手が震えれば、鋭い刃となって喉を裂く。私はそれを、かつて痛いほどに学んだ。あのとき、私は真実を暴いた。"正義"のために……
だが、結果として、一人の人生を壊した。その記憶は今も、私の中で腐らずに残り、夜ごと心臓の裏を叩いてくる。
だからこそ、今回は――同じ過ちを繰り返す訳にはいかなかった。真実を晒すことが正解とは限らない。沈黙こそが、誰かを救うこともある。
だが、選び方を誤れば、"人殺しの黙認"になる。私はその狭間で、息を潜め、ただ進むしかなかった。
(……どうする?)
思考は、空転を始める。
(当人に話す?説得すれば止まる?――いや、そんな人間なら、最初から事件など起こさない…)
窓の外に、白い閃光が走った。その瞬間、ガラスに映った自分の顔が、見知らぬ何かのように見えた。まるで“真実”そのものに取り憑かれた亡霊のように。
(止めるんだ。必ず…)
そう心に誓った時、胸の奥で何かが弾けた。空気が変わった――
と、同時に叙歌の声が震えた。
あれ……?車が……ない。
彼女の視線の先。ロビー棟の前に停めたはずの車が、忽然と消えていた。確かに彼女はエンジンを切り、キーを抜いていた。それは今、彼女のズボンのポケットに入っている。
微弱な風が吹き抜けた。私は駆け寄り、地面に残る痕跡を確かめる。湿った泥がまだ乾ききらず、くっきりとした模様を刻んでいた。
(数分前に“誰か”が車に乗り込んだ。足跡の数とサイズからして、男女二人…)
"予兆”が、現実に変わる。私の頭の中で組み上げた最悪のシナリオが、静かに現実化していく。背筋を冷たいものが這い上がった。
考えるより早く、身体が動いた。ロビー棟のドアを開け放つ。足音が響く度、静寂が砕け、空気が震える。廊下の奥で、人の声がした。――食堂の方だ。私は息を整え、無意識にそちらへ向かった。
扉を開いた瞬間、藍時の声が響いた。
――おお!未凪ちゃん!
その声には、安堵と温もりが混ざっていた。救われた子どものような、無防備な笑顔。だが、それが、逆に胸を締めつけた。きっと彼は、不安だったのだ。
孤独の中で、人の気配を求めていた。だからこそ、仲間を見つけた瞬間、心から安堵したのだろう。
けれど私は、その裏に、微かな“歪み”を感じ取っていた。
――違う。誰かが、もう“次”を始めている。
時計の針が不気味に鳴った。
カチ、カチ、カチ――
その音は、まるで運命そのものが次の幕を告げているかのようだった。私は深く息を吸い、心の中で呟く。
(この事件、一筋縄ではいかない……)
それは、私自身への警告のように響いた。何かが動いている。確実に。誰かが、誰かの運命を握っている。そして私たちは、もうその奔流の外には出られない。
夜の闇がさらに沈み、風が低く唸る。森の奥で、獣の遠吠えのような音が響いた。世界そのものが、次の悲劇を待ち構えているかのようだった。
私はゆっくりと目を閉じた。そして再び開いたとき――そこには、"殺人事件コンサルタント"としての覚悟が宿っていた。
物語の頂点は、まだ遠い。夜明けはまだ来ない。けれど確かに、運命は狂い始めていた。その朝が訪れるとき、私は誰かを救い、誰かを失うのかも知れない。
答えのない問いが、胸の奥で疼き続け、鈍く鳴っていた。小さく、しかし確かに。心臓の裏側に埋め込まれた古い警鐘が、忘れ去られた記憶を掘り起こすように、体中で響いていた。




