インドへの旅(バンコクにて、最終章 鈴木氏と再会)
彼らは自分たちの保身のためには、曝こうとする者へは容赦はしない。それは彼らにとっては、非道でも悪でも無い。正しい行いとして実行される。
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(11) バンコクにて 小説「インドへの旅」最終章
あたかも、逃げ場も無いインドで私に対して行われた田沼の底意地の悪い徹底的な虐めが、田沼には正しい行いと認識されていたようなものである。
かくて、内密に調べていたJ・T氏は、闇に葬られた。
握っていた証拠資料ごとに、消されたのに違いない。
私は今回のインドの旅で、霊的な発想を信じる者の凶悪さ、危険性を身をもって知った。そして、かねてからの信条であるが
「奇跡は不要。神は奇跡を必要としない」
との思いを固めたのであった。
故に、サイババがいくら世界規模で信奉者を増やしていようと、奇跡をもって神を語るのなら、それは騙しと断言できるのである。
手品の如き奇跡は起きない。手品を神の技の証明と語るのは、詐欺師であり、それを信じる者も、また非道な騙しの片割れを担うことになる。
その証拠が田沼だ。なにが高級霊だ。
下種な低俗なカラオケに我を忘れる程度の感性と、若いときに散々女遊びをした事で人格を高めた、などというドアホの霊性など、百害あって一利無し。
奇跡は邪悪を源としている。神聖な『神』は、奇跡を必要とはしない。
これは、今回のインドの旅で、改めて実感したものである。
奇跡に頼った信仰? それがあるために、人類は悲劇から抜け出せなくなっている。
残虐な殺戮も厭わずに行えるようになっている。霊に取り憑かれているから、人への愛は二の次となり、思い遣りも欠如してしまう。
鈴木と会えれば、J・T氏とサイババの関連を話したかったが、会いだせそうにはなかった。
彼とは、チェンタイ氏と別れた後、一人でバンコクの夜の街へ繰り出してそのまま行方が分からない。フロントの女性に訊ねても知らないという。
私は心配性なのだ。彼が夜の街で事件に巻き込まれたのではなかろうかと・・・・
私はルームサービスを断っていたが、飲料の水は毎日フロントで依頼した。部屋に戻ると、すばやくペットボトル二本とバスタオルがドアの前に提供されていた。
フロントからサービス担当者へ連絡が行き、私が部屋に戻る前にサービスの女性が任務を果たしているのだろう。
ベッドはダブルで、シーツは一回も交換しないで過ごした。
インドでは、敷物のシーツも枕のシーツも、畳んで置かれているだけであった。
疲れて戻って、自分でベッドメーキングまでの余力はなくて、シーツを広げてそのまま横になるだけであった。枕のシーツも枕の上に広げただけで寝た。
バンコク滞在の最後の日は、再び、出国の準備で費やした。不要になった荷物は纏めて部屋に残して行く。その中には西陣織のネクタイが5本もあった。台車を腰に、または背負う時の紐として持って来ていた。ゴミにするには惜しい。フロントの女性が彼氏へのプレゼントに出来るのでは、と思って
「上等なネクタイが有ります。もう要らないので差し上げたいのですが、いりませんか?」
と、スマホの翻訳を使って示したが、翻訳が悪いのか、? 首を傾げていた。
スマホに書いてくれた返事は「後で部屋に行きます」
? まさか? こんな可愛い女性が来てくれる?
結局、来ることはなかった。
荷造りを万端整えて、もう一度フロントへ行って「浴槽用のソープが欲しい」と、手帳にその形状の絵を描いて求めた。
アワアワの液体石鹸である。タオルとシーツを提供してくれた時に、洗顔用固形石鹸と共に添えられていたこともあったが、毎回ではなかった。
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初めは、その形状の物の正体が分からなかった。
あるとき閃いた。ひょっとすれば浴槽用かもしれないと。
それで、試みに入れて見ると、案の定、猛烈な泡が浴槽内に立ちこめた。
火傷のあと、実は一度も全身浴はしていなかった。シャワーで頭と上半身、股間部だけを洗って火傷の左足には一切、掛からないようにしていた。
泡風呂の中へ、恐る恐ると、左足を浴槽の縁に乗せた状態で入った。
洋式の浴槽は頭から足まですっぽりと入れる程の長さがある。そこへ片足を上げた状態で入る。これは大変に難儀であった。
最初は壁際の方へ左足を上げていたが、これが不便で方向転換を試みた。そのとき、支えの右手が滑って浴槽に全身が嵌まってしまった。
片足を上げたまま、頭から沈没したのだ。
起き上がるためには、結局庇っていた左足も湯に入れなければならなかった。
浴槽で溺れ死にする例が多い、というのが、これで分かった。全身が沈没するほどの長さにしているから悪いのだ。
我が屋のアパートの安物浴槽のように腰から足までの長さであれば、背中は立てておれるから、例え眠っても沈没はしない。
それでも、泡風呂は楽しい。だから、もう一本頂いて帰りたかった。我が屋でも使ってみたい、と。
しかし、いつもは「プリーズ、タオルアンドシャンプー」で済ませていたのが、この時はソープと言ったのだ。その上、固形石鹸ではない物として絵まで描いた。
その絵は直立した棒状・・・・そして、ソープと言った。
ソープは石鹸のことと私は思っているが、ひょっとすれば?ソープランド?
そして直立の棒の絵?
受付嬢は心なしか戸惑った表情であった。
朝は食事を摂ると、そのままチェックアウトして、空港へ行く。
朝食時間が7時からであったので、6時には起き出したかった。
6時に起きる自信が無い。そこで再びフロントへ行ってモーニングコールを頼んだ。 了解して貰えた。これで一安心と、就眠の準備にかかっている時、ドアがノックされた。
「後で行く」、と言うていた通り、来てくれたのか?
小躍りしてドアを開けると、そこには・・・・彼女ではなく、鈴木が立っていた。
彼はなんと、松葉杖を突いていた。足にはギブスが・・・・
「偶然ですよ、偶然」
鈴木は、ナショナルスタジアムの向かいの交差点の所で私を見て、後を追ったところでバイクに撥ねられて、骨折したのだという。
「すると、あの時の事故で? 白人の女性が渡るのと一緒に渡ったときに、バイクが転倒して、衛兵が担ぎ上げていたあの怪我人が貴方だったのですか?」
「天罰かもしれません。しかし車に跳ねられていれば死んだかも。そう思うとラッキーですよ。久米さんとは何か引き合うものがあると思いますよ」
病院に3日入院して、今日退院したという。
「保険で全部保証されていますからね。もっと入院しておきたかったけれど、足首の骨折程度では無理だといわれて、先ほど、ここに戻ったところです。病院で手に入れた最高級のビールがありますから、持って来ます。今日がバンコクの最後でしょう。話したいことがありますので」
鈴木は、私に教えて欲しいという。
「僕は久米さんから見ると、まだ若造です。年長者には、若輩にはない年の甲、というか、長い人生で培った掛け替えのない智恵があるものです。そこで、ご教示をお願いしたいのですが・・・・」
私は過去から現在に到るまで、一欠片も尊大ぶった誇りなど持った事はない。いつも人々から見下される位置に甘んじていた。従ってそのような接し方をされると、大いに戸惑う。
「人間、還暦を過ぎると、あとはもう上も下もないですよ。だから僕は一々相手の年齢を聞かない。大まかに、青年、壮年、高齢、老齢、それだけでいいでしょう?」
「僕はつい、歳は? と聞いてしまうのです。一歳でも上なら、僕は年長者として一目置いて話すようにしているのです」
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(13) バンコクにて 小説「インドへの旅」の最終章
私は鈴木氏にさらに話した。
「それで悪い訳では無いでしょうけれど・・・・、年下、という眼下に見るのは、精々少年期、青年期まででいいはず、と、僕は思いますけれど。でも、日本人は相手への呼び方一つにも、様々な言い方があるでしょう? 英語のように自分はアイ、あいてはユー、それだけで済むのは、羨ましいですよ」
「そう。僕もそれで悩んでいましてね。実は弟からのメールに〝貴公〟と呼ばれているのです。彼は僕よりも10歳も若い。でも、仕事では公務員のキャリアでしてね。彼の方が身分が高い。僕としては弟の分際で〝貴公〟などと呼ばれて癪なんですよ。貴公というのは、貴様というのと同じ侮蔑語でしょう?」
「貴様、と呼ぶのと同じかどうかは、どうか、ですが、少なくとも年長者へ言うべきでは無いですね。文書なら〝貴兄〟ですか。とにかく、日本語は難しい」
「それで、返事に困っているのです。相手の呼び方が分からなくて。なんと呼べばいいのでしょうね?」
「弟なら〝貴君〟でいいのでは?」
「それが問題なんですよ。一度、僕がそう書いたのがきっかけで、弟から〝貴公〟と呼ばれるようになった。明らかに僕への優越を誇示していると・・・・」
相手と自分との上下認識が日本では凄まじい。弟という抗えない身分の下位を乗り越えようとして、兄へ対して対抗意識を持つのだろう。自然なままの、あるがままではすまされないものが横たわっている。
それはあたかも、霊能者が霊的レベルはどちらが高いかを意識するようなもので、自分がレベルが高いと認識すると、相手を見下してしまう。もし、上下の認識を持たずに、対等な言動をとれば、レベルの高い者は自分への侮辱と理解する。
「では、名前で呼べば?」
「会えば、向こうは兄さん、僕は呼び捨てです。ところがメールでは年長の僕へ対して〝貴公〟ですからね」
「では、貴方も弟さんへ〝貴公〟へ書かれては?」
「それもやったのですよ。そうすると、それ以後、一切、何もメールが来なくなりましてね」
鈴木氏はタイで最高級と評判の缶ビールを飲み干して、2缶目を開けた。私は一缶をまだ、チビチビと飲んでいた。
私には兄弟はいない。代わりに従弟がいる。付き合いが有ったり無かったりの、まさに兄弟に準じる間柄であり、相手への呼び方には気を遣っている。さん付け名前か、貴方か、貴殿、かであったが。
文字で見れば、貴公でもいいのだ。仲の良い気心の知れた者同士なら、気さくに〝貴様〟と書いても、良いだろう。しかし、いずれも危険だ。
事ほど左様に、日本語は面倒だ。
「付き合いにくいですね」と、鈴木に同情するより他に無い。
「弟の癖に、兄に尊大振るのだから付き合えませんよ。でも、付き合っていないと、なにかの時には困りますし」
「そこを見透かしているのですね。自分を相手よりも上位だと意識する自尊心。人をすべて対等な存在と認識できないということの裏には、何かがあるのでは?」
世俗の価値観で人間の尊卑を考える。それを裏から支えるのが、霊などの超常現象を信じているインド発の因果応報の思想なのだ。相手よりも世俗的に恵まれているのは、自分が徳の高い存在の証明、と思い込んでいる。従って相手を眼下に見据えた意識が自然に生まれる。
そういう問題点を鈴木氏に話しはした。鈴木は納得しつつも、理解出来ないようであった。
「久米さんは、自分の霊性を考えたことはありますか?」
藪から棒に問うて来た。
「その霊が問題の核心です。今回のインドの旅で、霊というものを全否定することになったのですよ。最初にお話ししたように、霊を語る者に散々な目に遭いましたから」
「それは、相手が低級なんですよ。屑同然の低級霊だからです」
そう言うてしまえば簡単だ。そうではない問題が、伏水となって流れている。
「僕には最初から分かっていましたよ。久米さんは相当に高い霊性があると」
「やめてください。そんな霊性はいりませんから。必要では無い」
「でも、もし、凄い霊性があると分かれば、どうしますか?」
「捨てます」
「有るものは捨られません。試したことはありますか?」
?
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つづく




