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8-1.絆

 おい、新入り。子どものくせに、妙に落ち着いてんな。生意気なんだよ。


言葉は刃のように軽々と放たれ、次の瞬間には実体を伴った。巨漢の上級生の平手が頬を打ち、雷鳴のような音と衝撃が同時に襲った。


顔を捉えられた瞬間、視界に星が散り、世界が一瞬だけ白く光った。アニメでよく描写さねる光景だ――嘘のようだが、現実にもそういうことがある。少年はそれを身をもって知ることになった。


児童養護施設だが、少し特殊な通称があった。子供たちは、そこを"檻"と呼んでいたのだ。コンクリートの匂い、薄暗い廊下、向こう側まで続く格子窓から差し込む灰色の光――彼らは、当然年齢も、性格も、才能も、生い立ちも異なる。だが、ここにいる者たちは皆、表面上は同じ輪郭に切り取られていた。


"檻"では、暴力が、昼も夜も関係なく襲ってくる。理不尽な命令、理由のない嘲笑。助けを求めても、声は風にかき消され、無機質な壁に吸収された。


結局、生き残るには自分の身は自分で守るしかない。少年は幼心にいつもそう思っていたが、実力が伴わなかった。


庭の隅に聳える古い大木の下。根元にできた影は昼間でも冷たい。葉陰が作る小さな世界に、小さな体が蹲っていた。膝を抱え、顎を胸に寄せて。


左頬は赤く腫れ、涙で濡れた髪が頬に張り付いている。目は固く閉じられ、世界を拒否するように全身が縮こまっている。


 その顔……殴られたのか。……よし、待ってろ。


低く落ち着いた声。怒鳴り散らすタイプの強さではない。むしろ、静かな力が宿っていた。もう一人の少年は走るわけでもなく、早歩きでもない。しかし、一歩一歩に確信を込めた足取りでその場を離れた。肩に力は入っていないが、視線の先はぶれない。"少年を救う"という、揺るがぬ判断がそこにあった。


それから五分も経たぬうちに、ズルッ、ズルッ――乾いた地面を引きずるような音が、遠くから近づいてきた。足跡が乱暴で、地面に刻む印が太い。


少年が見上げると、さっき自分の頬をビンタした巨漢の足首を両脇に抱えたもう一人の少年が立っていた。


 お前を殴ったこいつ、俺がぶん殴ってやった。二度としないってさ。……もう大丈夫だ。安心しろ。


もう一人の少年は、柔らかく言った。声の調子からは脅しの匂いは一切しない。だが言葉の重みは確かだ。少年は顔を上げた。最初はゆっくりと、次第に確かな動きで。もう一人の少年を見上げる瞳はまだびっしょりと濡れていて、震える唇に精一杯の意志のようなものが垣間見せた。


 ……お兄ちゃん、ありがとう。


 俺は央太だ。お前の名前は?


少年はしばらく黙った。名前というものは、ここでは脆く、時に忘れられる。親から与えられた名前があるには違いないが、この場所では、それを明かすことは、自分という存在を相手に預けることだった。それは時に勇気を必要とする行為だ。


 名前は…


とっさに出た声は掠れていた。それでも少年は名を告げた。小さな振動が、大木の下に伝わる。名前を聞いた瞬間、央太の顔に親しみと共感を含んだ僅かな笑みが流れた。ゆっくりと膝を曲げ、少年と目線を合わせる。年齢の差は三つか四つ。だが、それはここでは大した意味を持たない。重要なのは、今この瞬間に存在する“選択”だ。守るか見過ごすか。


 ここにいると、色んなことを忘れそうになるんだ。お前はどこから来たんだ?


央太の声は問いかけだったが、それは調査でも詮索でもない。単純に、相手を知りたいという欲求と、相手に安心してほしいという気持ちから来ている。


少年はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で口を開いた。言葉は切れ切れで、記憶が遠いところにあるかのように綴られた。家のこと、父親のこと、それとなく匂わせる夜の泣き声。決して詳しくは語られない。痛みが蘇るからだ。


 ……あの山の方から来た。お母さんと二人で。……でも、ある日、お母さんがいなくなった。誰かが来て、連れていったって言われた。それで、"檻"の人と一緒に、ここに来た。


央太は聞きながら、少年の手の震えを確かめるように見た。言葉の端々にある欠落が、その子の世界をどれほど小さくしてしまったかを雄弁に物語っていた。だが、央太は深く詮索せず、その代わりに少年の肩に軽く触れた。物理的な接触は、言葉よりも確かな安心を生むことがある。


 これからどうするかは、お前が決めればいい。だけどな、一つだけ覚えておけ。ここで生きるってことは、時々誰かを信じなきゃいけなくなる。信じるのは怖い。裏切られるかも知れない。でも、一緒にいる時は、俺がそばにいる。そういう約束ならできる。


央太の言葉は、単純だが重い。ここで誰かを信じることがどれほど危険か、彼自身がよく知っている。裏切りは日常で、助けが仇になることもある。それでも彼は、そのリスクを取ると宣言した。少年はその言葉を噛み締めるようにして、深く息を吸った。目元に残る赤は薄れ、涙が一粒また一粒と頬を伝った。


 ありがとう……央太兄ちゃん、ありがとう!


大木の葉が風に揺れる。遠くで誰かが笑い、誰かが怒鳴る。世界は相変わらず乱暴で雑然としているが、二人の間には弱々しい線が引かれた。線はまだ細く、しかし確実に描かれていく。


その小さな結び目は、後に広がる事件の端緒となるかも知れない。今はただ、ほんの一瞬の安堵。それが如何に長く続くかは、まだ誰にも分からない。けれど央太は、その後に待つことの断片を直感していた。子どもたちが失うもの、奪われるもの、そして奪い返すための小さな抵抗――そのどれもが、やがて語りの核になる予感が、彼の胸に冷たく光った。


彼らはしばらく動かなかった。時間がゆっくりと流れる場所で、ほんの数分が永遠のように感じられる。央太は少年の名前を何度か呟いて覚えようとし、少年は央太の背中の幅に自分の安心の居場所を見出すように、薄く笑った。笑顔は、ここではとても貴重で、光のように脆い。


遠くの建物の窓には、既に食事の準備を知らせるオレンジ色の光が差し込み始めている。夕刻が近づくと、この場所の空気は一層冷たくなる。だが今は、まだ日が高いうちに生まれた小さな出会いが、二人の胸に温度を残している。


央太は立ち上がると、手を差し出した。少年は少し躊躇った後、その手を取る。握手というには不格好だが、それでも確かな接触だった。


 一緒に飯を食おう。


 うん。


その声は小さかったが、二人の足取りはどこか軽かった。施設の石畳を二人で歩くと、周囲の視線が一瞬だけ集まった。いくつかの顔は興味深げに、いくつかは面倒くさそうに見下ろす。だが誰も手を出さない。そのことが、また一つの救いだった。小さな勇気は、誰かが見守ってくれるだけで違う色を持つ。


 なあ、お前、トランプってゲーム知ってるか?


 トランプ…聞いたことあるけど、見たことはないよ。


 そうか。じゃあ、飯の後に俺が教えてやる。


こうして二人の物語は始まった――わずかな優しさから芽生えた共同体験。後にそれがどのように波及し、どんな真実を暴き、どのような代償を払うことになるのかはまだ見えない。


今はただ、少年が、央太の手を掴んだという事実だけが確かに存在している。そしてその救済が、この先の不穏な出来事に対する小さな灯火となるのだった。

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