エピローグ
「有るものは捨られません。試したことはありますか?」
?
「石で分かるのです。町の中の石では無くて、山奥の、まだ誰の手にも触れたことの無い石で試せるのです」
? 聞きたくもない話であったが、澄川が真剣な表情なので、なにも言わずに聞いていた。
「まず、最初に正確に重量を量ります。そして石へ念を注入するのです。いい加減にでは無くて、本気で真剣に念を入れるのです。その後、もう一度測るのです。重量が変化していますから」
物質の重量が念力で変化する? それこそサイババの手品では無いか。それほどの物理現象の変化は、人間の〝念〟などでは発生しない。もし、それが可能であれば〝念〟で原子を圧縮して爆発させる事だって可能であろう。生身の人間の〝念〟などで、そんな物理現象は発生しないのだ。
アインシュタインの発見した〝(質量×光)の二乗〟のいうエネルギーは、〝念〟などでは出せない。
にも関わらず、この種の〝念〟とか〝超能力〟などの迷信が多くの人に浸透している。
数式から導き出された〝エネルギーと物質の等価性〟の理論で原爆まで作り出した人類だが、もし、サイババの奇跡が事実なら、サイババはその掌に原子爆弾ほどのエネルギーを引き寄せたことになる。つまり、1㌘の石を瞬時に無から生じせしめるためには、(質量×光速)の二乗分のエネルギーが必要なのだから、彼の掌には猛烈な、丸でブラックホールが出現したかのような怪現象が生じているはずなのだ。(1㌘の原子エネルギーは石炭で3トン分、石油で2,000リッター分、それを瞬間に掌に集められれば、無から1㌘の物質が生まれるかもしれない)
そんな事は断じて有り得ない。
そういう有り得ないものを妄想して信じ込もうとするのには、古代から、否、今に到るまで、高度に発達した人間の頭脳が正しく機能できずに綻びを生じさせている為と言えるであろうし、生命本能の不安が、知能をして何物かに依存せずにはおれない状況に陥らせてしまっているから、とでも言うべきものであろう。
「では、仮にそうだったとしますよ。それで、どうなりますか? それを発見すると、その後、人間をより一層、深く愛せるようになれますか? 自分を捨てでも愛せるように?」
私の質問に、澄川は即答した。
「いや、それはないです。愛するよりも出し抜く力が付くかもしれません」
それなのだ。求めるものが、頭脳の綻びから生じる幻想であれば、大事な〝愛〟よりも別の方へ行ってしまう。
「やはり、僕には必要ないです」
と、私は澄川氏を躱した。
その話は、そこまでで終わった。
そのあと、トイレ休憩して、再び、澄川は話しかけてきた。
明日の朝は、6時にモーニングコールを頼んでいる。既に深夜の11時になっていたが、話は終わらなかった。
サイババの話もした。J・T社社長の話も尽きることがなかった。
さらに、 インドの政府が、サイババを守った事についても、意見を交わした。
「政府は信用できません」
澄川と意見が一致した。
「それでも、利用しなければならないのです。政府を利用出来るか、出来ないかで、勝負がつくのですよ」
澄川は政府の閣僚を引き留め繋ぐ為には、何に注意すれば良いのか、と私に意見を求めた。
そんな世俗の最たることには、私はノータッチだ。まったくの無縁な話で、私に聞くこと自体が間違っている。
「僕は、自称〝久米仙人〟です。世俗には縁がないですよ」
「やはり、久米さんは凄い。久米さんとはまたお会いしたい。日本でもお会いしましょう。僕はあと一週間滞在して、それから静岡に帰りますから」
再会を約して「おやすみなさい」と別れたのは、すでに深夜の1時を過ぎていた。
インドの旅 おわり エピローグへ続く
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小説「インドへの旅」の最終章 バンコクにて(15)
<エピローグ>
私が自宅に帰り着いたのは、1月28日。田沼も松川もとっくに帰宅している。ネットを覗くと、早々と日記や感想が書かれていた。
松川の書いているのは、単なる旅程の記録。何処へ行ったのか、訳が分からないでいた私にとっては、行程を理解するのに良い資料であった。
旅の企画者で引率の田沼は・・・・、彼は日記を書かない。写真も出さない。ただ、自身が立ち上げているコミュニティに、挨拶程度の事を書くぐらいである。
そこに、珍しく長文の報告を書いていた。
『・・・・南インド・バンガロール~チェンナイ、列車とバスを乗り継いで10日間・・・・安宿をめぐり「クールシャワー」にも耐えて体力勝負のインド旅・・・・次のインド旅行はどこへ行こうか・・・思案中です。』云々。
やはり、バンガロールからチェンナイと書かれていた。
私が、そう信じ切っていたのは当然であろう。彼の旅行募集にも、そう書かれていた。チェンナイの近くのオーロビルへ二泊の体験観光と!
途中下車の立ち寄りなどで、日程が狂って、オーロビルは、外見を見ただけで終わったのは、私にとっては残念至極であったが、それでも致し方のない事として諦めることは出来た。
〝バンガロールからチェンナイ〟
実は、これは嘘だったのだ。後日、事細かに辿って書き進めている内に、それが分かった。
(バンガロールからチェンナイへ、では無なく、全くの逆方向へ行っていた。インドの西海岸へ近い方のカンペであり、カンペの後には更に西のコパールという所まで行っていた。バンガロールからチェンナイへ行くよりもさらに距離は長かった。これでは目標のオーロビル二泊どころではない。募集内容から完全に逸脱している。その説明も謝罪の一言もないままだ。多大な苦痛と無駄な出費に対して、弁済金と慰謝料を要求してもよいほどの不正なのだ。「詐欺罪になるでしょう」と助言してくれた人もいた。もし、ツアーなどの企画であれば、当然訴訟の対象だ。・・・・?これはツアーとも言えるのだろうか?旅程を示して参加を募ったのだから)
田沼は途中で、又は、出発前かに、予定を変更していたのだ。それを一言も私には知らせないまま・・・・、そして、最後の最後まで、伏せたままでいたのだ。
そうとも知らずに、私は単純に旅の感想を以下のようにコメントで送った。
~~~~~~~~~~~~~~
『Tさん
(体力勝負のインド旅)
本当に、そのとうりで、驚きました!
壮健なTさんにおいても、体力の限界に挑む旅だったのですね、、
私が参加するのは、論外だったのかも、、
兎に角、死に物狂いででしたよ!
Tさんの歩速はムチャクチャに速いし、後ろの人達を殆ど振り返らずに行くし、、
いやはや、参りました!!
カメラで撮影する段ではなかった、、それが、残念でした!
脆弱な私は、はぐれないように、付いていくだけで精一杯!!
それでも、頑張ったのは、オーロビルの体験観光に期待したからでした!
それなのに、二泊のオーロビル予定が、ただ、外観を見て終わりだったのには、
正直、がっかりしました、。、
道中 随分、お叱りを受けました、、
叱るTさん、、叱られる私、、
余りにも、歯がゆく、苛立たしい事だったと、申し訳なく存じます、、
でも、その、こっぴどいお叱り、人格侮辱までの徹底した歯に衣を着せぬ指摘には、
心底、応えました、、まるで、中学生か、高校生にいうが如き、、
70になっている私には、自尊心も木っ端みじん打ち砕かれるものでした、、
でも、私は恨みません! 旅先で、あなたに頼るより他にない状況で、
その弱み、反抗できない状況の中で、徹底的に侮辱されたにも、関わらず、
わたしは、Tさんに怒りはしません!
むしろ、感謝しています!
その翌日、オーロビルへの一日に、私のペンは、記入していたのでした!
笑止千万でしょうけれど、、
インスピレーション、と言うべきか、使命? 命題?
改めて、若年より探求していた精神性、真理探求の、結論を聞いたのでした!
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小説「インドへの旅」 エピローグ 1
以上アメブロ バンコクにて(8)インドの旅 終了 & エピローグ(1) http://ameblo.jp/syosetu-123/entry-12185271773.html
我が左頬を打つ者は、我が右頬も打て
我は咎めず、謗らず、我は汝と共に有り
世俗の価値観を、死の狭間で全て無意味と、切り捨てて、
ひたすら精神的な充足と真理の徹底的探求に明け暮れていた私には、
必然的に辿り着いたものが有りました!
その、再確認に、加えて、一歩踏み込んだものです!
人を、上から目線で見るべきではない!
彼も我も同じ人間であり、その、性格、慣習、癖などは、
なんら、その人の存在否定になるものではなく、人は、人に危害を加えない限り、
あるがままで、情愛を持ち合うべきだと、、
ゆえに、「我は謗らず」と、加えたのでした、、
そして、Tさんが嫌われるマイナーな性格、それさえも、受容すべきだと、、
ゆえに、「我は汝と、共に有り」、、です、、
ベートーベンは、音楽は哲学をこえる、と、言うていました!
(本人自身の悲痛から、出たのでしょうが)
人間が、陥る絶望、宇宙的悲哀、それを、理解していた、、
そこから、
これはあなた独りの苦悩、絶望ではない、と、共感を持ち、
その上で、さあ、一緒に立ち上がろう!と、鼓舞して行く、、
これが、人間です、、あなたは、ダメだ、、では無い!
叱れば良いのではない !、必要では無い!
人には、人の愛だけが必要なのです!
その大事な愛が、損なわれる結果になるようなもの、それは、如何なるものも
霊でも、超能力でもない!
人間には弱いままの人間が必要!奇跡を働く神や霊能者などは、必要ではない!
さらに、言えば、、レベルは自分が高いからと、上から目線で、人を区別しては、
大事な、愛が損なわれるのです、、
Tさんは、カウンセラーを目指していると、おうかがいしたので、
あなたなら、お分かりいただけるにはずだと、期待して書かせていただきました
、、
大きな度量で、お読み頂けることを、期待居ます、、』
~~~~~~~~~~~~~
この文章の何処が怪しからんのであろうか?
私は、帰宅後、せっせと旅の回顧を公開日記に書いていた。田沼は自分が日記を書かない事もあって、人の日記も見ない。だが、田沼のシンパ、親友?告げ口趣味の人間が取り巻いている。奴は田沼のオフ会で一度会った。それ以後、奴はしきりに私の日記にコメントを送るようになっていた。言葉使いは丁寧だ。そして、インドへ行くことになった事で、自身の体験からのアドバイスとして、様々な情報を送ってきた。
その中には、万一の怪我の時には絶対に役立つ貴重な消毒薬を持っているので進呈したい、と申し出てくれた。落ち合う場所と日時まで決めて。
私は傷などの消毒用には、私なりの仙薬があった。しかし、親切な申し出に出向いたのである。準備万端整えて、明日出発というときに、予定が変わったのでキャンセルする、と通知が来た。
それならそれで仕方が無い。しかし、組み込まれた予定通りに行動した。
キャンセルでも、あるいは都合が付くこともあるだろうし、その時のためにと・・・・
指定されていた場所と時間で休憩して、30分過ぎたところで、次の目標へスタートした。
愛嬌のつもりで、SMSを送っておいた。すると・・・・
「キャンセルと言うていたのに、来るとは、なんという非常識な人ですか!」
と、批難の返事が来た。
まぁ、そういう理解の仕方も、人によりけりであるのだろう、と、気にしないことにしていたのだが・・・・
その奴こそ、告げ口の犬だったのだ。(なにもかも、後になって気が付いた)
奴は、私の回想日記を見て、田沼を中傷誹謗している、と、私を批難した。
あるが儘を書いていても、それは批難と同じだ、というのだった。
つまり、騙されていても、苦痛を与えられても、それを口外しては、相手への中傷誹謗になる、ということらしい。
これには開いた口が塞がらなかった。
泣き寝入りをしろ、というのだ。怒りを表せばそれは批難した事だと・・・・
私は、京都の集合住宅で同じような苦渋を舐めさせられたことがある。
つづく




