7-3.淵
二色様、こちらでお間違いないでしょうか?
宮野は、叙歌へ確認する。その声には普段の冷静さに加え、緊張が混じっていた。断崖の上、海風が絶え間なく吹きつけるこの場所は、常に危険を孕んでいた。
私は、二人の会話が終わる前に外へ出た。ドアを閉めるときに立てた小さな金属音が、崖の上の静けさに吸い込まれていく。波の音は遠く、だが規則正しく、低く、まるで大きな胸が息をするように呼吸していた。空は厚い雲に覆われ、陽光は薄い布で濾したように柔らかく、色を失っていた。海風は頬を撫で、潮の匂いが鼻腔に染み込む。
湿った空気はスマホのガラス面に一瞬だけ曇りを作り、指先に冷たさを伝え、体全体の神経を覚醒させるように、微細な緊張を生む。地面の砂利はわずかに湿り、靴底に伝わる感触がそれを増幅させる。足を一歩踏み出すごとに、微かに崩れ、小さく音を立てる。自然の静寂に混ざり、遠くで響く波の轟きよりも鮮明に耳に届き、心拍を速める。
うーん、ダメだー。もっとギリギリまで行ってみようかなあ。
私に続き車を降りた叙歌が、軽く肩を回しながら言った。彼女の声はいつもどおり明るく、場の緊張を破る潤滑油のように働くはずだった。だがその笑い声にはどこか掠れたところがあり、皮膚の下で小さな震えが伝わってくる。
手に持ったスマホを何度か裏返し、画面を覗き込み、またしまう。爪先立ちで地面の小石を蹴る仕草が、無意識の不安の表れに見えた。叙歌の髪の毛が風に揺れるたび、視界の片隅で光が瞬き、その変化が彼女の心拍と同期しているかのように錯覚する。
小さな息遣い、手首の微かな震え、肩の張り――全てが不安の集合体となり、場の空気をさらに重くしていた。
あと十メートルほど前に進んでみましょう。
宮野は、降車しながら私たちに投げかけた。言葉に余計な装飾は一切ないが、緊迫感が混じっていた。十メートルという数値には無駄がないが、彼女が秘める期待と不安が凝縮されていた気がした。
はーい。
叙歌は肩をすくめて宮野の提案に応じた。その返事はおどけたようでありながら、不安を隠すための仮面でもあった。目元には一瞬だけ焦りが走り、その瞬間、こちらの掌が強く握りしめられた。
微かな手の温もりと力の変化が、緊張感の糸をさらに巻き上げる。互いの存在が互いの不安を和らげる一方で、同時にその場の張り詰めた空気を強化するように感じられた。
地面は硬く、踏む度に微かな振動が足先に伝わる。風は、耳の奥まで通り抜け、頬や首筋の皮膚を突き刺すように吹きつけた。息を吸うたび、肺の奥まで湿った空気が流れ込む。
皆が同じ瞬間を共有しているのではなく、互いに別個の不安を抱えたまま、視線の先には、果てしなく広がる灰色の海と、風に揺れる大地の上で微かに光る水滴を見ている。自然の圧倒的な存在感が、意識の片隅まで浸透し、心拍を高鳴らせる。
三人が足を止めると同時に、全員のスマホ画面が光った。期待が膨らむ――が、表示されたのは無情な「圏外」の二文字だった。灰色の表示は、この場所そのものが通信を拒絶しているかのように突きつけられた。
打つ手なし――
そう思った瞬間、頭の片隅に、かつて聞いた小さな知恵が蘇った。山奥での仕事の合間にベテランが囁いた秘技……都会では嘲笑されるだけの“機内モードのオンオフ”。機内モードを一度オンにし、その後オフにする。デバイスは最寄りの電波を再スキャンし、掴めなかった電波を拾える可能性がある――という話だ。都市伝説じみているが、こういう時は試せることを全て試すしかない。
私は深く息を吸い、手早く設定画面に指を滑らせた。黒いガラス越しに映る自分の顔は疲れて見え、額にうっすら滲む汗がある。操作は単純だ。機内モードをオン。数秒間、表示は灰色のまま。時折、風が吹き抜け、髪が耳元で囁くように揺れる。無音を自分の鼓動で満たそうとする。
胸の奥で波の低い呼吸音が響き、それが周囲の静寂と共鳴する感覚。指先に伝わる微かな振動は、心拍の高まりと連動して、時間の感覚を歪ませた。
機内モードをオフにして数秒後、スマホが微かに震えた。それは手の平に届き、胸のあたりに小さな波紋を広げる。画面にメッセージ通知が踊り、そして消えた。息を呑む。
――来た。
確信した瞬間、私は事前に用意していたメッセージを素早くコピーし、貼り付けた。内容は短く簡潔で、これまでの経緯、警察への通報依頼、そして……“最優先で確認してほしい事項”を箇条書きにしてある。
画面上の文字は落ち着いて見えた。送信ボタンを押す。操作完了までの一秒、二秒――それが何分にも感じられる。発信完了は、まるで天秤の針が振れるのを待つかのようで、時間はこういう時極端に伸びる。
私は宮野と叙歌に報告した。重要な情報の受信と発信ができたことを。そして、返答が来るまではこの場で待つ、と。
二人は歓喜と安堵の表情を見せた。曇り空の下、崖の縁で吹き抜ける風が、緊張の余韻を柔らかく撫で、僅かばかり時間が緩んだように感じられた。




