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5-5.稀

 なあ、おまえ、金持ちなんだって?いいよなあ、そういうの。


春の朝の光はまだ柔らかく、窓から差し込む陽射しが床に白い模様を描いていた。その穏やかさに似つかわしくないほど、声は異様に大きく響いた。騒めきに埋もれそうな教室の中で、鋭く耳を打つ。


新一年生の空間。互いにまだ打ち解けきれないぎこちなさが漂う中、その言葉はまるで池に投げ込まれた石のように波紋を広げた。


机の上には新品の筆箱に鉛筆。消しゴムの角はまだ崩れておらず、誰もが自分の席に居心地の悪さを覚えていた。スカスカの道具箱、年季の入った机、椅子の軋み。黒板には担任の名前が白チョークで大きく記され、その文字は子どもたちにとって未知の一年を象徴していた。


その空気を破る声に、響子は顔を上げた。


 ……だれ?あんた。


隣の列にいた少年は、短い髪が跳ね、寝ぐせのまま飛び出してきたように見えた。日に焼けた肌は田舎臭さを隠すこともなく、しかし黒目がちな瞳だけは妙に真っ直ぐで、こちらを射抜くように見つめていた。


 央太。王様みたいで、いい名前だろ?


胸を張るその仕草は、六歳や七歳の子どもが見せるにはあまりにも堂々としていた。自信過剰で、無礼で、だがどこか羨ましいほど自由だった。


響子は鼻で笑った。


 ママが言ってたわ。バカとは話しちゃダメって。


 へえ?でも俺、バカじゃねぇし。だからセーフ。


 ……気付きなさいよ、バカ!


 はあ?バカって言うほうがバカなんだよ!


 もう、うるさい!バカが移るから話しかけないで!


 ……おまえ!また言いやがったな!


 あんたに"おまえ”なんて呼ばれる筋合いないわ!


やり取りに、周囲からクスクスと笑い声が広がった。無邪気な反応だった。だが響子にとっては衝撃だった。笑われることなど一度もなかったからだ。


幼稚園までは"お嬢様"として扱われ、誰もが彼女を褒め、守った。舞台の中心に立つのが当然だった世界。笑いものになるなど、想像すらしていなかった。


最悪の出会い――だがその最悪は、鮮やかでもあった。


十五年前、ランドセルに体が負けていた頃の話だ。


響子にとって私立小学校への進学は当然の未来だった。ピアノ、バレエ、英会話。幼い頃から与えられてきた習い事が、その延長線上を約束していると信じていた。


だが両親はある日突然、"世の中を知るため"と称して、地元の公立へ通わせた。響子にとって屈辱だった。幼稚園の友人は誰もおらず、残されたのは知らない顔と好奇の視線ばかり。


一方、央太は児童養護施設で暮らしていた。食事も遊びも部屋も、仲間と分け合うのが当たり前。だからこそ彼は、笑いたければ笑い、怒りたければ怒った。忖度を知らないその率直さは、響子にとって異国の言葉のように理解できなかった。


彼の第一声は、無神経で粗野で、しかしどこか解放感を纏っていた。響子が一度も触れたことのない空気を。


その日を境に、二人は衝突を繰り返した。廊下で言い合い、給食で水をかけ合い、運動会では互いを敵とみなした。完全な犬猿の仲。それでも不思議なことに、互いを避けることはなかった。磁石のように、寧ろ惹かれていた。


小学三年生のある日。スケッチブックに絵を描く響子を、央太は覗き込んで一言。


 下手くそだな。


顔を真っ赤にして怒鳴る響子。しかしその夜、央太は黙って彼女の絵を真似て練習し、翌日持ってきた。ぎこちない線だったが、彼なりに一晩かけた努力の跡があった。


小学五年生の夏祭り。仲間外れにされ、屋台の影で泣く響子の前に、央太が現れた。


 食えよ、冷めるぞ。


差し出された焼きそば。慰めの言葉はなく、ただ乱暴に。それでも、その味は鮮烈な救いとして響子の記憶に残った。


やがて中学に進むと、自然に距離を置いた。家庭環境、友人、進路。その全てが壁となった。だが縁は切れなかった。街で会えば軽口を叩き、高校生になると携帯で短いメールを交わした。


 元気か?


 うるさい


それだけで十分。不思議と安心した。


十年以上。


友達とも違う。恋人にもならない。家族でもない。だが他人にも戻れない。そんな奇妙な関係は、ごく稀な再会で細く繋がり続けた。普段は忘れていても、ふとした瞬間に鮮明に、忘れようとしても必ず蘇る記憶。


――だからこそ。


その糸が大きく揺れたとき、響子は抗えなかった。


そしてついに。


"その時”が訪れるのだった。

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