第2話 観察者は、見逃さない
翌朝。
神代悠真は、教室の扉を開けた瞬間に後悔した。
視線。
昨日とは比べ物にならない数の視線が、こちらに集まっていた。
「……うわ」
思わず小さく声が漏れる。
理由は分かっている。昨日の一件だ。
生徒会長・天城セレスティアに呼び出され、副会長の篠宮凛にまで顔を覚えられた。その場にいたクラスメイトだけでなく、どういう経路か知らないが、すでに他クラスにも話が回っているらしい。
人の噂は早い。しかもだいたい、事実よりも面白く脚色される。
「おはよ、悠真くん」
そんな空気を気にする様子もなく、ひよりが手を振ってきた。いつも通りの笑顔。だが、今日は少しだけ距離が近い。
「おはよう」
「すごいね。もう有名人だよ」
「やめてくれ」
「でもほんとに何もないの?」
「何もない」
「ふーん……」
納得していない顔だ。
ひよりはじっと悠真を見つめてから、ふっと小さく笑った。
「まあいいや。悠真くんが嘘つくときって、ちょっとだけ目逸らすもんね」
「今逸らしてないだろ」
「うん。だから多分ほんとなんだろうなって」
あっさりと引かれると、それはそれで拍子抜けする。
だが、そのやり取りを見ていた周囲の視線はさらに強くなっていた。
「距離近くない?」
「完全に特別枠じゃん……」
「昨日のあれ見たらな……」
ひそひそとした声が聞こえる。
やっぱり面倒だ。
悠真が内心でため息をついた、そのときだった。
「神代くん」
背後から、静かな声がした。
振り向くと、教室の入口に一人の女子生徒が立っている。
黒髪を肩で揃えた、冷静な目の少女――篠宮凛。
生徒会副会長。
昨日、廊下で会ったばかりの相手だ。
教室の空気が一瞬で張り詰める。
「……何か用ですか」
「少し、時間もらえる?」
断れる雰囲気ではない。
悠真はひよりに軽く手を上げてから、篠宮の方へ歩いた。
廊下に出ると、彼女は無駄のない動きで壁際へ移動する。人通りはあるが、会話の内容までは聞かれない位置だ。
「昨日のことなんだけど」
「はい」
「あなた、本当に偶然であの言葉を選んだの?」
いきなり核心だ。
悠真は少しだけ考える。
だが、答えは変わらない。
「偶然っていうか……その場で思ったことを言っただけです」
「相手が何を求めてるか、考えた?」
「まあ……多少は」
「多少、ね」
篠宮は腕を組み、わずかに視線を細めた。
「普通は、ああいう場面であそこまで踏み込んだ言葉は出ない」
「そうですか?」
「そうよ」
即答だった。
「泣いてる相手に対して、“正しい言葉”を選ぶのは難しい。下手をすれば余計に傷つけるから」
「……」
「でもあなたは、迷いなく選んだ」
静かな声だが、圧がある。
観察されている、というより、分析されている感覚に近い。
「別に深く考えてないですよ」
「そういうところが一番厄介」
さらりと言い切られる。
悠真は言葉を失った。
篠宮は少しだけ視線を逸らし、それからまた戻す。
「ねえ、神代くん」
「はい」
「あなた、自分が何してるか本当に分かってないの?」
「だから、それ昨日も――」
「分かってないならいい」
途中で遮られた。
彼女は小さく息を吐く。
「そのままでいて」
「は?」
「変に意識される方が困るから」
「いや意味が――」
「少なくとも、今のままの方がまだ扱いやすい」
言い方がひどい。
だが、その表情は冗談ではなかった。
「……一応聞きますけど、俺ってそんなに危険なことしてます?」
「してる」
また即答。
「無自覚で人の感情を動かすタイプは、一番厄介」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない」
篠宮は一歩近づいた。
距離が少しだけ詰まる。
「昨日の子、あなたの一言で立ち直ったわよ」
「それはよかったですけど」
「問題はそこじゃない」
「じゃあどこですか」
「依存される可能性があるってこと」
その言葉だけ、少しだけ低くなった。
悠真は、そこで初めて少しだけ理解する。
ああ、そういう見方もあるのかと。
「……気をつけます」
「無理ね」
「即否定ですか」
「だってあなた、気をつけるタイプじゃないでしょう」
「……まあ」
否定できない。
篠宮は小さく肩を竦めた。
「とりあえず、もう一つだけ」
「はい」
「生徒会長に気に入られた理由、分かる?」
「全く」
「でしょうね」
ほんの少しだけ、口元が緩んだ気がした。
「じゃあ教えない」
「いやそこは――」
「自分で考えて」
そう言って、彼女は踵を返す。
去り際に一度だけ振り向いた。
「……でも一つだけ忠告」
「なんですか」
「あなたが思ってるより、この学園は単純じゃない」
それだけ言い残して、篠宮凛は人混みの中へ消えていった。
◇
教室に戻ると、空気が一段と重くなっていた。
「おかえり」
ひよりが笑顔で迎える。が、やはり目が笑っていない。
「副会長と何話してたの?」
「普通の会話」
「どこが普通なのか教えてほしいんだけど」
「俺も知りたい」
席に座ると、周囲からの視線がまた刺さる。
そして、その中に明確な敵意が一つ。
「……随分と楽しそうですわね」
九条麗華だった。
腕を組み、明らかに不機嫌そうな顔でこちらを見ている。
「別に楽しくはないですけど」
「生徒会長に続いて副会長とも個別に会話。十分すぎるほど楽しそうですわ」
「誤解です」
「誤解で済ませるあたりが気に入りませんの」
どうやら何を言っても気に入らないらしい。
麗華は一歩近づき、机に手をついた。
「忠告はしましたわよね。誰にでもいい顔をしていると、痛い目を見ると」
「だからしてないですって」
「してますわ」
即答。
「少なくとも、そう見えるのですもの」
そこで初めて、彼女の視線がひよりへ向いた。
ほんの一瞬だけ。
だが、その意味ははっきりしている。
「……面倒だな」
思わず本音が漏れた。
麗華の眉がぴくりと動く。
「なんですって?」
「いや、状況が」
「状況を作っているのはあなたでしょう」
「俺ですか?」
「ええ。少なくとも、そう見えますわ」
完全に外堀が埋まっている。
悠真は頭をかいた。
その様子を見ていたひよりが、ふっと小さく笑う。
「悠真くん、ほんとに大変そうだね」
「他人事だと思ってるだろ」
「うん、ちょっとだけ」
楽しそうだ。
助ける気はないらしい。
◇
その日の放課後。
校内のあちこちで、同じ話題が飛び交っていた。
「神代悠真って知ってる?」
「一年の? 生徒会長と話してたやつ?」
「副会長とも繋がってるらしいぞ」
「え、なにそれ怖」
「九条麗華ともバチってるって聞いたけど」
「何者だよあいつ……」
事実はほとんど含まれていない。
だが、噂としては十分すぎるほど魅力的だった。
◇
「……だから言ったでしょう」
帰宅後、沙夜は呆れを通り越して諦めた顔をしていた。
「まだ二日目よ?」
「俺もそう思う」
「それでこの状況って、もう確定じゃない」
「何が」
「アンタ、普通にしててもトラブル呼ぶ体質」
「不本意だな」
「でしょうね。でも事実」
ソファに座ったまま、沙夜は足を組み替える。
「で? 今日は誰に目つけられたの」
「副会長」
「増えてるじゃない」
「俺のせいじゃない」
「アンタのせいよ」
きっぱりと言い切られた。
悠真はため息をつく。
「どうすればいいんだよ」
「無理にどうこうしようとしないことね」
「それでいいのか」
「いいわけないでしょ。でも、下手に動くと余計悪化するタイプよアンタ」
それは少し分かる気がした。
余計なことを言えば言うほど、状況がこじれる予感しかしない。
「とりあえず」
沙夜は少しだけ真面目な顔になる。
「一人で抱え込まないこと」
「抱え込むほど何もしてない」
「それが一番危ないのよ」
意味が分からない。
だが、彼女の言葉はいつも少しだけ当たる。
「……分かった」
「本当に分かってる顔じゃないけど、まあいいわ」
立ち上がった沙夜は、軽く手を振る。
「せいぜい気をつけなさい。アンタの“普通”は、他人には普通じゃないってことだけは覚えておきなさいよ」
その言葉だけが、やけに残った。
◇
同じ頃。
生徒会室。
「やっぱり、あの子だったわね」
天城セレスティアは、窓の外を見ながら小さく呟いた。
「篠宮さん、どう思う?」
「厄介です」
即答だった。
「無自覚であれなら、なおさら」
「そう」
セレスティアは楽しそうに微笑む。
「だから面白いのよ」
「……関わるつもりですか」
「ええ」
迷いはない。
「放っておいたら、勝手に誰かを壊すか、誰かに壊されるわ」
「それを防ぐために?」
「半分はね」
残り半分は、言わなかった。
だが篠宮には分かる。
この人は、“興味を持った”。
「近いうちに、生徒会に呼ぶわ」
「強引にですか」
「少しだけね」
窓に映る自分の顔を見て、セレスティアは小さく笑う。
「だって――あの子、絶対に逃げるでしょう?」
その読みは、正しかった。
そして同時に。
神代悠真が、この学園で“逃げ場を失っていく”未来もまた、静かに確定し始めていた。




