第5話 一番近い距離
翌日。
神代悠真は、教室に入る前から嫌な予感がしていた。
理由は単純だ。
廊下で、明らかに自分の名前が聞こえていたからだ。
「神代ってさ……」 「昨日も女子と一緒に帰ってたらしい」 「しかも別の子だろ?」 「マジでどうなってんだよ……」
聞こえないふりをして、扉を開ける。
瞬間、数人の視線がこちらに流れた。
慣れたくないが、昨日よりもさらに“固定化”されている。
――完全に目立ってるな。
自覚したところで、どうにもならないのが厄介だった。
「おはよ、悠真くん」
席に向かう途中で、ひよりが声をかけてくる。
いつも通りの笑顔。
だが、今日は少し違った。
立っている位置が、妙に近い。
「おはよう」
「ねえ、今日さ」
「うん?」
「一緒に登校しよって言おうと思ってたんだけど、もう来ちゃった」
「それ昨日言ってくれればよかったのに」
「言ったら来てくれた?」
「起きられれば」
「それ無理なやつだね」
くすっと笑う。
そのまま、ひよりは自然に悠真の横に並んだ。
距離が近い。
昨日よりも、さらに。
教室の空気がわずかにざわつく。
「……今日は最初からその距離か」
「何か問題ある?」
「いや、問題というか」
「じゃあいいじゃん」
即答。
引く気はないらしい。
悠真は小さく息を吐いた。
「好きにしてくれ」
「うん、そうする」
満足そうに頷く。
そのやり取りを、教室の後方から見ている視線があった。
九条麗華は、自席に座ったままその様子を見ている。
昨日の帰り道で見た光景が、頭の中に残っていた。
――誰に対しても、同じように接する。
それが本当だと分かった以上、目の前の距離の近さは別の意味を持つ。
「……」
無意識に、指先に力が入る。
ひよりの笑顔と、その隣にいる悠真。
自然すぎる距離。
作っている様子がない分、余計に厄介だった。
「……なるほど」
小さく呟く。
昨日とは違う視点で、見えてくるものがある。
そして同時に――
面白くない、という感情も、はっきりと形を持ち始めていた。
◇
昼休み。
「今日もここで食べよ」
ひよりは迷いなく悠真の隣に座る。
もはや確認すらしない。
「……定位置になってるな」
「うん」
「否定しないのかよ」
「だってそうでしょ?」
当たり前のように言う。
周囲の空気は、もはや“そういうもの”として受け入れ始めていた。
だが。
「……いい加減にしていただけます?」
その空気に、水を差す声があった。
九条麗華。
今日は昨日よりも迷いがない。
「またですか」
「ええ、またですわ」
悠真の前で足を止める。
そして、まっすぐひよりを見る。
「あなた、少しは周囲を見たらどうですの?」
「見てるよ?」
「見ていてそれですの?」
「うん」
即答。
麗華の眉がわずかに動く。
「……理解できませんわね」
「そう?」
「ええ。なぜそこまで堂々としていられるのか」
ひよりは少しだけ考えるようにしてから、答えた。
「だって」
視線を悠真に向ける。
「一緒にいたいから」
教室が静まる。
あまりにもストレートな言葉だった。
だが、だからこそ誤魔化しがきかない。
「……そういう問題ではありませんわ」
麗華の声が、ほんの少し低くなる。
「この学園には、暗黙の距離感というものがありますの」
「距離感?」
「ええ。誰と誰がどの程度関わるか。それによって評価も変わる」
それは、間違ってはいない。
むしろ、この学園ではかなり正しい認識だ。
「あなたのその行動は、周囲に誤解を招きますわ」
「誤解って?」
「……」
言葉に詰まる。
麗華は一瞬だけ視線を逸らした。
だが、すぐに戻す。
「あなた方が、特別な関係だと」
「特別?」
ひよりは首を傾げる。
そして、少しだけ考えてから。
「……特別、なのかな」
ぽつりと呟いた。
その言葉に、麗華の目が細くなる。
悠真は思わず口を挟む。
「いや、普通に幼馴染だろ」
「うん、そうだよ」
ひよりはあっさり頷く。
だが、その直後。
「でも」
少しだけ笑った。
「それだけじゃないと思うけど」
空気が、変わる。
はっきりと分かるほどに。
「……どういう意味ですの?」
麗華の声が鋭くなる。
ひよりは少しだけ視線を逸らし、それから戻した。
「そのままの意味だよ」
「曖昧ですわね」
「だって、まだ分かんないし」
「……」
「でも」
今度は、はっきりと悠真を見る。
「一番近いのは、私だと思ってる」
その言葉は、静かに落ちた。
だが、その重さは十分すぎた。
麗華は何も言わない。
言えなかった。
否定する材料がない。
そして――
どこかで、それを認めてしまっている自分がいる。
「……勝手ですわね」
絞り出すように言う。
「そうかも」
ひよりはあっさり認めた。
「でも、嫌じゃないでしょ?」
「何がですの」
「悠真くんと話してるの」
その問いは、逃げ場がなかった。
麗華は一瞬だけ、言葉を失う。
昨日のやり取りが頭をよぎる。
あの、打算のない言葉。
「……」
沈黙。
そして。
「……嫌では、ありませんわ」
小さく、しかしはっきりと答えた。
言った直後、自分で驚いたように目を細める。
だが、もう遅い。
ひよりは、ふっと笑った。
「でしょ?」
「ですが」
麗華はすぐに立て直す。
「それとこれとは別問題ですわ」
「うん、そうだね」
「……」
話が噛み合っているようで、噛み合っていない。
だが一つだけ、はっきりしていることがある。
距離が、変わり始めている。
◇
その日の放課後。
「神代、完全に囲われてるな……」
「いやもうあれ勝負ついてるだろ」
「九条が引いたの見たか?」
「いや、あれは引いたっていうか……」
噂は、さらに形を変えて広がっていた。
◇
帰り道。
ひよりは、いつもより少しだけ無言だった。
「……どうした」
「ん?」
「さっきから静かだけど」
「考えごと」
「珍しいな」
「失礼だなあ」
笑いながらも、どこか上の空だ。
しばらく歩いてから、ひよりはぽつりと呟いた。
「ねえ」
「うん?」
「悠真くんってさ」
「何」
「誰にでもああなの?」
足が、ほんの少しだけ止まる。
問いの意味は分かる。
だが、答えは単純だった。
「普通に話してるだけだけど」
「……そっか」
ひよりは小さく頷く。
そのまま少し歩いてから、ふっと笑った。
「じゃあ、いいや」
「何が」
「ううん、なんでもない」
そう言って、少しだけ距離を詰める。
「ねえ、明日も一緒に食べよ」
「……まあ、いいけど」
「やった」
嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、悠真はそれ以上何も言わなかった。
◇
一方で。
九条麗華は、自室の机に向かっていた。
開かれたノートの上で、ペンが止まっている。
「……一番、近い」
昼の言葉が、頭から離れない。
認めたくはない。
だが否定もできない。
「……くだらないですわ」
小さく呟く。
だが、その声には昨日ほどの棘はなかった。
むしろ――
「……なら」
ペン先が、静かに動く。
「距離を詰めればいいだけの話ですわ」
その結論は、あまりにも単純だった。
そして。
それが新たな火種になることを、まだ誰も知らない。




