インドへの道 ちょっと思案
まさか、物乞いしか許されていない人々がいるとは、信じられないが・・・・
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より、続き
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<小説 インドへの道 ちょっと思案1>http://smcb.jp/_ps01?post_id=6943887&oid=235598
イギリスに長い間、植民地化されていたインド。イギリスは文明国の最先端を行っていたはず。
その文明の恩恵にはあずかれずに、原初のままで打ち捨てられていたインド。
第二次世界大戦の後に、やっと独立を果たしたという。
(その時のガンジーによる呼び掛けは、大戦中に日本軍と協力して戦ったインド人を戦犯として裁判に掛けられる事になった時に「インドのために戦った彼らを救え!」と呼び掛けて、それが独立運動へと高まり、イギリスは大戦で疲弊していて抑えられずに独立を認めた、という事らしい)
日本では、インドは仏教発祥の国として、天竺国と呼んで崇拝していた。岡倉天心が「亜細亜は一つなり」と、西洋の文化に対してアジアの誇りを唱えたのを、私は聞いていた。
その日本人が尊び敬う仏教発祥のインドが、仏教の土台となっている輪廻転生、因果応報、を抗いがたいものとして、幾千年もの長い間、足枷として民衆を、人間を縛り続けて来た、という有様に、私は言う言葉もない。それは、魔術?呪縛?魔法?
かのガンジーさえも呪縛に囚われていた。カースト制度は必要だと・・・・(但し晩年には「カーストはなくなれ」と言ったとか)
ついでに言うておけば、ガンジーの「非暴力運動」これは、インドの長い歴史上の伝統であると指摘されていることに関してだ。ヒンズー教、仏教、ジャイナ教などにおいて、伝統的に発生していたということは、何を意味しているのか?
抑圧され、差別され、虐待されている「前世からの罪人」であるとされる者たちは、受ける不当へ対して暴力で抗議することは断じて許されていないからである。そうすれば、暴力ではない抗議、それしか残されていない。精々「不服従」
そういう意思表示しか持たなかったインド人へ対して、イギリスは随分と統治が楽であったことだろう。
人間をかくまで徹底的に縛り上げて抜け出せなくしてしまったインド発の思想・・・・
それがインドだけに留まっていたと、どうして言えるだろう!
支配階級のために、被支配者たちが逆らわないようにするのに、この上もなく重宝な思想なのだ。反抗や不平不満は、来世の幸福のために、被虐者みずからが禁制してしまうというこの上もなく有り難いものの考え。
インドの人々は、何を見つめて、何を怖れていたのだろうか・・・・
インドには到る所に、偶像礼拝の祠が祀られている。そして、現在でも、インドには霊的パワーの強い場所として、世界中から怪しげな物を期待して集まる輩が多いと聞く。
実際、インドには今もその種の霊験を信じている者がいるそうだ。そういう物の怪に取り憑かれて修行する者たちが・・・・
サドゥーと呼ばれている。物質的・世俗的所有を放棄し、自分の肉体に苦痛を与えて、ヒンドゥー教の第最終的な解脱を得ることを目標としている、とか。
10人や20人居る、というのではない。数百万人、というサドゥーが居るということは、その妄想が如何に根深いものであるかを示している。
(以下、ウィキペディアより引用)
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<小説 インドへの道 ちょっと思案2>
<インドではサドゥーは法的に死亡者とみなされる。入門時に、自身の葬儀を行う者もいる。3年毎に、ガンジス河畔の4箇所の聖地のうちいずれか1つで、インドのすべての地域のサドゥーが集まる、 クンブ・メーラと呼ばれるサドゥーの大集会が開催される。クンブ・メーラは毎回数千万人が参加する、世界でも最大級の祭典である。数百万人の聖者の行進は壮観で、近年は日本からの観光ツアーも企画されている。サドゥーはクンブ・メーラに参加するため、二等列車に無料で便乗することが一般に黙認されている。>
<さまざまな宗教的実践を行って毎日を過ごす。瞑想を行うものから、極端な禁欲や苦行を自らに課す者も多い。断食や、僅かなバナナだけで山中に籠もる、数十年も片手を高く挙げ続ける、何年も片足立ちを続ける、転がりながらインド大陸を横断する、柱の上で生活するなど、サドゥーの苦行には決まった形式がない。また宗教的瞑想のため、ハシシ(大麻)を吸引する習慣を持つものも少なくない。サドゥーのほとんどは民衆からの喜捨により生活の糧を得ているが、多くのサドゥーが、貧困と飢餓に苦しんでいる。>
<サドゥーになるためにはグル(導師)に弟子入りする必要がある。サドゥーの資格を得るまでには、導師のもとで数年間、無償で下働きに従事しなくてはならない。その後、クンブ・メーラの承認式に参加して、正規のサドゥーの資格が与えられる。志望者は10代後半か20代の若年者が多い>
ガンジーは、カースト制度を有意義なものとして認めていたが、そのカーストの外へ位置づけられた不可触民制は否定した。一つの綻びを作ったといえるかも。そのあと、ガンジーの弟子なのかな?不可蝕民出身のアーンベードカムという人物が現れる。彼はガンジーを超えて、徹底的な差別廃止へ動いた。大戦後、初代首相のネールの元で、現在の憲法を作り上げて、不可触民廃止と彼らを優先的に雇用し、教育を受けられるように、それを守らなければ刑罰を科するという特別な保護を与えたという。それ以後、不可触民から高学歴者、公務員などが大量に排出されてきたらしい。
アーンベードカム自身が不可触民出身であったからなのだ。(一方のガンジーは貴族階級出身であり、カースト制度は必然のものとして見えたのであろうか)
憲法が制定されて以後、法律上はインドには差別はなくなった。(他の階級からは逆差別と不平もあるらしいが)
それでも、幾千年も続いた差別思想は、民衆からは早々には消えて無くなるものではない。信仰になっているから、なおのことだ。
その非人道的な根拠であるところの信仰を、人間は滅多なことでは打破できないのである。
日本人でも同じ状態が続いている。
では、西洋諸国では?
自然発生の多神教から、一神教へと変化して、インド発の思想とは一線を画した。
神々が多数存在すれば、それぞれの神に差別が生まれるであろう。同一に尊い神、として敬うことは出来なくなる。種類分けか、上下分けか・・・・
その延長上に、人間も差別されて当然となる。多神教がどうして良いものと言えるであろう。
しかし、歴史上、一神教が神の名の元で、残虐行為を働いてきて、その流れは今も続いている・・・・、と文化人達は指摘する。それは事実であるが。
それでは、インドのように多神教の元で、輪廻転生と因果応報に縛られて、人権も平等も人間の尊厳も人権も棄てて良いというのであろうか?
人が反抗しなければ、争いは起きない。そのためには、因果応報と輪廻転生の思想が不可欠となり、最後には、畜生と同レベルと軽蔑される不可触民の存在が必要となってしまう。日本にも、それがあったのだ!
もし私なら、不可触民で侮られ抗弁の一つも言えずに汚物処理の仕事しか与えられない非人とされるぐらいなら、棍棒をもって戦うであろう。来世で更に苦しもうと、現在の苦痛から比べれば取るに足らない。私を人として同等に遇せず、人間としての尊厳も認めない奴なら、背後から棍棒で脳天を打ち砕き、結果、死ぬなら死ね、と思ってしまう!
しかし、多神教の元では、そういう人間宣言は許されない。
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インドへの道 ちょっと休憩思案
続く