第21話 理性は、崩れるためにある
翌日。
神代悠真は、教室に入った瞬間に空気の違いを感じた。
原因は分かっている。
昨日、ひよりと過ごした時間。
それが、何も変わらないはずがない。
「おはよ」
ひよりが、いつも通りに声をかけてくる。
だが、その“いつも通り”が少しだけ違う。
距離は近いまま。
けれど、無理に詰めてこない。
代わりに――
“ここにいる”という確信だけが強くなっている。
「おはよう」
悠真が返す。
それだけで、ひよりは満足そうに小さく頷いた。
◇
「……なるほど」
少し離れた席から、九条麗華がその様子を見ていた。
冷静な視線。
だが、その奥には明確な意識がある。
「一歩、踏み込みましたわね」
誰に聞かせるでもない独り言。
だが、その内容は正確だった。
◇
「神代くん」
昼休み前。
麗華が声をかける。
「はい」
「本日、お時間をいただけます?」
「またか」
「ええ」
迷いはない。
「昨日の件を踏まえて、少し整理したいことがありますの」
その言い方は、いかにも彼女らしい。
「……分かった」
断る理由はない。
むしろ、ここで向き合わなければ意味がない。
◇
昼休み。
中庭には、今日もいつもの面子が集まっていた。
だが、今日はどこか静かだった。
ひよりは無理に距離を詰めない。
凛も、必要以上に踏み込まない。
セレスティアは、ただ観察している。
そして――
麗華だけが、はっきりと意識を向けていた。
◇
放課後。
校舎裏。
人通りの少ない場所。
「ここなら問題ありませんわね」
麗華が言う。
「問題っていうか、もう慣れたな」
「慣れないでくださいまし」
即座に否定される。
だが、そのやり取りもどこか少し柔らかい。
◇
「単刀直入に言いますわ」
麗華はまっすぐに言う。
「昨日のあなたの行動、見ていました」
「……ひよりのことか」
「ええ」
否定しない。
「どう思った?」
「どう、とは?」
「簡単ですわ」
少しだけ目を細める。
「わたくしと、何が違いましたの?」
◇
核心だった。
悠真は少しだけ考える。
だが、誤魔化す意味はない。
「……分からない」
正直に答える。
◇
「……そうですの」
麗華は、一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げる。
「ですが、それでは困りますわ」
「困るって言われても」
「わたくしは理解したいのです」
その言葉は、はっきりしていた。
◇
「昨日、分かりましたの」
麗華は静かに言う。
「わたくしは、ずっと“勝つこと”を前提に考えていました」
「……」
「ですが、それでは足りない」
小さく息を吐く。
「理由を並べても、説明はできても」
そして。
「“なぜ気になるのか”が説明できない以上、それは本質ではない」
◇
「……難しいな」
悠真が呟く。
「ええ」
麗華も否定しない。
「非常に面倒ですわ」
その言い方に、少しだけ苦笑が混じる。
◇
「では、逆に聞きますわ」
麗華は一歩だけ距離を詰める。
「わたくしといるとき、あなたはどう感じていますの?」
「どうって……」
悠真は考える。
ひよりとは違う。
凛とも違う。
セレスティアとも違う。
それぞれ違うが――
「……疲れる」
正直に言った。
◇
沈黙。
そして。
「……正直すぎますわね」
麗華は小さくため息をついた。
「でも、間違ってない」
自分で認める。
◇
「では、もう一つ」
麗華は続ける。
「それでも、話したくなくなることはありますの?」
「……いや」
すぐに答えた。
「それはない」
迷いなく。
◇
麗華の目が、ほんの少しだけ揺れる。
「……そうですの」
その一言に、わずかな温度が乗る。
◇
「つまり」
麗華は整理するように言う。
「楽ではないが、離れたくもない」
「……そうなるな」
「面倒ですわね」
「さっきからそればっかりだな」
「事実ですもの」
◇
「ですが」
麗華は、少しだけ声を落とした。
「それでいいのかもしれませんわね」
「……?」
「楽なだけの関係では、ここまで残りませんもの」
その言葉は、静かに響いた。
◇
「ねえ、神代くん」
「うん?」
「わたくし、やり方を変えますわ」
まっすぐな視線。
「勝つためではなく」
一拍置く。
「理解するために動きます」
◇
「……それ、余計難しくならないか?」
「ええ」
即答だった。
「ですが、その方が正しい」
迷いはない。
◇
「……ほんと、面倒だな」
悠真が呟く。
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
麗華は、ほんの少しだけ笑った。
それは、今までで一番自然な表情だった。
◇
「それと」
麗華は続ける。
「一つだけ、お願いがあります」
「内容による」
「逃げないでくださいまし」
シンプルだった。
「……逃げてるつもりはない」
「つもり、ですわね」
即座に返される。
◇
「ですが」
麗華は言う。
「これからは、逃げる余地が減ります」
「なんで」
「わたくしがそうするからです」
静かな宣言だった。
◇
夕方の光が、二人の間に差し込む。
影が伸びる。
完全には重ならない。
だが、確実に近づいている。
◇
神代悠真は、初めて“理性で構築された関係”が崩れ始める瞬間を見た。
そして。
それが、思っていた以上に強いことにも気づき始めていた。




