第4話 優しさは、ときに火種になる
昼休み。
教室の空気は、昨日までとは明らかに違っていた。
神代悠真が席に座った瞬間、何人かの視線がこちらに流れる。あからさまではないが、確実に“意識されている”視線だ。
原因は分かりきっている。
生徒会長。副会長。九条麗華。
関わるべきではない名前が、すでに三つも並んでいる。
「悠真くん、お弁当」
そんな空気を無視するように、ひよりが隣の席を引いた。
昨日よりも距離が近い。
「……昨日より近くない?」
「そう?」
「そう」
「気のせいだよ」
気のせいではない。
だが本人に自覚がないのか、あるいはあえてなのかは分からない。
「ほら、一緒に食べよ」
断る理由もない。
いや、正確には断った方がいい気はするが、それで余計に話がこじれる未来しか見えない。
「分かったよ」
弁当を開く。
ひよりは嬉しそうに笑った。
その様子を見て、周囲の空気がまた一段ざわつく。
「完全に固定じゃん……」
「幼馴染ってああなるのかよ」
「いやでも相手あの神代だぞ?」
声は小さいが、聞こえている。
悠真は箸を動かしながら、内心でため息をついた。
――やっぱり面倒だ。
そのときだった。
「……随分と楽しそうですわね」
聞き覚えのある声。
顔を上げると、九条麗華がこちらを見下ろしていた。
相変わらず整った立ち姿。だが、その瞳には明確な不快感が宿っている。
「別に普通ですけど」
「普通、ね」
麗華はゆっくりと一歩近づく。
「昼休みに特定の異性と密着して食事をするのが、この学園では“普通”ですの?」
「密着はしてないだろ」
「してますわ」
即答。
ひよりは少しだけ首を傾げてから、にこっと笑った。
「えっと、九条さんだよね? 一緒に食べる?」
空気が止まった。
周囲のざわめきが、一瞬だけ消える。
その一言が、どれだけ場を乱すか分かっていないのか――分かっていてやっているのか。
悠真には判断がつかなかった。
麗華の目が細くなる。
「……結構ですわ」
「そう? 楽しいよ?」
「その“楽しい”の基準が違いますの」
冷たく言い切る。
ひよりは少しだけ困ったように笑った。
「そっか。じゃあ仕方ないね」
あっさり引く。
だが、そのままでは終わらなかった。
「でもさ」
ひよりは、ほんの少しだけ声を落とす。
「悠真くんと話してると、ちゃんと話聞いてくれるから楽しいんだよね」
その言葉に、周囲がざわつく。
“ちゃんと話を聞いてくれる”。
それは何気ない一言のはずなのに、妙に重みがあった。
麗華の表情が、わずかに変わる。
「……それは」
言いかけて、止まる。
ほんの一瞬だけ、言葉を選んでいる顔だった。
「誰でもできることですわ」
「そうかな?」
ひよりは首を傾げる。
「意外とできないよ? 途中で否定したり、話変えたりする人、多いし」
「……」
「悠真くんは、最後まで聞いてくれるし」
そこまで言ってから、ひよりは少しだけ笑う。
「ちゃんと“分かろうとしてくれる”から」
その言葉は、静かに響いた。
麗華は黙る。
否定するでも、肯定するでもなく。
ただ、じっと悠真を見る。
「……そうですの」
短く返す。
だが、その声はさっきよりもわずかに低かった。
「でも、それが良いことだとは限りませんわよ」
「え?」
「誰にでも同じように接する人間は、誰からも特別には見られない」
鋭い言葉だった。
ひよりの表情が、一瞬だけ揺れる。
だが。
「それでもいいと思うけどな」
悠真が、ぽつりと口を開いた。
自分でも、なぜ言ったのかは分からない。
ただ、今の言葉に対して、そのままにしておくのは違う気がした。
「特別じゃなくても、楽な方がいいだろ」
「……」
「無理して特別になるより、そのままの方がいいと思うけど」
教室が、静まり返る。
ひよりが目を丸くしている。
麗華もまた、何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ていた。
「……本気で言ってますの?」
「本気ですけど」
間髪入れずに答える。
数秒の沈黙。
そして――
「……理解できませんわ」
麗華は小さく息を吐いた。
「ですが」
そこで一度、言葉を切る。
「少なくとも、打算で言っているわけではなさそうですわね」
「打算?」
「こちらの話ですわ」
それ以上は言わない。
だが、さっきまでの露骨な敵意は、確実に変わっていた。
「……失礼しますわ」
それだけ言って、麗華はその場を離れる。
去り際、ほんの一瞬だけひよりを見た。
その視線には、さっきとは違う意味が含まれていた。
◇
「……悠真くん」
しばらくしてから、ひよりが小さく声をかけてきた。
「ん?」
「今の、ずるい」
「何が」
「普通に言ってるのに、なんか刺さるやつ」
「そんなつもりないけど」
「うん、分かってる」
ひよりはくすっと笑う。
「だからずるいんだよ」
意味が分からない。
だが、さっきよりも距離が少しだけ近くなっていた。
◇
その日の放課後。
「聞いた?」
「神代、九条とやり合ったらしいぞ」
「しかも普通に言い返したって」
「いやあれ絶対計算だろ……」
「完全に掌握してるじゃん……」
噂はさらに歪んで広がっていた。
◇
生徒会室。
「衝突しました」
篠宮が淡々と報告する。
「早いわね」
セレスティアは楽しそうに笑った。
「どっちが仕掛けたの?」
「九条麗華です」
「でしょうね」
納得したように頷く。
「で、結果は?」
「……九条側が引きました」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
「へえ」
セレスティアは興味深そうに目を細めた。
「もうそこまで?」
「本人は無自覚です」
「それが一番厄介なのよね」
くすりと笑う。
「いいわ。やっぱり、思った通り」
「どうしますか」
「何もしない」
即答だった。
「え?」
珍しく篠宮が聞き返す。
「放っておくのが一番動くから」
セレスティアは窓の外を見る。
「周りが勝手に絡んで、勝手に変わっていく」
その視線の先には、校庭が広がっていた。
「――あの子は、中心になるわ」
確信だった。
◇
帰り道。
「……あの」
背後から、控えめな声がかかる。
振り向くと、見覚えのある女子生徒が立っていた。
昨日、中庭で話した――あの子だ。
「えっと……昨日は、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「ああ、別に」
「おかげで、その……ちゃんと話せました」
少し照れくさそうに笑う。
それだけのことだ。
ただ、それだけのはずなのに。
「……なるほど」
少し離れた渡り廊下の陰で、九条麗華は足を止めていた。
見ようと思って見たわけではない。
ただ、帰り道がたまたま重なっただけだ。
そう自分に言い聞かせても、目の前の光景は否応なく視界に入ってくる。
頭を下げる女子生徒。
困ったように受け流す神代悠真。
あまりにも自然で、あまりにも作為がない。
「……本当に、そういう人ですのね」
皮肉でも嫌味でもなく、独り言のように漏れた。
麗華は、自分でも気づかないうちに指先へ力を入れていた。
教室でのやり取りだけではなかったのだと理解する。
あの男は、誰に見せるでもなく、誰かの心に入り込む。
目立とうとしているわけでも、取り入ろうとしているわけでもない。
だからこそ、厄介だった。
「……気に入りませんわ」
そう呟いた声は、しかし以前ほど強くなかった。
反発に似た感情の奥に、別の色が混じり始めていることを、麗華自身まだ知らない。
一方で。
その少し手前、昇降口へ続く廊下の角で、栗原ひよりもまた立ち止まっていた。
女子生徒が頭を下げるのを見て、悠真が困ったように笑うのを見て、胸の奥がほんの少しだけざわつく。
「……ああ、そっか」
小さく呟く。
悠真くんは、私だけに優しいわけじゃない。
そんなこと、最初から知っていたはずなのに。
知っていたはずなのに、面白くないと思ってしまった自分に、ひよりは少しだけ驚いた。
けれどその驚きは、すぐに笑みに変わる。
「でも」
誰にも聞こえない声で、そっと続ける。
「一番近いのは、私だもんね」
その自信が、どこまで本物なのかはまだ分からない。
ただ一つ確かなのは。
神代悠真が知らないところで、少しずつ誰かの感情を動かし始めているということだった。




