4-4.気
三年前の初夏。今日、彼女は"佐々木彩"になった。
それだけのこと――戸籍上の名字が変わっただけ。そう言えば簡単だ。日常のどこにでもある話だろう。
だが、彩の横顔を見ていると、それが単なる改姓ではないことは誰の目にも明らかだった。何かが、その表情の端々に潜んでいる。微細な緊張、抑えた熱――外見は平静でも、内側には嵐が渦巻いていた。
今日から“佐々木彩”、か。
央太の声はいつもどおり軽い。けれど、その軽さは薄い膜の下に鋭い観察眼を隠していた。目が彩を追い、微細な動きまで拾おうとしている。口元に浮かぶ笑みもやや弾力を失っている。まるで、何かを見抜こうとする瞬間の光だ。
彩は視線を落とした。声は平板で、ほとんど温度を感じさせない。
ええ。高校二年の夏に父が亡くなって。それで、母の姓に。
言葉は説明に過ぎず、感情は切り離されている。哀しみも怒りも、あるいは孤独も、そこには含まれていない。――いや、正確には、含ませまいとしている。
彼女にとって、過去を語るとは、感情を削ぎ落とすことと同義だった。心の余計な熱は視界を曇らせる。だから彩は、内側の炎をひた隠しにしていた。
軽口を叩いた央太の声が、わずかに揺れた。
じゃあ、同好会では“ササキ”にしよう。
それ、ただの苗字でしょ?
彩の質問に、響子が笑いながら割り込む。
あなた、本当にトランプのこと全く知らないのね。“ササキ”ってゲームがあるのよ。
彩は机に肘をつき、頬杖をついたまま彼女を見上げた。響子の笑顔は明るい――だが、どこか張りつめている。声の底に隠れた硬質さが、彩の感覚を微かに刺す。
央太はその様子を観察する。興味か、警戒か。判断はつかない。
へえ……それで“ササキ”、か。
彩の声は氷のように静かで、落ち着きとは違う冷たさを含んでいた。微笑みと溜息の間に漂う微細な音。央太も響子も、それが何を意味するのか理解できない。
彩は視線を天井へ向ける。新しいエアコンの吹き出し口。音もなく冷気が降りてくる。この部屋は、学生たちから忘れられた空間だ。壁紙は黄ばんで、窓の鍵は固く錆びつき、机も椅子も古びている。いつ何が壊れてもおかしくないが、一つだけ取り柄がある。
――エアコン。数年前、以前ここを使っていた同好会が、学生課に食い下がり、設備を更新させたという。
確かに冷房は効いている。だが、空気は冷えても、彩の背筋には熱がまとわりついて離れない。冷静を装いながら、内側で何かが燃えている。
沈黙を破ったのは響子だった。
ところで、こないだの合宿、来年もまた行かない?
声は軽いが、間の取り方が妙に長く、誘導の匂いがあった。探りを入れる質問――それは友人の好奇心ではなく、何かを測ろうとする意図のある動作だった。
あの島、数年後にリゾート化されるから、モニターを募ってるらしいのよ。交通費も滞在費もタダ。しかも時期を選べば貸切。
央太の目が丸くなる。
マジ?すげーいいじゃん。ササキにトランプの修行つけてやらなきゃな。来年には新入生もいるかも知れないし。
肩を軽く小突く。その仕草は馴れ馴れしい。――しかしわずかに力が強い。無意識に、彩の反応を試す圧力をかけている。
彩は短く息を吐いた。氷の上を滑る一滴の水のように、冷たく静かな声で答える。
……いいわ。
央太は一瞬笑みを崩した。普段同好会へ顔を出さない彩が、合宿には乗り気である――その矛盾が、口元に現れた微細な動きとして現れた。
微笑みか、皮肉か、警告か。その意味を読み解く者はいない。読み取れる者がいたとしても、それは表面だけの話だ。
冷気が背筋を撫でる――そう思った瞬間、違和感が走った。あれは空調ではない。彩自身から漏れ出す冷たさだ。外側だけで微笑み、内側は何も見せない。表情の裏に潜む鋭さ。
彼女は確かに笑っていた。しかし、その笑顔は外側だけのものであり、誰も本当の彩を覗き込むことはできないのだった。




